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臓器も骨髄も角膜も血液も~17歳 これって自己肯定感高いの?低いの?~


あなたは人に臓器をあげたいと思ったことはありますか?
これは初めて臓器提供に興味を持った15歳から、高校、大学、就職、転職、独立、結婚、出産、離婚などを経験し、新たに出会ったパートナーが腎臓移植が必要な人であったという15歳から50歳までの(現在も更新中)日記です。



■17歳

16歳で臓器提供に興味を持った私は、もちろん献血にも興味を持った。
どうやら、私は自らのなにかを他人に提供することによって、自分の存在意義を見つけ出そうと思っていた、、のかどうかはわからない。

高校に献血車が来て、希望者は授業中に献血に行くシステムだ。
が、しかし私は血圧の上が100に満たないためいつもオレンジジュースだけ渡されて教室に帰ることのほうが多かった。

高校の3年間は、先生に指名された学級委員長という役割により、クラス全体を見渡す癖がついた。
修学旅行の班決め、発表会のグループ分け、文化祭の役割分担など、学校というところはとにかく分類したがる場所だ。
そんな時、必ず一人になる子がいるんじゃないか、グループに入れない子がいるんじゃないか、そればかり気になった。

グループになじめない子に声をかけて私がグループを作る。
私はどの子ともうまくやれる。
自己肯定感がひどく高かった私は、
そう思いながら体が勝手に動いていた。

問題が起こるとみんな私に相談してきた。
相談もあれば、話を聞くだけというものまで、多岐にわたった。

「おじいちゃんがお母さんにひどいことを言う。どうしたらいい?」
「あの子がカンニングしている。なんとかしてほしい。」
「先生にパーマを落とせって言われた。先生だってパーマかけてるのに。」
「この髪型、生徒に嫌われるのかな?変えたほうがいい?」
「あの子の彼氏と付き合おうと思うの。」
「赤ちゃんが出来たみたい。どうしよう。」

家庭の問題から学校の問題、ヤンキーからまじめな子、先生からも。
深刻なものから幼稚なものまで、
問題を解決するというより、わたしはいつもひたすら聞いていた。
朝まで電話に付き合うことなんかしょっちゅうだった。
一緒に泣くことだってたくさんあった。
みんなは話すことで楽になり、私は聞くことで楽になった。

部活では私は音楽部に所属していて、部長だった。
みんな文化祭に向け、一生懸命衣装を作った。
リハーサルもばっちり、あとは本番を待つだけ。

文化祭前日、顧問に呼ばれ、衣装はボツになった。
突然のことだった。
他の部活もみんな制服だから、音楽部だけ衣装はだめだとのこと。
そんなの聞いてない!!
私はカァーっとなり怒りと絶望に襲われた。

しかし、心の中からすぐに別の声が聞こえるのだ。

「顧問の気持ちもわかってあげなければいけない。
ここで顧問を責めても仕方がない。
顧問だってできればみんなに衣装を着せてあげたいだろう。
だって、みんなの頑張りを知っているんだから。
それにもしも、ここで顧問が頑張って上を説得して、
音楽部だけ衣装をOKにしたら、今度は他の部活に説明がつかないだろう。」

そう思うと、悔しさを声に出して言えなかった。

もっと早く言ってくれればよかったのに。
前日ではなくて、もっと早く言ってくれればよかったのに。

私は心の中だけで怒った。

部員には私が説明した。

みんなそれはそれは怒った。
悔しくて泣いた。
どなった。

そして、校長室に直訴しに行くと音楽室を飛び出した。

走り出す仲間を、私はを止めた。
止めてしまった。


後日、部員の一人に言われた。
私はこの言葉を一生忘れないだろう。

「部長に一緒に怒ってほしかった!
止めてほしくなかった!
あの時一緒に校長室に直訴しに行ってほしかった!」

そうか。
大人になってはだめだったんだ。
感情を飲み込まず、大人の事情を理解せず、
この時はいっしょに校長室に怒りに行けばよかったんだ。
もっとしっかり高校生らしく大声を出せばよかったんだ。

大人の立場に立ったり
子どもの立場に立ったり
生きるとは難しい。

でも、私はこうやってもめごとや間に入ることや
話を聞くことはまったく苦ではなかった。

みんなの話を聞くという事は、必要とされているから。
「誰でもいいから聞いてほしい」
誰でもいい。
それでも私を選んでくれたことに喜びを感じていた。

自分の存在意義を知りたい。
自分の存在価値を知りたい。

ひょっとするとこのころの私は自己肯定感が高かったわけではなく
恐ろしく低かったのかもしれない。

私はみんなに頼られることで生かされていた。

だから私が死んだあとでさえ、臓器が誰かの役に立つなんてそんなうれしいことはないと思っていたのだ。







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