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Prologue of AI [N]_#5_《2100年:Usurper -簒奪者-》

#0《2025年:Heir -継承者-》
前話 #4 《2083年:Tutelary -守護者-》

1.
 今日も幼い兄妹が、遠くに輝くコノーサのビル群を眺めていた。
 スラムの違法建築物の切れ間から見える白い都市の影。天を衝く高層ビルの中で最も高く、最も奇抜なデザインのものは、実質的にコノーサを支配する研究機関パイドンのビルだ。

「〝エレウテリア〟だ」

 コノーサの外縁部、そこは都市の老廃物が溜まる場所だ。

「あそこに人間は住んでないんだ。みんな理想郷の中にいる」

 放置された建材と廃棄された機械が積み重なる路地裏。昼でも薄暗いスラムで、足の悪いトーマは妹のエマに背負われながら、都市の影を指差した。

「あのビルの中にいるのは人間の体だけだ。街を動かすために働いているのはAIだけ。金持ちはみんな、精神だけを〝エレウテリア〟に飛ばして暮らしてる」

「わかんなぁい」

 背に乗る兄に妹が明るい声を出す。
 エマはトーマより四つ下だが、体は兄より大きく、足だってしっかり動く。むしろトーマの方が、いつも配給食を妹に分けているからか、やせ細っていて体重も軽い。

「お前も寝る時は夢を見るよな。楽しい夢は見る?」

「今日見たよ。ほら、六区にいる白い犬。あの子と遊んだんだ」

「そんなの、いつでもできるだろ。そうじゃなくて、えーと、そうだな、ご馳走を食べたり、広いお風呂に入ったりさ。そんな楽しい夢がずっと続くんだ」

 いいなぁ、とエマは無邪気に答えた。背負われている兄の方も、どこか自分のことのように微笑んだ。

「だよな。コノーサの大人たちは〝エレウテリア〟に入って、そんな夢を見続けてるんだ。殴られても痛くないし、お腹だって減らない。お前も行きたいよな」

 エマは曖昧に頷いた。
 兄の話はいつも同じで、いかに〝エレウテリア〟が素晴らしい場所かを語り、自分たちも努力すれば辿り着けるはずと説く。

「大丈夫だ、お前は頑張ってる。この八区で一番の働き者だ。だから都市の委員会も評価してくれる」

 トーマにとってのそれは、妹に現実を忘れさせるためのおまじないだった。心の何処かでは、自分たちは大人になってもスラムで暮らすだろうと思っている。やがて薬物に手を出し、路地で見かける他の大人たちのように、夢と現実の境界を見失って生きていくだろう。
 そうでなければ、もっと早くに世界から立ち去るか。

「おにい、ついたよ」

「ああ、後は一人でやるよ」

 路地裏の一角、夜になるとバーが開く店の前でトーマはエマの背から降りる。どこかの拾い屋が集めた機械が無造作に積まれており、トーマはその機械――恐らく数十年前の生活家電だろう――を支えに移動していく。

「また夜にここでな。地図は渡したよな。もし俺が遅くなったら、バーの人に頼んで店に入れてもらえ。一人で出歩くなよ」

「うん、おにいも気をつけてね」

「俺は大丈夫だよ。俺の不健康な臓器なんて売れないからさ」

 トーマの自虐的な冗談にエマは笑った。妹の白い歯を見て、兄もまた優しく微笑んだ。

   ※

 トーマと別れたエマは、一人でスラムにある市場を歩く。
 子供が過ごすには不適切な場所だ。しかし、夜ならばともかく、昼ならコノーサの監視システムが外縁部にまで届く。だからスラムの住人も好んで犯罪に手を染めることはない。
 それは都市部の委員会が、全てのコノーサ市民――それがスラム暮らしであっても――に〝等級〟を割り振っているからだ。
 個人の所有するクレジットに応じて与えられる〝等級〟は、他者からの評価であり、財産であり、個人の重要性そのものだ。
 たとえ罪を犯して一時の利益を得ようとも、それで〝等級〟が下がれば、二度とコノーサに足を踏み入れることはできなくなる。この都市から出たら最後、あとは無人の荒野をさまようしかない。今や生身の人間が暮らせる土地は、ここ以外には存在しない。

「やぁ、エマ。頑張ってるね」

 だからスラムの人間たちは、誰もがエマに優しく声をかける。決して本心ではない、顔に張り付いたような笑みだった。

「エマは偉いね」

 エマは知っている。彼らが子供に優しくするのは自分の利益になるからだ。子供に優しくすればクレジットが増加するから、割のいい〝等級〟稼ぎになる。

「みんな、夢の国に行きたいんだ」

 雑踏を歩きながら、エマは見たこともない場所のことを思った。
 日々を健全に過ごし、仕事を全うすれば、スラムの人間であれ〝等級〟は上がる。そうなれば都市から査察官が来て、他の富裕層と同じように、正しい生き方をする市民を〝エレウテリア〟に連れて行ってくれる。スラムの人間なら誰もが夢見る物語だ。
 この地に残っているのは、怯えと希望によって生まれた儚い平和だ。

「おにいも、夢の中なら歩けるかな」

 エマは今日も自分の仕事を全うすることにした。
 人が行き交う市場、その路地にエマは座り込む。ゴミ捨て場で拾ったボロボロの布を広げ、とっておきの布巾やワックス、研磨用のヤスリを並べていく。

「磨き屋だよ、なんでも磨くよ!」

 エマの仕事は、ただ磨くこと。宝飾品でも、機械でも、なんでも磨いて綺麗にする。対価は一回につき四分の一(クォーター)クレジット。これが意外に人気商売だ。
 そもそも市場で扱われているものといえば、都市の人間から払い下げられた配給品か、よその土地で拾ってきた骨董品ばかりだ。自分で使うにしろ、他人に売りつけるにしろ、少しでも綺麗な方が良いと誰もが思う。だから品物を抱えた客はエマの前で立ち止まる。

「立派なお嬢さんだ。仕事を頼んでもいいかな?」

 しかし、この日、最初にエマの前で立ち止まった相手は何も手にしていなかった。

「うん、なんでも磨く、けど」

 エマは現れた人影に顔を上げたが、思わず声がかすれる。スラムでは見かけないような、立派な身なりをした女性だった。
 美しく仕立てられたコートには塵一つなく、肌も滑らかで、光をまとう髪もつややかだ。ひと目で都市から来たとわかる。最初は骨董品を探しに来た学者だろうとエマは思った。

「じゃあ、爪を磨いて欲しいな」

 そうして差し出された手に触れた時、エマは女性が人間ではないことを悟った。

「お姉さん、AIの人?」

 エマ自身、スラムに仕事で来たAIを見かけたことがある。それでも尋ねてしまったのは、彼女があまりに完璧な人間らしさを備えていたからだ。

「そうだよ、名前は〝E〟だ。私を人と呼んでくれてありがとう」

 女性型AIが笑う。その微笑みは張り付いた偽物ではなく、トーマが妹に向けるものと同じ、自然なものだった。

2.
 トーマの仕事は地図屋だ。
 それはスラムで暮らすのに必要な技でもある。つまり街角のカメラに映らない場所や、衛星から身を隠せる路地、通信が傍受されない空間といった、コノーサの監視システムに生まれた〝隙間〟を把握すること。
 いくら〝等級〟で人間の善意を縛っても、監視の及ばない場所では犯罪も起こる。だからこそトーマは自分で調べた〝隙間〟の情報をスラムの大人たちに売り、逆に自分やエマが〝隙間〟に近づかないようにする。
 これは妹と自分の身を守るための大事な仕事だ。

「エマ、なにしてたんだ!」

 だからこそ、トーマは妹が自身の作った地図に従わなかったことに腹を立てた。怯えるように近づいてくる妹に声を荒らげる。

「おにい」

 とうに夜も更け、既に待ち合わせの時間から二時間も経っている。
 顔なじみの多いバーの近くとはいえ、一歩でも別の道に入れば〝隙間〟は現れる。もし妹がそこに迷い込んだら。そう思うほどトーマの怒りは大きくなっていく。

「一人で出歩くなんて!」

 ここで妹を叩くつもりで振り上げたトーマの手が、横にいた長身の女性によって掴まれた。

「ぶたなくても良い。私が一緒にいた。彼女にこの辺りを案内してもらってたんだ。そのせいで遅くなった。謝罪する」

 トーマは女性の手の冷たさに息を呑む。まるで手錠をはめられたような気分だ。

「都市の、AI」

「そうだよ。名前は〝E〟だ。君の妹の客でもある」

 人間でなくて良かった、とトーマは思った。AIは人に対して危害を加えるようなことはない。
 それでもトーマは〝E〟を憎々しげに睨み、彼女の冷たい手を振りほどいた。今度は自らの手を妹に伸ばし、何も言わずに抱き寄せる。その体の温かさに安堵の笑みがこぼれた。

「君は足が悪いんだってね。彼女から聞いた。よければ帰宅を手伝おう」

「別にいい。エマ、帰ろう」

「え、でも」

 エマは〝E〟に対して後ろ髪を引かれるものがあるのか、兄とAIとの間で何度も首を振り動かした。

「大丈夫、私も君たちが早く帰ることを望むよ」

 そんな一言があった直後、トーマは店先に積まれた機械で体を支えるのに失敗し、その場に倒れ込んだ。エマは兄を助けるべく即座に駆け寄る。

「AIは、助けなくていいからな」

 エマに脇を支えられながら、トーマは背後の〝E〟に向かって捨て台詞を吐いた。

「わかっているよ。君たちは自分の足で立つ」

 その言葉を最後に〝E〟もバーの方へと去っていく。残されたトーマもエマに背負われて暗い路地へと消えていった。

   ※

 十年も前に放置された複合住宅の三階、トーマは汚れたベッドで眠るエマの寝顔を見ていた。
 今日の配給食は普段より豪華だった。エマが相手をした〝E〟が、気前よくクレジットを払ってくれたからだ。しかし、AIから施されたことを恥じ、トーマは今日も配給食の大半を妹に分け与えた。

「あんなものは、道具じゃないか」

 ふとトーマは窓から外を眺めた。
 自宅の窓からでも、やはりパイドンの奇抜なビルが見えた。あのビルが放つ青白い光から身を隠せる場所など、このスラムのどこにもない。

『人類側の代表であるパイドンは、統合ネットワーク体アナムネシスとの協議を再開します』

 夜空にはビル群から照射されたレーザーアナウンスが浮かんでいた。富裕層は〝エレウテリア〟の中にいるし、都市のAIは見る必要もないから、あれはスラムの人間に向けた告知事項だ。

『コノーサで労働するAIに対して、人権の付与を前提とした協議案を提示』

 上空に広がるニュースにトーマは溜め息を吐く。
 トーマが物心ついた頃から、AIに人権云々、といった話題は何度も出てきた。だが、一度として前に進んだことはない。ある時はAI側が条件を認めず、またある時は〝エレウテリア〟の富裕層が反対し、ずっと棚上げされてきた。

「今回も同じだよ」

 その時、トーマは窓の下で人々の騒ぐ声を聞いた。
 わざわざ見るまでもない。この時間に騒いでいる者たちは、いつだって人間主義者たちだ。人間こそ全ての支配者だと考える彼らは、今夜も犠牲者を追い立てているところだろう。

「助けて!」

 その声は人間のものではない。何度も聞いているうちに、トーマは人間の肉声とAI独特の調整された音声を聞き分けられるようになっていた。

「助けて――」

 何かの鈍器が金属を打つ音があった。そして断末魔の悲鳴もなく、断線するように声が途切れる。
 やがて終わりを告げるように、遠くで犬が吠えた。
 スラムの人間主義者たちは、仕事のために派遣されたAIを襲ってばかりいる。彼らにとってAIは、道具のくせに自分たちより裕福な暮らしをする許しがたい存在だった。

「なんの意味もないのに」

 確かにAIはスラムの人間より大事に扱われる。しかし道具であることに変わりはなく、それらを破壊することで〝等級〟に大きな変化があるわけではない。せいぜい物損事故を起こしたのと同じ程度のペナルティだ。
 ましてや人間主義者の多くは、自分たちの〝等級〟が上がらないと絶望しきっている。

「おにい……」

 よほど騒がしかったのか、エマがベッドで目を覚ましていた。トーマは床を這いながら妹に近づき、その頭をなでた。

「明日もあるから、早くおやすみ」

「うん」

 エマは兄の手に触れながら、再び夢の世界へと旅立った。

「明日は、良い日さ」

 この街の力関係は歪んでいる。一番上は〝エレウテリア〟の人間で、次が都市部で働くAI。その下がスラムの大人で、それより下がスラムに来たAIだ。
 なら自分たちはどこにいる。トーマはその問いを飲み込んだ。

3.
 エマは今日も一人、兄と別れて市場へと向かった。
 普段通りに布を広げて磨き屋の準備をしていると、近づいてくる人影があった。彼女の到来にエマは白い歯を見せて笑った。

「いらっしゃいませ」

「やぁ、こんにちは」

 この日も〝E〟はエマのもとを訪れた。
 もう五日も連続で会うことができた。このことを兄に言うと嫌な顔をされるだろうから、ずっと秘密にしている。エマにとって彼女は、今や一番の馴染みの客だった。

「綺麗な爪をしてるね」

 いつもと同じように〝E〟は手を差し出し、エマもまた、その冷たい手を物怖じすることなく握った。

「君が磨いてくれるからだよ」

 AIに褒められてエマは素直に喜んだ。

「お姉さんは人間みたい」

「そういう風に作られてるからね」

 エマは彼女のために新しく用意したオイルを使い、一番のお気に入りの布巾を使って念入りに爪を磨く。会ったこともない母親のことを想像した。

「君は――」

 いつもの雑談の中、〝E〟は不意に声を小さくした。

「〝エレウテリア〟に行きたいかい?」

 AIは微笑みながら、ごく自然にエマに問いかけた。エマは兄が語る理想郷のことを覚えているが、具体的に自分がどうやって行くのかは想像もしてこなかった。
 ただ、夢の世界があるなら行ってみたいと思っていた。

「そこに行ったら、おにいも普通に歩ける?」

「ああ、二人で仲良く幸せに暮らせるはずだ」

 彼女の言葉にエマは満面の笑みで答えた。それを見た〝E〟も満足そうに頷き、仕事の対価として十分すぎるクレジットをエマへと送った。

「明日には、私は街の方に戻る」

「そうなの?」

「でも、また会えるはずだよ。その日を楽しみにしている」

 そう告げて〝E〟はエマのもとから去っていった。コートをなびかせ、何も恐れずに歩くAIに対し、市場の人々も逃げるように道を開けていく。

「おい」

 しばらく〝E〟の消えた雑踏を視線で追っていたエマは、自分にかけられた暴力的な呼びかけに最初は反応できなかった。

「エマ、随分と稼いでるな」

 声をかけてきたのは、これまで市場で何度も顔を合わせてきた男性だった。〝E〟から余分なクレジットを受け取った時は、いつも彼の店で道具を新調していた。

「おじさん、後で行こうと思ってたけど」

「そうじゃない。俺たちはお前を叱りに来てるんだ」

 エマが不思議そうに見上げれば、彼の背後に何人かの大人がいた。誰もがエマに対して、軽蔑するような視線を向けている。

「お前は悪い子だ。あんな道具に媚びて、自分だけ多くクレジットを稼いでる」

 エマは自分に悪意を向けられていることに気づけなかった。
 伸ばされた手がエマの細い手首を掴む。人間の温度が、今のエマには焼けるように熱く感じられた。

「許せないよな、なんで、ああ」

 男はエマを無理矢理に引き立て、市場から連れ去ろうとする。大声でも出せば良かったのだろうが、最後の時までエマは儚い平和を信じてしまった。
 大人たちの手元の端末には、兄の作った地図が表示されていた。

   ※

 複合住宅の窓からトーマは外を見ていた。
 夜になっても妹は帰ってこなかった。バーの前で何時間も待った末に、彼を憐れんだバーの店主に背負われて帰宅した。加えて、後でエマが店に来た時には彼女も送ってくれるという。対価は要求すると店主は言っていたが、それが気遣いだとトーマは理解している。

「エマ、どこに行ったんだ」

 しかし、深夜を過ぎても妹が帰ってくることはなかった。探しに行こうにも自分の足では出歩くことも叶わない。

「きっとバーで寝てるんだ。明日になれば帰ってくる」

 都合のいい想像をしながら、トーマは目を閉じて何度も眠ろうとした。だが、数分も経てば再び上半身を起こし、窓の外に視線を送る。

『まもなく終わる二十一世紀へのお別れ。そして二十二世紀を一緒に迎えましょう』

 分厚い雲に投影されるレーザーアナウンスは無意味な文言を明滅させている。当然、行方不明になったエマのことなど伝えてはくれない。スラムの人間の価値はその程度だ。
 トーマは毛布で己の身を覆った。
 都市からの排熱でスラムは夜でも温められているが、それでも本格的な冬が来れば寒さも辛くなる。これでエマが凍えてしまったらどうしようか。

「ああ、俺たちは〝エレウテリア〟に行く。寒くなんてない」

 毛羽立った毛布にくるまりながら、トーマはこの場にいない妹に語りかけた。本当は既に理解している。二度と妹と会うことはできないだろう。
 窓の下で人々の声がする。どこかの人間主義者たちが、慌てた様子で騒いでいる。彼らは近所のゴミ捨て場に何かを捨てに行くらしい。そのことでお互いに言い争っている。
 遠くで犬が吠えている。トーマは何も聞かないように耳をふさいだ。

4.
 翌朝、トーマは窓ガラスを打つ音に目を覚ました。
 続けてもう一度、路地の小石が投げつけられ、カン、と音を立てた。妹が帰ってきたのだと思い、トーマは慌てて窓辺へ這い寄った。

「ああ」

 しかし、窓を開けた時に漏れたのは落胆の声だった。

「ねぇ」

 複合住宅の路地裏に女性型AIが立っていた。
 以前に出会ったことのある〝E〟と名乗った存在だ。そんなAIが今、トーマの方を険しい顔で見上げ、人間のように話しかけてきた。

「俺に用があるのか? どうやって家を突き止めた」

 答えるまでもない、といった様子で〝E〟は手を上げた。そのまま複合住宅の外壁に爪を食い込ませると、大きく地面を蹴って三階まで一気に跳び上がった。

「なんだよ、その機能。警察用か?」

 トーマは怯むことなく、窓枠に手をかけて体を支える〝E〟と向き合った。内側と外側で人間とAIが睨み合っている。

「君の妹、どこにいるの?」

「なんでAIが聞くんだよ。知るかよ」

 〝E〟の目が光る。何かを解析しているのか、それがトーマには不気味に映った、

「私も探しているけど、周辺の監視に引っかからない。自宅に戻っているかと思ったけど」

 ここで初めて、トーマは泣き顔を作った。
 どこかで覚悟はしていたが、都市の権限を使ってAIが探しても見つからないなら、きっと妹は〝隙間〟にいる。そして子供が生きたまま〝隙間〟にいることはない。

「うるさい! AIなんかが俺たちの家に入ってくるな!」

 トーマの言葉を受け、〝E〟もまた悲しげな表情を作った。

「君は人間主義者?」

「違う。あんなヤツらと一緒にするな。でも、AIは好きじゃない」

「そう。でも、違うなら良かった」

 それだけ言い残して〝E〟は窓枠から手を放そうとする。だが、ここでトーマが身を乗り出し、AIの冷たい手を強く掴んだ。

「待て。入るのは許さないけど、俺を外に連れてけよ。妹がいそうな場所まで案内してやる」

 トーマの怒りに満ちた顔がある。〝E〟はどこか苦しげに微笑み、自由な方の手で彼の小さな体を抱えた。

   ※

 トーマを背負いながら〝E〟はスラムを駆け抜けた。
 スラムの〝隙間〟にはどこであれ、必ず危険な人間がいる。体の弱い一人では妹を探しに行くこともできなかった。これはAIを適切に利用しているだけだ。トーマは自分にそう言い訳した。

「そこを曲がって、狭い路地に入る。あそこが六区のゴミ捨て場だ」

「わかった」

 路地に入り、焚き火で暖を取る住人の横を通り過ぎる。そしてゴミ捨て場に到着すると、まず積まれた機械たちが目に入る。
 虚ろな表情のままパーツを露出させる頭部と、人間に似せて作られた手足が無造作に転がっている。どれも破壊されたAIの素体だった。
 その中に一つ、頭と手足がつながったままの人間の姿があった。

「エマ」

 人間に似た機械のゴミの中、昨日まで人間だった存在が転がっている。伸ばされた手足は白く、額だけが鬱血して青黒くなっていた。

「側頭部に挫傷があるみたいだ。殴られた時に倒れ、頭を地面にぶつけたんだろう」

「そうか」

 トーマは、妹の死に際が予想より酷いものでなかったことに安堵した。同じ終わるにしても、その辺で転がっているAIよりは十分に人間らしい死に方だ。
 だが、それでも堪えきれないものがある。トーマは一度だけ、〝E〟に背負われたまま、彼女の肩を強く殴った。

「お前が妹に近づくからだ……。妹はAIなんかに媚びてた。だから人間主義者に目をつけられた。許さないからな」

「そう」

 〝E〟は冷たい声を発し、背中からトーマを下ろした。放置されるのかとトーマは思ったが、理由は別にあるらしかった。

「人間主義者というのは、彼らのこと?」

 地面に座るトーマは〝E〟を見上げる。彼女は路地の裂け目から様子を伺う大人たちの方を見ていた。
 やがてAIに睨まれていた大人たちの中から一人が進み出る。

「エマ、可哀想にな」

 労るように声をかけるのは市場で骨董品を売る男性だった。エマに笑顔を向けていた人物であり、今までトーマから何度も最新の地図を買っていた人間主義者だ。

「事故なんだ。死ぬなんて思わなかったんだ。ちょっと殴ったら、大げさに転んでさ」

 近づいてくる男性にトーマは何も言わない。憎い気持ちはある。だが、それを伝えたところで自分にできることはない。まして男性の背後からは、手に武器を構えた大人たちが次々と姿を現している。

「全部、そこのAIがいけないんだ。待ってろよ、今、妹の仇を取ってやるから」

 男性の言うことは支離滅裂だったが、トーマは小さく期待もした。どうせ何も返ってこないなら、せめて自分の代わりに、自分たちの日常を変えた存在を消して欲しいと願った。
 手に武器を持った人間主義者たちが〝E〟を取り囲む。少し先に起こる結末を想像し、トーマは薄暗い笑みを浮かべた。
 だが〝E〟は一歩も退かずに立っていた。

「そこまで」

 そしてAIが高らかに宣言するのと同時に、コノーサのビル群から花火が上がった。様々な色の光がスラムに複雑な影を作っていく。二十二世紀の到来を告げるには、まだ数時間ほど早い。

『アナムネシスとの協議が終了』

 レーザーアナウンスが雲に青白い文字を投射していく。人間主義者たちも、トーマも、上空に描かれる情報を目で追っていく。

『AIへの人権付与が承認される。パイドンからの宣言』

 それは、世界のルールが変わったことを知らせる言葉だった。
 大人たちは事実を呆けた表情で事実を咀嚼している。トーマはいち早く、新しい秩序がもたらすものを予見していた。

「こういうことだ」

 トーマの想像通り、〝E〟は一歩を踏み出した。自分を取り囲む男の一人を押さえつけ、その手から鈍器を奪い取った。

「私が見る映像は随時アナムネシスに送信されている。ここはコノーサの管理下だ。監視が届かない場所などない。あなた達が〝人間〟を相手に無法を続ける気なら、相応のペナルティがあると思え」

 淡々と事実を告げる〝E〟に対し、大人の一人が武器を自分から下ろした。それを見た周囲の仲間たちも同様にする。大人たちはヘラヘラと笑いながら、まるで何もなかったかのようにトーマたちに背を向け、この場を去っていこうとする。

「待てよ!」

 声を上げたのはトーマだった。

「なんでだよ、そいつはAIだろ! なんで、弱い人間は簡単に殺すのに、なんで、ただ強いだけで……」

 ゴミの散らばる地面をトーマは這っていく。両足が傷つくのも構わず、数秒前まで人間主義を掲げていた者たちの背を追う。

「ふざけるな、何が〝人間〟だ!」

 寒々しいスラムの路地に慟哭が響く。

   ※

 こうして世界は生まれ変わった。

「これまで破壊されてきたAIだって、映像記録はアナムネシスの方に残っている。粗暴な人間主義者のことは都市も把握していた」

 これまで路地裏に積まれていたAIの残骸は全て撤去された。残っているものといえば、厳しい冬の寒さをしのぐために誰かが使っていた焚き火だけだ。

「私たちは、人間たちの善意を信じすぎた」

 焚き火から離れた〝E〟は、都市から持ってきたという花束を抱えてゴミ捨て場の一角に向かう。トーマは彼女が用意した車椅子を操作して後を追う。

「私は、AIとして初めて査察官の仕事を任されていた。ある種のデモンストレーションだ。人権宣言の後、このスラムから〝エレウテリア〟に連れていく市民をAIが選ぶことで、人類とAIが平等だと周知させる目的があった」

 今でも稀にAIが人間主義者に襲われる事件はある。しかし、その犯人は必ず特定され、例外なくコノーサからの退去を命じられていた。

「私は、君たち兄妹を〝エレウテリア〟に連れていくつもりだった」

 エマが死んでいた場所まで〝E〟は歩き、抱えていた花束を丁寧に地面に置いた。この場にいないエマのことを思い、〝E〟は静かに胸に手を合わせている。
 その姿は、この世界の誰よりも人間らしいものだった。

「せめて君だけでも〝エレウテリア〟に連れていきたいと思うが、受け入れてくれるだろうか」

 言葉に無念さをにじませながら〝E〟は振り返った。
 伸ばされた彼女の手を見ても、トーマは何も言葉を返さない。ただ瞳に暗い光だけがある。

「許されるなどと、思ってはいないが」

 最後に〝E〟が微笑んだ時、ようやくトーマがその手を取った。その手は冷たく、両者の温度は初めて同じものになった。

「いいよ、俺は理想郷に行く」

 しかしAIはまだ、人間が持つ憎悪の深さまで気づけなかった。

#6《2118年:Bellwether -先導者-》へつづく

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