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わたしはばいきん

新型コロナウイルス陽性反応が出た。

37.5℃の軽い熱と、寒気、咳、鼻水、そして喉の痛み。
これらの症状が出たとき、わたしは当初「あ、風邪ひいちゃったな」としか思っていなかった。

というのも、発症の前日、わたしは友人と北国に旅行へ行き、雪遊びをしていたからだ。散々雪にまみれていたので、体を冷やして風邪を引いたのだ、と。

コロナは鼻水やのどの痛みなどの症状はほぼ出ないとインターネットに書いてあったし、コロナにかかった友だちのほとんどが経験したという味覚や嗅覚の異常もなかったので、まず風邪で間違いないだろうと思っていた。
まあこのご時世だし、安心するために、と念のため検査を受けたのだった。

なかなか繋がらない保健所の窓口に午前中いっぱい電話をかけ続け、受診可能な近くの発熱外来を教えてもらった。

検査は病院の駐車場傍に造られた隔離空間で行われた。小窓で仕切られた隣の部屋からスタッフさんが、「具合悪いとこ申し訳ないのだけど、問診票描いてくださる?」と髪とペンを渡してきた。彼女は素手だった。

わたしは、ここに来て少し不安になった。
感染者かもしれないのに、直接手渡ししてしまって良いのだろうかと。

もちろん、相手はプロだ。消毒などの対応をしているに決まっているが、わたしはもっと厳重に厳格に、保菌者として扱われることを覚悟していた。

というのも以前、別の病院で自費のPCR検査を受けたとき、「どこにも触るな、話すな、こちらを向くな」と防護服を二重に着たスタッフさんたちに指示され、「ああ、感染者ってばいきんなんだ」と思ったことがあったからだ(ちなみにその時は陰性だった)。

今回の病院の看護師さんたちはわたしを人間扱いしてくれた。

病院のあり方としてどちらが正しいのかわたしにはわからないが、「辛いねえ。陰性だといいねえ」と優しく言葉をかけられた時にはうっかり泣くかと思った。

結果が出るまでの10分間。
きっと大丈夫だ、と祈りながら待合室で待機した。

これは、甘い考えだった。

冒頭書いたように、結果は陽性。
無知なわたしは知らなかったが、オミクロンはほとんどが通常の軽い風邪のような症状が出るのだった。

慌てて職場に連絡し、直近2週間の体調や行動履歴の報告に追われた。
その期間は年末年始の休暇中であったため、忘年会や新年会などのイベントが多く、わたしは大半の日を出歩いて過ごしてしまっていた。あげく、コロナが感染拡大する中で旅行に行くなんて、本当に大迷惑な馬鹿者だった。

旅行はもちろんキャンセルも考えたのだが、取り消し料が一人3万円かかると聞き、断行してしまった。

これだけ周りのみんなも遊んでいるから大丈夫。マスクをしっかりつけて、消毒をちゃんとしていれば大丈夫。これまでかかってこなかったのだから今回もきっと大丈夫。
無意識にそう思い込もうとしていた。

仕事は2週間ストップとなった。在宅でも一切勤務NGだ。
チームの人の仕事を増やしてしまうこととなり、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

検査から数時間後、保健所からの電話がかかってきた。感染者急増のため、電話での案内に大幅な遅れが出ているようだった。
保健所からの指示に従い、わたしは10日間自宅療養することとなった。

何よりつらいのは、濃厚接触者にも10日間(これでも14日間から短縮された)の自宅隔離を強いらなければならないことだ。同居家族に至っては、10日間のわたしの自宅療養期間終了後からさらに10日間待機をしないといけないので、20日間も自宅から出られないことになる。

自分が原因で他人の自由な時間を奪うことは本当に心苦しい。

有給を消化させてしまっていたらどうしよう。
在宅勤務できない仕事の人の給料が減ってしまっていたらどうしよう。
ハワイ旅行に行くと言っていたあの人の旅行がキャンセルになってしまったらどうしよう。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

「ねねのせいじゃないよ」「誰にでも起こりうることだから」「気にしないで」と励ましてくれる人が大半だったが、一度考えだすと自己嫌悪の沼から抜け出せなくなる。

自宅隔離の自室に一人。
見渡せば、ベッドから手の届く範囲に積み重なったゴミ袋の山。
リビングなどの共用部には踏み入れられないので、食事の用意や片付けすら自分でできず、家族に毎食配膳してもらう始末。

いい大人が何をしているんだろう。

わたしのせいで仕事に行けなくなった両親は、それでも文句ひとつ言わずに毎日わたしのために食事を運んできてくれる。
わたしは一人、ベッドの上で平日昼間から眠り続ける。

この数日、家族の顔を見れていない。

考えるな。考えたら病む。
だからわたしは、必死に漫画やインターネットの世界に逃げた。

ふとSNSを開けば、今も多くの友だちがかつてのわたしと同じように旅行へ行き、カラオケを楽しみ、居酒屋で飲んでいる。
中には、マスクすらせずに至近距離で大勢が騒いでいる動画も目にした。

どうしてこの人たちでなく、わたしだけがこの貧乏くじを引いてしまったのだろうと思ってしまう自分も少なからずいた。

わたしは極力人混みを避けていたし、マスク会食していたし、こまめに消毒もしていた。なのにどうして。
そんなせこくて情けない思いがもやもやと浮かんできた。

だけど、そんなことを嘆いていても仕方ないのだ。
どんぐりの背比べ。五十歩百歩。同じ穴のムジナ。

医療のひっ迫具合を真剣に受け止め、自分が感染者になるリスクを本気で考えている人たちにとっては、この感染局面で不要不急の用事のために出歩くわたしたちは、みんな等しくまとめて「ありえない」人たちなのだ。

感染していないのはたまたまラッキーなだけ。これまで感染してないからと言って、この先も感染しない保証はどこにもない。

「ねねちゃん感染したんだって」「うっそ」「ねねに会った友達とこの前会っちゃった。わたしも感染してたらどうしよう」
ここ何か月も会っていない人たちがそう噂する。

「こんな状況で旅行行くなんて何考えてるの」「自分の行動がどれだけ周りに迷惑かけてるか考えなよ」
ここ数年会っていない人たちがそう憤る。

わたしはばいきん。
今できることは、ただただ後悔して謝り続けることだけ。

療養期間中、荒れた部屋の中で、ふと、思い出したことがあった。はるか昔、小学生時代のことだ。

わたしのクラスには、「ばいきん」と呼ばれている男の子がいた。
その子は家が裕福でなく、いつも同じ服を着ていて、変な匂いがした。特別支援学級の子だった。

彼が近寄ってくるとみんな一斉に逃げた。
彼に触られたら、女の子たちはみんな悲鳴を上げた。
彼の机だけは、掃除の時間、だれも持ち上げて移動させようとしなかった。

それがいじめという自覚はなかった。
ただ、彼のことを汚い、汚れた存在だと本気で思っていた。触れられたら鳥肌がたってしまうほどに。

「汚い」「触らないで」「こっち来ないで」

そんな言葉のナイフを毎日投げられて、その子はいったいどんな気持ちだったんだろう。いつもへらりと笑っていた彼の心は、きっとズタズタに切り裂かれていたに違いない。

今、保菌者になって、ばい菌扱いされるつらさを少しだけ味わって、やっとほんの少しだけ彼の痛みに寄り添えるような気になった。

だけど、彼は風邪でもコロナでもインフルエンザでもなかった。
他の子たちと同じ、たった一人のクラスメイトだ。
ばいきんなんて呼ばれていいはずなかった。

当時は、何も感じなかった。ただ、みんなと同じように彼に反応していた。
わたしは、人の痛みを知るのに15年もかかってしまった。

わたしにとっては、もう15年も昔のこと。
でも、彼にとっては、たった15年前の出来事なのかもしれない。

今頃、彼がどこで何をしているのか知る由もないが、彼が愛する人と隣で笑いあっていることを願ってやまない。

勝手な願いでしかないが、この先、わたしたちのような心無い人たちに刃を向けられることがあったとしても、どうか、相手にしないでほしい。

邪悪な菌を持っているのはわたしたちの心のほうなのだ。

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