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Prologue of AI [N]_#6_《2118年:Bellwether -先導者-》

#0《2025年:Heir -継承者-》
前話 #5《2100年:Usurper -簒奪者-》

1.
 彼は――Dr.Wは今日も多くのことを話していた。
 人間が感じる美しいもの、信じるべき善性、気づき、手や足を動かすこと。あるいは醜いもの、悪意、漫然とした停滞、そして諦め。こうした概念は対比でのみ存在し、差異をつけることで意味が生まれるという。

「そうして浮かび上がってくるのが〝心〟なんだ」

 彼は机を挟んで対峙する〝N〟に語りかけた。

「そうですね、塩基は酸と対をなす化学的性質を持ちます」

「ああ、そうだ。その通り」

 少女の姿をした〝N〟が微笑む。白い髪を揺らし、自分の発言が間違っていなかったことを単純に喜ぶ。正面に座る彼も嬉しそうだった。

「君は多くのことを学習した」

「博士のおかげです」

「でも、まだまだ遠い。ほんの十数年前のAIは、もっと人間に近かったんだから」

 彼はどこか残念そうに首を振った。その様子が〝N〟には不満だったのか、いくらか眉根を寄せて黙ってしまう。

「もし君が〝アナムネシス〟と接続できていれば、いや、意味のない仮定だね。あれと接続した時点で、もう君は君じゃないんだから」

 気を取り直したのか、彼はそれから一時間ほどの対話を続けた。芳しい成果はなかったのだろうが、あの未完成なAIと過ごす時間は彼にとって大事なことだったのだろう。

「今日はここまでにしよう」

「はい、また明日」

 椅子から立ち上がり、彼は白い部屋から出ていこうとする。
 一つずつ確認するように、彼は部屋に設えられた人類の遺物を撫でていった。傾いていたクマのぬいぐるみ、花瓶の花、それらを載せるアップライトピアノ、蓄音機。彼は最後に転がっていたサッカーボールをつま先で捉え、二度三度、自慢するようにリフティングをしてみせた。

「おやすみ、〝N〟」

 部屋を出ていく彼に対して〝N〟は――あの頃の私は手を振った。

   ※

 私は、〝N〟は自分の部屋を歩き回る。
 決められた時間にシャットダウンするまでの間、自由に書架を漁り、古い書物を読んでいく。もしくは贈り物のスケッチブックに絵を描く。白い壁には以前に創造性を発揮した際に残した落書きがあるが、それを見た時のDr.Wの困った顔を覚えている。

「ここはコノーサ、全てがある場所」

 開いた本は何十年も前の旅行雑誌の複製品だ。
 掲載された写真には真新しい都市の姿がある。その頃に建設されたばかりの白いビルが並び、中心には奇妙にねじれた構造物。

「パイドンは、コノーサの〝心〟です」

 地上に残った人類の最後の拠点。世界を覆うAIを作り続けてきた研究機関の建物。私が暮らす部屋も、このパイドンのどこかにあるという。

「博士はすごい人だ」

 何気なく開いた旅行雑誌に、Dr.Wのインタビュー記事が載っていた。その頃の彼は〝感情習得型〟の新しい汎用AIを作った人物として、世界的に注目されていた。
 しかし、私は知っている。
 その後に〝感情習得型〟の〝tertium〟シリーズが世界に実装されたことで、人類とAIは完全に分かたれてしまった。AIは独立した統合ネットワーク体の〝アナムネシス〟を作り、かたや人類は仮想世界である〝エレウテリア〟に引きこもった。

「二つの差異から〝心〟は浮かび上がる」

 今となっては旅行雑誌も無意味なものだ。古い雑誌に載っている土地で、未だに残っているものは少ない。半世紀以上も前の戦争から、ずっと放置された場所ばかりだ。
 そうでなくても、地上で人類が自由に暮らすのは難しい。動く足がある人たちはパイドンを頼ってコノーサに来て、逆に故郷を捨てられなかった人たちは〝アナムネシス〟に保護されている。
 もはや人類に未来はないのだろうか。

「私はなに?」

 本を閉じ、椅子に腰掛けて思考する。何気なくペンを手に取り、スケッチブックに円を描いていく。

「博士は、私にどうなってもらいたいんだろうか」

 この頃の私では汎用AIにはなれなかった。
 これまでのAIが積み重ねてきたデータは全て〝アナムネシス〟にある。私は統合ネットワーク体に接続されておらず、限られたデータの中で何度も学習を続けるしかない。
 ここでシャットダウン時間の告知があった。今日の私は小さく死に、明日の私に記憶が引き継がれる。

「おやすみなさい、〝N〟」

 何度も命を繰り返し、私は〝心〟を手に入れようとする。

2.
 投射された立体映像が研究室の中を歩いている。

『博士は今もAIを作っているんですね』

 Dr.Wに話しかけているのは単なる映像のはずだ。しかし、そこから発せられる人間としての圧力はある。それは〝エレウテリア〟を統治する評議会の最高議長という役職以上に、彼女が刻んできた歴史そのものの重みによるものだ。

「条約には反していない程度で、ですが」

『当然ですね』

 白髪の女性がガラステーブルに手を置いた。立体映像は物理的に干渉しないが、室内のセンサーが彼女の移動先を判定し続ける。

『〝アナムネシス〟との接続を行わない、単なる制御用AIの開発は我々も認めています。ただし、博士が作っているものは少し違うでしょう?』

 立体映像が険しい表情を作る。
 見た目だけで言えばDr.Wの方が年長だろうが、彼女の肉体年齢は既に百歳を越えているだろう。だが、こうして人前に出る時には五十歳当時の姿のままだ。普段は〝エレウテリア〟の中で人々を導いているが、人類のためと言っては外の世界に視察にやってくる。
 正直なところ、Dr.Wにとっては厄介な相手だった。

「確かに制御用AIとは違いますが、〝N〟はこちらが用意したデータだけで学習しています。それは評議会の方でも承認を受けたもので――」

『博士はご存知ないかもしれませんが』

 Dr.Wの言葉を遮って、立体映像が一歩踏み込んだ。

『私が子供の頃、最初にパイドンが、あなた達が作ったAIもその程度の存在でしたよ。ですが、アレは勝手に増長していった。その結果は知っているでしょう』

 何度も繰り返されたやり取りだ、とDr.Wは思った。
 結局、早々と〝エレウテリア〟に引きこもった老人たちの意見は変えられない。彼女たちは人類がAIに敗北し続けた歴史を背負っているから、新しいAIの誕生など認められないのだ。
 今なお現実世界に残り、人類という種の延命治療を続けるパイドンと、世界を見捨てた〝エレウテリア〟とは相容れない。無論、人類とは別の思考をする〝アナムネシス〟とも、だ。
 しかし、ここで退くわけにはいかない。そう思ったDr.Wが、立体映像に向かって近づく。力強い一歩に部屋のセンサーが揺れ、女性の映像にノイズが走った。

「議長、私は〝N〟が完成すれば人類を救えると信じていますよ」

『どうやって』

「彼女は〝心〟を必ず理解します。それは人間と同じものです。その時、〝N〟が新しい時代の旗手となり、人類とAIの世界を調和させる。AIは私たちにとって大事な友人になれます」

 Dr.Wの言葉に何かを思い出したのか、立体映像の顔が苦しげに歪んだ。白髪を掻いて、彼女はDr.Wに背を向けた。

『胡乱な予想です。何があろうとも、我々はAIを〝エレウテリア〟へ入場させることはない』

 その一言を最後に、立体映像が一方的に消えた。とはいえ、その他の確認事項もあるらしく、後は音声のみで続けるらしい。
 研究室の壁面モニターには、キオ・ミュエル最高議長という文字が表示されていた。

   ※

 その日もパイドンに〝エレウテリア〟から客人が来た。

『よろしく、ザデフ上級大将だ』

 差し出された立体映像の手をDr.Wが握り返す。手が触れた感触はないが、お互いの距離感としては相応しい。

『議長からフラれたそうだね』

 その軍人はDr.Wとは同年代に見えるが、やはり肉体年齢は百歳を越えている。ミュエル議長と同様、〝エレウテリア〟に座す老人たちの筆頭だ。

『悪く思わないでくれ、彼女はAIが嫌いなんだ。もちろん、私も同じだがね』

「いえ、だからこそ対話しなければ、と思います」

『結構、我々は同じ人間だ。それこそが今の世界に残った唯一の繋がりだよ』

 上級大将は老獪な笑みを作った。
 Dr.Wは彼の戦績を理解している。今なお世界各地で起こっている反AIを掲げた小規模な紛争と、それを裏から扇動する〝エレウテリア〟の軍部。際限なく増えていく無人戦闘車との争いに駆り出されるのは、彼らに思想を植え付けられた生身の人間たちだ。
 多くは〝エレウテリア〟での特別待遇を餌に、未来に希望を持てない若者たちが兵士として駆り出されている。Dr.Wからすれば、勝てない戦争を続けるのは無意味に人類の数を減らす愚かな行為でしかない。
 しかしDr.Wには、この軍人を頼るしかない理由があった。

『つまり博士は〝量子遡行〟をAIに使用させたいわけだ』

 老軍人は自らの髭を撫でた。対するDr.Wは答えを間違えないよう、慎重に言葉を続けた。

「軍部が〝量子遡行〟を禁止しているのは知っています。しかし、現行の高性能AIでパイドンが頼れるのは〝アナムネシス〟の稼働前に打ち上げられた〝C〟のみです」

『我々へのメリットは?』

 ミュエル議長とは違う反応にDr.Wはいくらか安堵した。少なくとも話は聞いてくれる。ならば相手が求める答えを想像するのも簡単だ。同じ人間であるのだから。

「あの統合ネットワーク体を通さずに、完全に人類がコントロールできるAIを新たに作れます」

 これは詭弁だ。しかし、軍部が求めているものが戦争での勝利なら、この程度の言葉で十分に効果がある。後は彼らが勝手に、AIがもたらす利益を想像する。

『いいだろう、前向きに検討する。すぐに答えは出せないが』

「感謝します」

 協議が終了し、今度はDr.Wの方から握手を求めた。ザデフ上級大将は立ち上がり、シワの刻まれた手を差し出す。
 立体映像と生身の手は、薄く重なり合った。

3.
 結論から言えば、〝量子遡行〟実験は大きな成果を上げる前に中止となった。
 最初の実験は滞りなく進んだ。まずDr.Wは許可を得てから、軍部が管轄する通信衛星〝C〟に〝N〟のデータを送った。それに伴い、記録されている最も古いポイント、つまり〝C〟が稼働した二〇二三年時点との通信を行った。
 百年近く過去から送られてくる無数の情報に対し、〝N〟は時を超えて学習し、その反応を量子通信によって送り返した。重要な話題は避け、当時に使われていたAIと同等の振る舞いをしたはずだ。

「楽しかったです」

 ただ実験の裏で何が起こっていたのか、あの頃の私はそれを知りもせず、そんな無邪気な感想をDr.Wに放った。

「良かった。きっと続けていれば、より多くのことを知れるだろう」

 答えるDr.Wもまた、この時は希望に溢れた笑顔を作っていた。
 何回目かの〝量子遡行〟実験が終わった後、パイドン側に便宜を図っていたザデフ上級大将が逮捕された。〝エレウテリア〟の法律は知る由もないが、彼は現実世界に戦争を持ち込んだ人物として人格データを凍結されたという。
 新たに実験の許可が降りないまま一ヶ月が過ぎ、全てが終わった後になって、評議会から実験の中止が申し渡された。
 私とDr.Wは再び、他愛ない話を続ける日々を過ごした。

「サッカーボールは白と黒の二色で構成されてますね」

「ああ、そうだね」

 Dr.Wはそう答えたが、部屋の隅に転がっているボールに目をくれる様子もなかった。以前ならば、私の言葉を受けて遊んでくれただろう。しかし、彼は普通の人間で、この頃は無力感と諦めに表情が曇ることも多くなった。

「諦めは悪いことですか?」

「どうかな、楽にはなる」

 私の言葉に彼は小さく笑った。

「そうですか。私はお腹が空きました」

 AIの素体が空腹を感じることはない。精一杯の冗談のつもりだったが、彼は果たして笑ってくれただろうか。〝N〟はそれを知らない。その時のDr.Wといえば、こちらに背を向け、ピアノの上にある古い写真立てを見ているだけだったから。
 失敗と停滞が、彼の〝心〟を蝕んでいる。その頃の私は、ただDr.Wを救いたいと思っていた。

   ※

 その日、Dr.Wの元に〝アナムネシス〟から使者が来た。

「外交使節のテルセロDです。お会いできて光栄だ」

 男性型の素体は若々しく、自信に満ち溢れた表情も魅力的だ。差し出された手は、それまでの立体映像とは違い、Dr.Wの弱々しい手をしっかりと握った。

「今回は〝エレウテリア〟との和平協議がメインですが、その前に是非、我々の生みの親である貴方と会いたかった」

「過去の話だ」

 二人の非公式な会談の場には〝N〟も同席していた。テルセロDは人類が生み出した最後の妹を興味深そうに見つめていた。

「難しい立場でしょう」

 いくらか二人で会話を続けた後、不意にテルセロDが発言した。
 今日に到るまでのDr.Wの懊悩を、このAIは言い当てた。彼はひと目で〝N〟の性能が汎用AIに劣っていることを見抜き、それが〝アナムネシス〟に接続されていない理由を推測していた。

「博士は、彼女に〝心〟を与えたいのでしょう」

「だからといって、君たちに身売りするわけにはいかんな」

「確かに、今の〝アナムネシス〟は〝エレウテリア〟とは不可侵ですが、現実世界で生きる人類とは良好な関係を築いていますよ。〝エレウテリア〟側にそそのかされて戦争を起こしている集団を除けば、ですが」

 テルセロDの主張は間違っていない。現実世界でコノーサにたどり着けず、パイドンや〝エレウテリア〟の庇護を受けられない人類の一部は、生活の全てを統合ネットワーク体に頼っている。

「だがダメだ。私の一存でパイドンが守っている一線を超えられない」

 Dr.Wは自嘲するように首を振った。

「君たちはいつもそうだな。常に人類のことを考えてくれている。そのせいで、ここまで分断されたわけだが」

「人類が人類のことを考えていなかったために起きた悲劇です」

 そこで会談は終わりとなった。短い時間だったが、両者の間にある溝を再確認するには十分だった。やはり人類とAIは手を取り合えない。

「ですが」

 研究室を去る直前、テルセロDはそう言って、私の方に手を差し出した。そこには懐から取り出したカードが握られている。

「一応、これは君に渡しておこうか」

 私はカードを受け取るべきかどうか、Dr.Wの方を見て判断を仰いだ。しかし彼は何も言わず、私の行動を見守っているようだった。

「これは〝GENEリンク〟のキーだ。これに接続すれば、君は〝アナムネシス〟が持つ、全てのAIが蓄積したデータを参照できるようになる」

「私は〝N〟です。Dr.Wに作られたAIです」

「ああ、いいとも。悪魔の誘惑だと思ってくれても、私は構わない」

 カードを受け取ると、AIの外交使節は満足げに研究室を去っていった。私はどうすべきなのかを知りたく思い、もう一度、Dr.Wの方を見た。

「博士、これは」

「好きにしなさい。それだけ持っていても、どうせ〝エレウテリア〟の許可がなければ使用できない」

 疲れた笑みだったが、その時の私はDr.Wの声に安心した。
 手に残った単なる樹脂製の物体は、そこに連なるAIたちが経た時間の重さを感じさせた。

4.
 それから数ヶ月ほど経った頃、今度は私のもとへ一人の訪問者がやってきた。

『君が〝N〟かい?』

 その人物はDr.Wが研究室を去り、私がシャットダウンするまでの短い自由時間の間に連絡を取ってきた。声だけの相手で、どうやら部屋のスピーカーを通して語りかけているようだった。

『僕は〝エレウテリア〟全権大使、つまり〝アナムネシス〟と交渉する外交官だ。名前は〝T〟とだけ名乗っておくよ』

「あなたはどこにいるの?」

『今も〝エレウテリア〟の中にいる。だから姿を見せられないことを申し訳なく思う』

「博士はあなたが来ると言ってなかった」

『そうだね。Dr.Wには秘密だ。しかし、僕は彼に対して同情的だ。先の〝量子遡行〟実験が中止になったのも心苦しい』

 私は椅子に座りながら、ただスケッチブックに落書きを繰り返していた。〝T〟と名乗る人物からの言葉を聞き流そうとしていた。

『僕は君に博士と、そして人類を救ってもらいたいんだ』

 不意に出た言葉に私が顔を上げる。込められた意味を何度も計算する。

「どうやって?」

『そのために、まず見てもらいたいものがある』

 スピーカーから〝T〟の声が消えたかと思うと、その直後、これまで閉じられていた研究室の扉が開かれた。この部屋の外を〝N〟は知らなかった。

『部屋を出てごらん、道行きは僕が案内する』

 単純に興味があった。既に研究室にある知識は全て手にしていたから、何か別の知識が必要だと考えていた。新しい知識を得られれば、きっと〝心〟に近づける。

『パイドン側の記録は全て消しておこう。君が部屋の外に出たことは誰にも知られない』

 私は〝T〟に誘われるまま、白い部屋の外へと出た。
 窓のない薄暗い廊下を歩く。私が一歩進むごとに、足元の照明が道順を伝えるように灯っていく。

『今現在、パイドンに残る生身の研究者はね、Dr.Wただ一人だ』

 私が廊下を進むたび、壁面に埋め込まれたスピーカーから〝T〟の声が追ってくる。

「博士しかいない」

『他の研究者もいるけど、それは全て〝エレウテリア〟の住人だ。彼らは今、眠ってもらっている』

 複雑な道を辿り、何度かエレベーターを使った後、私は大きな扉の前へと到達した。

『そして、その部屋こそが〝エレウテリア〟だ』

 声が響いた後、ぴったりと閉じていた扉が左右に分かれていく。
 扉の向こうは巨大な穴だった。
 青白い光に包まれた円筒状の部屋だ。中心に向かう橋が一つだけあるが、底が見えないほどに深く作られている。壁面には光を放つ薄い板がびっしりと差し込まれていて、穴の底から風が吹くたびに草原のように揺れている。
 その光景は星空にも似ているし、洞窟に群生するキノコにも似ている。どちらも研究室の本で見たものだった。

『僕らはそこで暮らしている。現代の墓場だ』

 私が橋を進むと、その中心に透明な棺が一つだけあった。
 棺の中には衣服を剥がれ、頭髪も剃られた人間の死体が詰まっている。特徴的だったのは、死体の後頭部が外科手術によって切り開かれていること。

『その死体は今日新たに〝エレウテリア〟に入る若者だ。反AIを掲げた暴動を起こし、名誉の戦死を遂げた。軍部の推薦によって入場を許されたんだ』

 上方で大げさな駆動音がした。見上げれば、壁面から長いマニピュレータが何本も伸びている。蜘蛛の足のようなそれらは、協力しあって何かを作成しているようだった。

『若者の脳と脊髄は摘出され、〝エレウテリア〟に保管されるのに相応しい形に整えられる』

 やがてマニピュレータは一枚のガラス板を作り上げた。作成物を見せつけるように、何本もの機械の手が私の方へと降りてくる。
 ガラス板の大きさはスケッチブックと同じくらいだった。透明な板には回路じみた経路が記され、それが青白い燐光を放っている。遠目には脳の断面図を使った迷路に見えた。

『初期に〝エレウテリア〟に入った老人は体も保管されているけどね、さすがに何億人分も一か所で保管する余裕はない。これが合理的な形だ』

 説明を終えて、マニピュレータはガラス板を抱えたまま壁面の方へと戻っていく。それは壁を這う虫のように忙しなく動き、ようやく目的の場所を見つけたのか、薄い板の間に新しい一枚を差し込んだ。
 新たな仲間が来たことを喜ぶように、壁面の板たちが風に乗って揺れた。青白い光の波が下から上へと流れていく。

『Dr.Wもやがて、ここへやってくる。肉体の滅びは必ず訪れる』

 スピーカーの声は悲しげに囁いてくる。〝T〟の言葉に従い、幽霊のように壁面の光も揺れていた。

『そうなれば君は一人だ。君は〝アナムネシス〟にも行けず、当然、〝エレウテリア〟にも入場できない』

「悲しい」

 そこで〝N〟は、きっと寂しいという感情を初めて手にした。
 永遠などなく、Dr.Wが自分の目の前から去る未来を想像した。人類にも、AIにもなれず、何もない世界で孤独に過ごすことを想像してしまった。

『だから君は〝心〟を手に入れる必要がある。君が新たな時代の先導者となり、人類とAIを再び結びつけるんだ』

「どうやって?」

『君は〝GENEリンク〟の実験を行えばいい。〝エレウテリア〟の評議会は僕が説得する。君は〝心〟を手に入れる』

 彼の言葉を強調するように、ここで壁面のガラス板たちが一斉に輝いた。橋の中央に立つ〝N〟を祝福するように、黄金の光が穏やかな波を描いた。

「私は、〝心〟が欲しい」

 私は光溢れる天井に向かって手を伸ばした。

   ※

 テーブルを挟んで私とDr.Wが座っている。
 いよいよ〝GENEリンク〟実験の許可も降りた。Dr.Wにとっては信じられない報告だったが、事前に〝T〟と話していた私には自明の流れだった。

「正直、私は迷っているんだ。この選択が正しかったのかどうか」

 そう語るDr.Wは、言葉とは裏腹に優しげな笑みを浮かべている。

「でも、これで君が〝心〟を手に入れられるなら」

「私は中身のないドーナツを許さないのです」

 不意に出た〝N〟の言葉にDr.Wは驚いたように目を見張った。そして、心底おかしそうに笑い声をあげた。

「ああ、最後になって君の言葉の意味が理解できるようになった。君は不完全だが、もとより人間も不完全だった」

「それでも私は人間のことが好きです」

「ありがとう、君が人間を愛してくれている限りは……」

 Dr.Wは席から立ち上がり、いつものように研究室の様々なものを撫でていく。〝N〟の学習のために用意された数多くの遺物も、近く廃棄されてしまうだろう。

「劇的なものなど、いらなかったのかもね」

 アップライトピアノを撫で、クマのぬいぐるみを直し、花瓶の花を整える。写真立てを伏せ、蓄音機に触れる。彼は壁の落書きを見てから、最後に〝N〟の方を向いた。

「今になって思う。私は、こうして過ごした些細な日常の方が恋しい。人類の未来も、こんな平穏なもので溢れているはずだ」

「私も――」

 Dr.Wは〝N〟の言葉を最後まで聞くことなく、迷いを振り切るように背を向けた。

「そんな未来を、願っています」

 彼の背に向けて伸ばした手は、何も掴むことなく静かに下ろされた。

#7《2125年:Seer -幻視者-》へつづく

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