「天気の子」から見る功利主義の否定と抵抗権

「天気の子」を見ました。
とても批評や作品分析の甲斐がある作品だと考えています。
しかし批評とネタバレは不可分ですから少々気後れをしていたのですが、公開から結構時間がたったのでそろそろネタバレをしても許されるだろうと考えています、というかします。

論点

私が「天気の子」を見て感じた事は大量にあるのですが主旨を逸脱して乱文になるのも嫌なので題材を絞って論じてみようと思います。

①功利主義の否定
②ロックの抵抗権の推奨

今回はこの二つをキーワードに論じていきます。私はこの『天気の子』を非常に肯定的に評価しています。その理由は以下の通りです。

①既存のセカイ系という設定にアレンジを加えることで受け手にメッセージを訴えかけるための有効な思考装置に昇華させた点。
②帆高は自身の居場所に苦悩する思春期の少年、就活に苦戦する夏美はこどもから大人に変わるモラトリアム期の青年、圭介は理不尽を受け入れながら社会に適応しようと必死でもがく大人、というようにキャラクターそれぞれに各視聴者層に引っ掛るフックを大量に作っている点。
③場面一つ一つに意味が込められている事、無駄の無さ。
④メッセージに共感するかどうかはさておき、これらがバランスよく作用し作者のテーマを効率的に表現している点。

今回の議論に関係するのは①と②になるかと思います。
本題に入る前にこれらの前提が共有されていない場合に論が成立しないため、これらに触れながら議論を進めていきます。

天気の子はいわゆる『セカイ系』

ヒロインの陽菜は空に祈る事で局所的にではありますが天気を晴れにする事が出来ました。主人公であり家出少年の帆高は東京が異常気象で雨が降り続いている事から、陽菜のこの能力に目をつけ、共に天気を晴れにするビジネスを開始して収入を得ることに成功します。そうして花火大会の当日に晴れにする依頼を行った際、大々的に陽菜の事が世間に知られてしまった為、帆高は仕事をキリの良いところ休業します。そこから紆余曲折合った後、陽菜は天気の巫女として空と繋がってしまった事、そして晴れにする能力の代償として自身の身体が消えていく事が発覚します。その際に陽菜が告げた残酷な真実は「私が消えれば空は晴れる」というものでした。帆高はその話を聞いて泣きながら言います。「天気なんて晴れなくてもいい」「金なら俺が稼ぐから陽菜さんはもう働かなくていい」と。しかし翌日には能力を使い過ぎてしまった為に、陽菜は空へと連れていかれてしまいました。

この構図はいわゆるセカイ系と呼ばれるジャンルに該当しており、セカイ系というモノがどのような意味を持つのかを理解する必要があります。
端的に言えば主人公又はヒロインの感情、意思決定、問題が直接的に世界や宇宙の存亡に直結する物語構造の事を指します(東浩紀の定義)。
更に乱暴に言ってしまえば「ヒロインを犠牲にして世界を救うか、世界を犠牲にしてヒロインを救うか」というような二者択一の物語のことです。
今回の天気の子は冒頭から大雨が降り続き、東京が大規模冠水を起こしている場面が何度も描かれています。陽菜を犠牲にしてこの異常気象を止めるか、それとも陽菜を選んで異常気象を受け止めるか。この点が「天気の子」がセカイ系と称される理由です。しかし「天気の子」が一般的なセカイ系と異なるところは、陽菜と天秤にかけられる世界というモノが緻密に描写をされている点です。

通常のセカイ系は主人公を取り巻く限定的な環境(これを「世界」と対比して「セカイ」と称している)での出来事がそのまま世界の存続に直結します。その為に世界に対面している脅威や敵の正体、また主人公を取り巻く国家や組織の動向といった本来存在すべき社会の存在が最大限まで希釈、または触れられないという状況が珍しくありませんでした。しかし「天気の子」では帆高や陽菜の視点を通して多く描かれています。風俗のキャッチに心ない暴力を振るわれる帆高、両親を失い弟を養う為に風俗に身を売ろうとした陽菜。子供である二人には過酷な状況であることは言うまでもありません。晴れ女のビジネスで人々に感謝をされ、ようやく社会に居場所を見出した二人でしたが、こんどはメディアに取り上げられた事で好機の目を向けられるようになります。その後は帆高を探す警察なども現れ、帆高を住み込みで働かせていた圭介からも「もう来ないでくれ」と一方的に別れを切り出されます。なんとか社会と繋がった二人は、再び社会から絶縁をされたのです。「天気の子」で描かれる『世界』とは、懸命に自分の居場所と繋がりを作る子供達に対して苦難を与え続ける存在でした。

余談ですがこれらを更に補強する要素として、新海誠作品の特徴とも言われる緻密な新宿の情景描写、そして高収入バニラなどの印象的なスポンサーのモチーフを装置として組み込んだ点が挙げられると思います。新宿の風景においては「知っている場所の風景が出た!」と思った方も多いでしょうし、スポンサーの商品やモチーフを多用する事で俗さや現実感を感じた人もいたかと思います。こうした現実で見慣れた要素を散りばめる事で、帆高と陽菜の置かれた逆境をアニメの中のフィクションだと切り捨てられない説得力を持たせる狙いがあったのだろうと考えています。

圭介という存在

話を戻しましょう。
帆高に手切れを言い渡した圭介は家で一人酒をして酔いつぶれていました。そこに訪れた親戚の夏美に圭介がその事を話すと、夏美は怒って圭介を非難します。そうした出来事の後に圭介は以下のような事を言います。

「人一人の犠牲でみんな丸く収まるなら、そっちの方がいいだろ」

圭介は帆高が家出を諦めて家に帰れば他の人々に迷惑がかかる事もなく丸く収まる、というミクロ視点での趣旨でこう述べました。しかし、映画を視聴した人ならこの発言が陽菜を犠牲にして東京という社会が助かる、というマクロ視点での二者択一の問題に対する社会の返答だと感じた方もいたのではないでしょうか。私はこの解釈は妥当だと考えています。

まずこの解釈の正当性を説明する為には、圭介という人間がどのような存在なのかを分析する必要があります。
作中の説明で圭介は帆高と似ているという夏美の言及があります。10代の頃に東京へ上京し、仕事をしながら知り合った女性と結婚。娘を儲けるも妻は事故で先立ってしまう、というのが明示された来歴でした。上京時の年齢は帆高と一致しますし、妻を失った事は帆高が物語の途中で陽菜を失う部分も合致します。しかし重要なのは、圭介は帆高と同じように社会に傷つけられながらも社会に適応しようと足掻いている人間だということです。圭介もまた社会の中で必死に居場所を探そうとしています。記事を売るために出版社に電話を掛けながらも相手方からぞんざいに扱われる場面などがそれです。圭介は物語の終盤で、陽菜を救うためにビルへと訪れた帆高に大きな壁として立ちはだかります。静止を振り切り陽菜の元へ行こうとする帆高を殴り圭介は言います。

「いい加減大人になれよ!」

しかし圭介自身もこれが本意でないことは、年寄りの警官との会話で帆高の話をしている時に無意識に涙を流していたことから明白です。本意ではないが、社会で生きていくには大人になるしかない。大人になるには自分を押し殺すしかない。帆高は圭介にとってのかつての自分でした。圭介は社会に適応する為にそれを押し殺し、社会の理不尽も諦めて受け入れようとしていた。圭介は社会や警察という権威に従い適応しようとする者、だからこそ冒頭の圭介の「人一人の犠牲でみんな丸く収まるなら、そっちの方がいいだろ」という発言は社会の代弁としての効果を持つのです。しかしそんな圭介に対して帆高が引き金を引いて叫びます。

「みんな何も知らないで!知らないフリして!」

その時、圭介は押し殺していた過去の自分と再び対面することになります。そしてそこに銃声を聞きつけた警官が現れて帆高を拘束します。もちろん警察は悪くはありません、事務的に職務を全うしているだけです。しかし知ろうとすらしない姿勢、これが結果的に帆高と陽菜を追い詰めてきました。この知ろうとしない姿勢というのは警察だけにのみならず大衆全般を指しています。作中で陽菜を助ける為に線路を走る帆高を嘲笑する人々の姿がありました。彼らは線路を走るという社会から逸脱した行為を指して笑っているわけですが、なぜ帆高が線路を走らなければいけない状況になったか、そこまで思い至る人間はいません。もちろん「そんなのは現実的ではない」という指摘はもっともです。この忙しい現代社会においてイレギュラーな行為を起こす他人の心情や動機を理解する余裕などない。仰る通りだと思います。しかし、この言説には大きな矛盾があります。他人の心情を推し量る余裕がない癖に、どうして他人の行動を笑うために足を止める余裕があるのでしょうか?

我々は推理小説の読者の様に全能ではありません。切り取られた一部分の描写のみを目撃して生きている。ある時にはその限られた情報の中で意思決定を強いられることもあるでしょう。しかし、例えばの話、Twitterで炎上をしている自分に縁もゆかりもない人間を、自称クソ忙しいせいで他人の心情を理解する余裕の無い人間が叩きに行くのは何故なのでしょうか、そしてどこにそのような余力が生まれるのでしょうか。理由は簡単です。本当は余力がないわけではなく、知らないフリをした方が都合がいいからです。義憤、集団との一体感、自身の正義の実感、様々な自身の利益の為に彼らは知らないフリをするのです。さながら作中の警官なら「自身の労働負担の軽減」、大衆なら自分たちはマトモだという「集団の一体感」といったところでしょう。そうした社会全体の知らないフリ、無関心が個人の権利を脅かしていく誤った功利主義の根幹にある事を示唆しています。私はこれらを観てデヴィッド・フィンチャーの『ファイトクラブ』の一場面のセリフを思い出してしまいました。

「この男が疑問にも思わずやってきたこと、それが悪を生んできた」

対して圭介は帆高の心情が痛いほど分かります。それを理解した上で帆高を説得して丸く収めたいと思っていました。しかし目の前では理解しようとしない警官が帆高に手を上げて制圧しようとしている。苦しみを知っている圭介は叫んで警官を殴りつけます。

「何も知らねえテメエらが、そいつに触るんじゃねえ!」

「天気の子」の批評において、帆高と陽菜を通じて新海誠は若者にメッセージを投げかけているとよく言及されています。しかし私には圭介を通じて「大人になってしまった」人々に対してもメッセージを発しているように思えてなりません。「失って大人になってしまった我々が出来る事は、若者が大切なものを失わないように手助けすることだ」と、私には新海誠がそう投げかけているように思えてならないのです。

功利主義の否定

圭介の「人一人の犠牲でみんな丸く収まるなら、そっちの方がいいだろ」という発言は功利主義の思想、もっぱらジェレミ・ベンサムの量的功利主義に近い考え方です。量的功利主義とは「一人一人の個人の幸福の総和が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきだ」という考え方です。この考え方には「一人の個人による犠牲が他の個人の幸福を増加させ、社会全体の幸福を最大化させるならば道徳的という結論になる」という批判があります。もちろん提唱者のベンサムは個人の犠牲を良しとしない但し書きを設けましたが、結果として前述のような全体主義的な誤った用法で用いられることが多いように感じます。さて、それらを踏まえた上で「天気の子」を改めて見ていくと「陽菜を犠牲にして晴れという日常を取り戻す」か「陽菜を救って異常気象を放置するか」の二択になります。前述の通りのセカイ系の二者択一状況ですね。そして圭介の発言から社会の総意としては「陽菜の犠牲で東京が晴れた際に東京都民が今まで以上にハッピーになるのならそれでいいじゃん」という功利主義的結論であることが伺えます。ここで「陽菜を助けたい帆高」と「陽菜を犠牲にして日常を取り戻したい社会」の二項対立が発生します。この構図は個人と社会の対立構造です。更に言えば、陽菜という個人の犠牲を社会が強いているという強烈な人権侵害が発生しているのです。帆高はそれが間違っていると確信しています。だからこそ公権力である警察に追われながらも抵抗して陽菜を救いました。その結果、東京は降り続く雨で水没して首都機能を失う結果となります。陽菜という個人を救った事で東京という社会を犠牲にしたのです。この結末は誤った功利主義を真っ向から否定するものです。

本来、社会とは各個人の人権を保障するものです。それが個人を犠牲にして全体に利益をもたらそうとする。そんなのは間違っているだろう、理屈をこねてもっともらしく受け入れて大人ぶるのは止めろというメッセージのようにも取れます。私は「天気の子」の優れているところはセカイ系が元来全く描かなかった『世界』という物の立ち位置に東京都という詳細に描写された社会を置くことで、セカイ系の二者択一構造を、個人の権利を取るか社会の利益を取るのかという思考装置として分かりやすく落とし込んだ点にあると評価しています。陽菜が天気を晴れにするという特殊能力を持っている事で、現実の個人ではありえない社会への影響力をキャラクターが備えることになります。問題点を分かりやすくしたり議論のイメージをつきやすくする為に趣旨に反しない程度に設定を極度に単純化することは思考実験でもよく用いられる手法ですが、陽菜のこの天気の能力設定は正にそれに当たると考えています。

「まあ一個人が社会にそんな大きな影響を与える事ってまずないけどさ! 仮に! 仮にさ! もしそういう状況になったとして! 罪のない女の子の命と社会の利益、お前ならどっち取る?」


そして私はこの雨による水没をロックの抵抗権の行使に通じるものがあると感じました。


ロックの抵抗権


抵抗権とはジョン・ロックが自身の著書である『市民政府論』の中で述べた概念です。いわゆる社会や国家はどのように成立するか、という社会契約説についてのロックの考え方が書かれています。ロックは「国家は個人からの信託があって始めて成立する」という思想を持っていました。自分たちの身の安全や権利が保障されるからこそ国家を信頼して従うのだという事です。国家を信頼して個人は自らが持つ2つの権利を国家に委任します。それが立法権と執行権です。立法権は文字通り法律を作る権利、そして執行権は法を犯したものを捕まえて裁く権利です。ロックは国家がこの二つの権利を乱用して個人の権利を脅かすのであれば、個人は抵抗権という正当な権利の元に国家を打倒して権利を剥奪することができるとしました。これが抵抗権の概要です。

上記の説明の中で挙げられていた「国家」や「社会」は共同体を指しますので水没した東京都で置き換える事も可能です。ここで思い出していただきたいのは、作中において警察や児童相談所といった行政が陽菜と帆高に恩恵をもたらした描写が一回でもあったのかという事です。私の記憶の範囲では一回も無かったと思います。更に言ってしまえば陽菜が風俗のキャッチに絡まれている状況や、帆高がキャッチの男にボコボコに殴られている状況に置いて「なんでそもそもそこで助けに入れねえんだよ無能かよ!」と鑑賞中にブチ切れていた覚えがあります。行政が本来助けに入るべきところで機能を果たさず、関与しなくてもいいところで機能して邪魔をする構造、これはマートンが提唱した『官僚制の逆機能』に他ならないでしょう。本来帆高や陽菜といった未成年は制度的趣旨から一般成人よりも優先的に保護されるようになっています(少年法の存在や児童相談所などはまさにこれです)。しかし実際には帆高がボコボコにされてから警察が動いたり(しかも帆高の銃刀法違反容疑の捜査の側面が大きい為、真の意味での保護の意味合いが薄い)、帆高や陽菜という孤独な人間同士が繋がって居場所が出来たのに児童相談所の訪問によってそれが脅かされたりと、青少年を助けるための制度がかえって二人を追い込んでしまう機能不全を起こしているのです。そして警察は、陽菜を助けようとした帆高を捕まえようとしたことで、間接的に陽菜を殺そうとしたという事は再三書いているのでもうご理解いただけると思います。つまり、こうした社会の機能不全により陽菜と帆高は社会に自身の権利を脅かされたことで抵抗権を行使する条件が満たされた。陽菜を助ける事によってふたたび降り始めた雨は抵抗権という概念の可視化であり、その結果東京は水没して首都機能を失った。転じて抵抗権の行使によって立法権と執行権が剥奪され、東京という社会が崩壊したという思考の流れです。

新海誠が若者に対してのメッセージを「天気の子」に仕込んでいるのは間違いないでしょう。そのメッセージの一つとして、これは親でも友人関係でも学校でも職場でもなんでもいいのですが、自身を守ってくれない、または脅かそうとしている上位存在に従順に迎合し続ける必要はないというメッセージの様に感じられました。実際、学生アルバイトを食い物にした労働法違反行為など無知な子供をターゲットにした違法行為は現実に存在しています。そうした理不尽に対して「でも、逆らったって仕方ないし・・・・・・。自分にも落ち度はあるし・・・・・・」と泣き寝入りをしてきた大人になってきたのが圭介です。しかしこのような慣習が続いていけば大人は子供たちに「いや、でも自分たちは受け入れて生きてきたから」と、理不尽や違反を受け入れさせようとするでしょう(前述の通り、圭介の大人になれよ発言はまさにこれです)。陽菜のような特殊能力は持っていないにしても、我々人間には生命や権利を脅かす相手に抵抗をする権利があるのだということを東京の水没という象徴的な結末で訴えかけているように思えるのです。


結論

「天気の子」のメッセージは子供だけに向けられたものではありません。むしろ大人に対してこそ重い道義的責任を訴えかけています。それ故に一部批評で見られる「天気の子は従来のセカイ系同様に、周りの見えていない子供が正常な判断を持たずにイタ恥ずかしい行動を美化した作品」という考察は、作品文脈の明らかな誤読であると断言します。そのボーイミーツガールの心情を真に描きたいのであれば、新海誠は東京都新宿という現実の地方自治体を舞台にしてロー・ファンタジーの設定で作品を作らなかったはずです。全くの異世界を舞台にしたハイ・ファンタジー設定で「世界や制度が変わってもやっぱり愛は不滅だぜ! ラブ&ピース!」とか言わせておけば良いだけです。それでも新海誠がそれをせずに新宿という舞台を選んだのか、なぜ圭介が帆高と似ているという情報を何度も残しているのか、なぜ雨で東京を沈没させる展開にしたのか。文脈から作者の意図を想定し要素を勘案した結果、誤った功利主義の思想を用いて個人の権利を踏みにじる行為の批判と、相手が間違っていると自身が確信しているのなら異を唱えて抵抗をする権利があるのだというメッセージが込められていると結論付けました、以上。

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