見出し画像

私は「愛」がわからない

なんで、簡単に「愛する」ことができるんだろう

つい最近、「愛は時間がかかる」植本一子という本を読んだ。
EDMRというトラウマ療法(私も受けたことがある)の記録なのだけど、
とても読みやすい文章で一気に読んでしまった。
この本はエッセイみたいな感じで読めるので、トラウマがない方にもオススメしたい。
そして、この本のタイトルがすごくしっくりきた。
タイトルに惹かれて購入したと言っても、過言ではない。

私は「愛」という概念が、いまいちよくわからない。
例えば、パートナーから「愛してるよ」と言われたとしても、
多分、意味が分からず(正確には脳の思考回路がついていけずに)、キョトンとしてしまう。

でも、世の中では「愛する」とか「愛してる」という言葉や気持ちは何の疑いもなく飛び交っている。
それが、私にはとても不思議でならない。

「好き」だけじゃダメなのか

「好き」という感覚は私なりには理解できる。
私も、これ(物質的なもの)が好き!この人はなんとなく好き!という感情はある。
英語に変換してみると、直訳すると「好き」は"like"になる。
「すごく好き」だったら、”like a lot of"とかになるんだと思う。
ここまでは、私の感覚でも理解できる。

そこで、問題の「愛」である。
これは、"love"になるのは疑いようもない。
ここで、私の中に理解不能の壁が出現する。
だから、私には”I love you"が意味分からない。

単に、文化の違いもあると思う。
明治以前、今のような文脈で語られる「愛」という言葉は日本にはなかった。
西欧の言葉が輸入されたタイミングで、日本に入ってきた概念なのだ。
かの有名な、夏目漱石が"I love you"を「月が綺麗ですね。」と訳したという逸話も、
「愛」という感覚が当時の日本人にはわかりにくかったからだろうと想像できる。

でも、「好き」っていう言葉があるのに、なんで「愛する」なんてあるんだろう。
しかも、「愛する」の方が余計重い気がして、私は責任を持って使えない。

それでも、「愛」にこだわる私

「愛」って、一言だけど、種類は様々だ。
友愛、恋愛、博愛、溺愛、情愛とか
そういうの全部ひっくるめて、人は人を「愛する」のだろうか。
そして、なぜそれを相手に伝えるのだろうか。

本当に「好き」な人(恋愛だけでなく)に、恥ずかしさではない、謎の責任感と覚悟を持たないと、
「好き」と伝えられない私に、「愛」への道のりは遠い。

でも、こうやって思いを巡らせているのは、きっと「愛」を知りたいからだと思う。
知るものではないのかもしれない、感じるものなのかもしれない。
実はもう、満たされすぎていて、当たり前すぎて、失った時に気づくのかもしれない。

きっと、私の中のセンサーの一つが故障してしまっているのかなと思う。
そのセンサーを、今、やっと治しはじめたってことには気付いてる。
正直、「愛」を感じる前に、いっぱい自分の中の向き合いたくなかった「恐怖」とも向き合い合うのだろう。

きっと、きちんと「愛」への執着を言語化できる日はずっとずっと先になるのだろう。
でも、そんな日がやってくるような気がしている。

そう、愛は時間がかかるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?