「天気の子」再考 反対意見を聞いて

 前回の「天気の子」論評を出した事を契機に、天気の子を見に行った友人から色々な話を聞く機会が出来ました。その中で、あまり良く感じなかったという人の指摘した点が共通している事に気が付きました。これについて自分の個人的解釈を述べていきたいと考えています。もう言うまでもないとは思いますがネタバレ注意です。また前回の記事を読んでいないと理解しづらい点もあるので前回の記事を先に読むことを推奨いたします。

 「天気の子」において友人が指摘した問題点というのは以下の通りです。

①帆高の家出の理由が明らかになっていない
②拳銃がなぜそこにあったのかが説明不足
③陽菜が天気の巫女になった必然性が描かれていない
④「君の名は」の登場人物が長々と出てきた

 この4点について紹介と個人的所感を論じていきたいと思います。


①帆高が家出をする理由が明らかになっていない。

 作中において主人公の帆高が家出した理由は明示されていません。ただ一言帆高が「息苦しくって」と言った程度に留まります。新海監督と川村プロデューサーのインタビューを見る限り敢えて描かないという選択を取ったと書かれています。どこかで見た凡庸な理由で家出したと観客に思われたくないというのが、帆高の過去を描かなかった理由のようです。


 ただ、明示をしなかっただけで匂わせている場面がありました。フェリーで東京に向かう際の帆高の顔は傷だらけの状態でガーゼなどをつけている描写がありました。つまり帆高は何者かから暴力を受ける状態にあったことが推察できます。また入学式の写真が作中に出た際に帆高と父親のみが写っている事から母親は死別か離婚した事も確率的に高いと考えられます(日本の労働事情において男女格差の関係から、男性よりも女性の方が休暇を取りやすい。しかし写真には母親ではなく父親と思わしき人物が写っており確率論として母親が家庭にいないのではないか、という蓋然性の推理)。ある方の批評では、帆高の家出の理由は同級生からのいじめか父親の家庭内暴力が原因ではないかと述べているのを見かけました。私は父親の虐待説を取っています。同級生からのいじめという発想がその批評を見るまで思考が至らなかった為です。
 ただいずれにおいても帆高くんが何者かから暴力を受ける状態から逃避する為に家出したという点は読み取れるので、家出する理由に関してはある程度は明らかであっただろうというのが個人的な所感です。


②拳銃がなぜそこにあったのかが説明不足

 作中でお金が無くなった帆高がキャバクラの入り口うずくまっている時に、キャッチの男に足を引っかけられてゴミ箱を倒してしまった時に出てきた拳銃。一度は陽菜に叱責され廃ビルに投げ捨てたものの後半にまた登場することになります。警察の二人組が捜査をしている中で何らかの取引で隠してあったのだろうというようなセリフが見られましたが、それだけで軽く流されたことに引っ掛りを感じる方がいるようで非常に驚いた印象があります。個人的な所感として、この拳銃の存在は「そこにあった理由」よりも「それが何を意味しているのか」という象徴的意味を考える方が重要だと考えています。
 作中で陽菜が風俗のキャッチに案内をされているのを見かけて、帆高が恐がりながらも鞄の中に入っている拳銃の存在を思い出し、陽菜を助けに行った場面がありました。この時の帆高は拳銃を持っているからという安心感もあり陽菜を助けるという行動を起こすことが出来ました。なのでこの拳銃にはマッチョイムズとしての象徴的な意味合いがあると感じました。
 マッチョイムズとは『男性がもつという「強靱さ、逞しさ、勇敢さ、好戦性」といった性質を基礎とした思想や信条、行動をあらわす言葉(wiki引用)』です。筋肉ムキムキの人間をマッチョと言いますがそれの語源とも言われています。帆高はいわゆる普通の男子であり成人男性のキャッチ二人に到底勝てるワケがありません。しかし、拳銃という道具は引き金一つで人を殺せる手軽で強大な権力です。成人男性二人VS男子一人という不利な状況をひっくり返す強大な力を秘めています。そして作中ではキャッチの男にマウントを取られた帆高が発砲することによって逃げ出すことが出来ました。なのでこの場面では帆高は拳銃というマッチョイムズを使うことで陽菜を助けるという目的を達成することが出来たのです。しかし廃ビルまで逃げた後、帆高は陽菜から「人を殺すところだった」責められます。ここで帆高は拳銃というマッチョイムズを投げ捨てます。拳銃という誰かを傷つける攻撃性、それが間違いであったという事を自覚してその場で年相応の子供として泣いていた。そんな帆高に声をかけたのは戻ってきた陽菜でした。
 ここで強調しておきたいのは帆高は父性と母性を受けられていない子供だという事です。子供が男性性や女性性という物を親からの父性や母性から学んでいくとすれば、家出をして両親が現時点で不在の帆高はそれらを喪失しています(更に踏み込めば前述の母親の死亡の類推、父親から虐待を受けているという推理が成り立てば、帆高は真の意味で母性を受けられず女性性を学べておらず、男性性においては暴力と力こそが男性的という誤った価値観を持つことになります)。帆高は拳銃というマッチョイムズを使って陽菜を助けましたがそれは人を殺す可能性もある道義的にも問題のある行為、いわば誤った男性性のあり方でした。そしてそれを非難し誤っていると気付かせ、子供のように泣いている帆高にやさしく声をかけた陽菜は模範的な女性性のあり方です。つまり帆高はそれまで喪失していた母性を陽菜からようやく受けることが出来たのです。そして作中で帆高は、陽菜が自分より年下であったという事実を警官から知らされます。そこから、それまで守られるだけだった帆高が陽菜を助ける為に自発的に動き始める。ここで帆高は父性に目覚め、喪失した男性性を取り戻し始めます。陽菜を助けるという決断を下して警官を振り切って走り始めるのです。圭介に向けて放った二度目の弾丸は陽菜を見殺しにしようとする大衆にたいする道義的な怒りの象徴です。しかし帆高は怒りに囚われるが故に、自身に拳銃を向けた警官に突撃しようとする。そこに陽菜の弟である凪が駆け付けて帆高に言います。

「こうなったのは全部お前のせいじゃねえか!!」

 帆高がやるべきことは怒りを叫び正義に殉ずる事ではなく、あくまで陽菜を助けるという責任を果たす事です。もしも自分の怒りに身を任せて殉じれば、それは帆高と対比されて描かれた無責任な大衆と変わらなくなってしまいます。帆高は凪の言葉で正気を取り戻し、窓の外の階段から屋上を目指しました。そして帆高は陽菜を助けるという使命を成し遂げて責任を果たすという模範的な男性性を獲得することが出来ました。 母性の象徴である陽菜、人生経験豊富な年下の先輩と慕った凪。この二人が誤った男性性を選びそうになった帆高を助けてきたのです。「天気の子」には、そうした帆高の人格形成、喪失した人間性を取り戻す側面もある。その象徴的意味合いとして拳銃が舞台装置として使われた意味を考える方が意義があるというのが個人的所感です。
 余談ですがこれは友人と話をしていて生み出された論です。その中で友人は「天気の子は帆高くんが中折れした男性性を再びいきり立たせる話」とまとめました。的を得ているけど表現の仕方が天才的に最悪だな、と感じました。


③陽菜が天気の巫女になった必然性が描かれていない

 これが私を最も悩ませた指摘でした。要は陽菜が天気の巫女として選ばれた理由、陽菜と帆高が雨の中光を指す場所を見つけられた理由、ここが明示されない以上、従来のセカイ系のイヤな流れから脱却できていないように感じる、というものでした。イヤな流れというのは設定や主人公を取り巻く世界を抽象化させているセカイ系の特徴の事を指すのでしょう。この指摘には私も頭を抱えて明確な解釈ができませんでした。しかしあるnoteの記事を読んでこの指摘に対してある程度の解釈をできる可能性を感じました。

 引用した記事は『生贄である陽菜を帆高が奪還したにも関わらずなぜ二人は無事にもどってこれたのか』という事をテーマに書かれた記事です。陽菜のチョーカーが切れていた場面は、「天気の巫女」という役目から「解放」された陽菜と手錠をはめられこれから「拘束」される帆高を対比して描いている程度の認識だったので、この論には非常に感銘を受けました。
 さて、この記事の中で神社のおじいちゃんが話していた天気の巫女の伝承は中国の「掃晴娘」の伝説をモチーフにしているのではという言及がありました。読んでみると雨を止ませるために龍神が妃にする生贄を捧げろと村人に言い、実際に村娘を捧げたら空が晴れたという内容で、まさに元の記事で指摘している通り天気の子そのものだと感じ驚きました。
 ともすれば疑問の一つ目「なぜ陽菜が天気の巫女にならなければいけなかったのか」は解決できそうです。理由は「若い女の子であれば誰でも良かった」で間違いないでしょう。若い女性であれば誰でも天気の巫女になる資格を有していた。つまり、生贄が陽菜である必然性など全くない無い為、その必然性を考える事自体が無駄というのが私の個人的所感です。強いて追及するのであれば「掃晴娘」の伝説になぞらえれば生贄は龍神の妃になる為に女性である必要がありますが、若い女性でなくても問題なさそうなものです。なぜ「若い」必要があるのかを考察する意義はありそうですがこれはもうアミニズム文化や民俗学の領分になると考えているのでこれ以上の追及は「天気の子」の考察の趣旨から逸脱すると考えています。敢えて仮説を挙げるのであれば

①若い女性を捧げれば長く神に奉仕できるため、次の生贄を捧げるまでの猶予を長めに得られる
②若い人間は古来、コミュニティにおいて最も価値がある存在(働き手、子供を産める猶予が長いetc)であったため神に捧げる生贄の位として最も価値があると考えられていた。

 この二つ辺りが妥当性が高いように感じますが、より深い考察は専門の民俗学専攻の方々にお任せした方がいいでしょう。それよりも私は二つ目の疑問である「陽菜と帆高が雨の中光を指す場所を見つけられた理由」の方が重要であると考えています。
 陽菜は母親が入院する病室の窓から、雨の中一か所だけ光が差す場所を見つけました。そしてそこに行くと小さな祠を見つけ、晴れた空を母親に見せたいと願った際に天気の巫女として空と繋がった。そして帆高も雨の中一か所だけ光が差す場所を追いかけていったらそれが島の外だった。これらが作中で描写されたことです。仮に第一の疑問である「なぜ陽菜が天気の巫女に選ばれる必然性があったか」が誰でも良かったで真に正しかったとしても、この光指す場所が陽菜と帆高にしか見えていない現象であれば、結局運命の二人という陳腐なまとめ方に帰結してイヤなセカイ系の雰囲気を感じてしまうかと思います。結論から申し上げれば別に帆高と陽菜にしか見えていない訳ではなかったが、そこに行こうと考える感受性を持っているのが陽菜と帆高しかいなかったというのが個人的所感です。私は前回の記事で無関心な大衆と帆高という二項対立の比較で論じて来ました。そして作中ではそれを匂わせるような描写があります。例えば帆高がフェリーで大雨の警報が鳴ってから、船内へと戻っていく人々に逆らって甲板に出ていく場面があります。これはこれから対立軸として描かれていく大衆と帆高の差異を表しています。船内に戻っていくのはいわゆる一般的な大衆、インサイダーを表しています。そして帆高はそれらと真逆の行為を行うアウトサイダー、いわゆる仲間外れの存在です。これが家出少年という帆高の立ち位置を描写しており、社会から見て異質な存在として描かれています。転じて陽菜と帆高が通常の大衆とは違う視点で世界を見ているという事が描写されていると解して良いでしょう。直接的な根拠ではないですが新海監督はインタビューで大衆の見る世界と陽菜や帆高が見る世界が違う事、意識の差がある事を間接的に述べています。(後述の引用動画、2分37秒~参考)


 余談ですがそのアウトサイダーである帆高を助けた圭介は雨に濡れないまでも、甲板というアウトサイドに最も近いインサイダーでした。これが前回の記事で述べた圭介の人物像、アウトサイドからインサイドへと行くために藻掻いている大人という姿勢に合致します。
 話を戻しましょう。帆高のセリフを借りるなら作中で描かれる大衆は「知らないフリ」をする他者に対して無関心な存在です。その根拠は前回の記事で論じたので省略しますが、要はそうした光が差す場所にも無関心な大衆と、そうした場所に気付ける感受性がある陽菜と帆高という対立構造がここでも暗示されているというのが個人的所感です。恐らく大衆にもこの光が差す場所は見えているはずです。しかし気付いたとしても精々インスタグラム用に写真を撮るか、一瞥して仕事や遊びに戻るでしょう。それ故にこの意識の差は、陽菜、帆高と社会との間に存在する明確な差異となるのです。

④「君の名は」の登場人物が長々と出てきた

 新海監督は自身の作品がバットエンドと言われている事について「自身はそう考えてはいない」とインタビューで答えています。

 いつの間にか有料記事になっていて戸惑っていますが、前に読んだ時の事を思い出して要約すれば「映画とはキャラクターの人生の一部を切り取ったものであり、その人生はこれからも進んでいくので映画という局所的な一部分でグッドエンドやバッドエンドと断ずるべきではない」と新海監督は考えているようです。その思想を基に考えれば「君の名は」のキャラクターが、「天気の子」において主人公たちを助ける導き手の様な役割で現れるのはなかなかにエモい演出なのだろうなと感じました(ちなみに私は「君の名は」見視聴勢です)。
 しかしこれに関して友人(新海作品殆ど視聴済み)は次の様に述べました。

「いやね、「君の名は」の時はその世界の一員として没入して観れたんだよ。でもね、「天気の子」で瀧くんが長々と出てきてね、いやきっと「言の葉の庭」の先生みたいに声が似てるそっくりさん程度に匂わせてるだけと思ったらさ、エンドロールに瀧くんって書かれてるしさ。もうその瞬間にさ、それまでは没入感バリバリで見てたのに瀧くん出てきた瞬間にさ、俺が見てるのは結局映画なんだなぁって!! 感情移入が途切れちゃったんだよねぇ……。」

 「その視点があったか!」と頭を金づちで叩かれたような感覚でした。前回の記事で触れましたが、新海監督の緻密な新宿の風景描写は帆高や陽菜に降りかかる理不尽や苦難を他人事にように思わせず、説得力や没入感を生み出す効能があると私は考えていました。しかしそれらの効能が他作品から登場人物を出すスターシステムの利用によって一時的に断絶するという効果については全く思い至りませんでした。これに関しては恐らく「君の名は」を観ずに「天気の子」を見た人間と、新海作品を一通り見てから「天気の子」を見た人間とで受け取り方の差が大きく開きそうだな、と感じました。この指摘に関しては個人的にとても面白かったため紹介をさせていただきました。帆高と陽菜の苦難を他人事に思わせないためにも没入感は本作品においては重要な要素だと思うのですが、それが一度断絶するのであれば惜しい部分であると言わざるを得ません。スターシステムにもそうした功罪があるという事が知れたのは個人的にとても面白いな、と感じました。

終わりに

 友人の意見を聞いて色々と解釈を考えていた中で、参考になる記事を見つけて取り急ぎこの記事を書きました。衝動的に書いてしまった為に乱文気味になってはいますが、大まかな疑問点はこの解釈で落としどころが見つかるであろうと考えています。前回の記事では触れられない点にも言及できたので満足しています。「天気の子」を見た友人たちの話を聞いていて感じたのは、否定的な感想や肯定的な感想という受け取り方の違いはあれど論じる面白みや価値は十分にあるという共通認識があることでした。作品自体を楽しむ一次的な楽しみ方から、作品について論じあうという二次的な楽しみ方がコミケやインターネットの普及で大きく広がったという東浩紀の論を肌で感じられてとても楽しかったという感想文で、本論の結びとさせていただきます。以上


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