トルストイの日露戦争論/「汝ら悔い改めよ」 第三章
第三章
(本章エピグラフの試訳はこちら)
今の世を見渡すに、曾[かつ]て其[その]大力量を以て戦争の狂愚を説き、其残忍、不義、野蛮を記述せるもの、ヴオルテール{今日の一般的表記では"ヴォルテール"}なく、モンテーシン{同、"モンテーニュ"}なく、パスカルなく、スヰフト{同、"スウィフト"}なく、カントなく、スピノザなく、乃至[ないし]幾百の他の文人なかりしものの如し、就中[なかんずく]、人間の同胞を説き神の愛と人の愛とを説きたる耶蘇[ヤソ]其の人なかりしものの如し{下註}
人若し是等の事を回想し、而して此四辺の光景に対する時は、戦争を嫌忌[けんき]するよりも更に一層大[おおい]なる恐怖を感ずべし、そは有らゆる恐怖中の最大恐怖にして、人間の理性の無力なるを感ずるの自覚即ち是れ也
斯くて人の動物に異なる所以、人の価値を作る所以、即ち人の理性なる者は、無益不必要にして而[しか]も有害なる附加物たるを示せり、譬えば彼の馬勒[ばろく]の如し、馬の頭[かしら]より垂れて脚などにまつわり、只運動を刺激して馬をいらだたしむるのみ
若し異教徒、希臘[ぎりしゃ/ギリシャ]人、羅馬[ろうま/ローマ]人、或[あるい]は真[まこと]の福音を知らずして只盲目的に教会の教規[きょうき]を信ぜし中世紀の基督教徒が戦争を為し、其戦争中に於て其勇武[ゆうぶ]に誇る事ありとせんに、そは決して不思議の事にあらず、されど真の基督信者にして、如何[いか]んぞ能く銃を取り、砲を守り、一人[にん]にても多く其同胞を殺さんと欲して之を狙い得る事あらんや、よし又信者以外の懐疑家なりとも、知らず識らずの間[あいだ]に基督教の理想に化[か]せられたる者亦同じ、今の哲学家、道徳家、美術家の製作は、此の基督教の同胞博愛の理想を皷吹[こぶ]したるもの実に甚だ多きにあらずや
アッシリア人、羅馬[ろうま/ローマ]人、或[あるい]は希臘[ぎりしゃ/ギリシャ]人ならんには、其良心を欺かずして戦争を為し、是れ実に正義を遂行するものなりと信ずるを得ん、されど我々は我々の之を希望すると否とに係わらず基督教徒なり、基督教は如何に変化せられたりとは云え、其の大体の精神は我々をして理性の高処[こうしょ]に昇らしめずんは止まず、而して其高処よりする時は、其全身に戦争の無意義と残忍とを感じ、更に戦争が我々の正且つ善なりと信ずる者と全然反対せる事を感ぜざるを得ざるべし、故に我々は彼等異教徒の為せしが如く、毅然たり、泰然たり、平然たること能わず、又犯罪の自覚なきこと能わず、虐殺者の如き狂暴の感なきこと能わず、而して其犠牲を殺しはじむるや、其心の底に於て我が行為の有罪を感ずるが故に、強いて自己を昏迷せしめ或[あるい]は激怒せしめて、依[よっ]て以て其兇行を遂げんことを勉むるに至る、露国の怠惰なる上流階級に於て、発熱せるが如く、逆上せるが如き、不自然極まる、狂的の発作あるは、只是れ彼等が其犯罪を認識せるの兆候のみ、彼[か]の帝王に対する忠義と礼拝とを説き、容易[たや]すく生命を犠牲に供すべきを説き、(勿論そは他人の生命の事にして自己の事にあらず)、臆面もなく虚偽の演説を為すが如き、又彼の{下註}誠意を以て自己の所属にもあらざる国土を防衛すべしと云える約束の如き、又た彼の種々なる軍旗や大いなる聖像の無意味なる贈答の如き、又彼の神呼ばわりの如き{下註}、又彼の毛布及び繃帯の準備の如き、又彼の看護婦の派遣の如き、又彼の海軍や赤十字社に対して多くの寄附を為し、(政府たる者は所要の金額を何程[なほど]にても人民より徴集するの力を有し、既に宣戦したる以上は、当然必要の艦隊を組織し、当然負傷者に必要なる手当を為すべき任務を有せるに)、而も猶[なお]其寄附を以て政府を助くるが如き、又彼の新聞紙が重要の記事として掲載せる、華奢にして、無意義にして、且つ不敬なる、諸都市の祈祷会の如き、又彼の行列、国歌、喝采の如き、又彼の新聞紙が、只其普通なるが為[ため]に少しも其露出を恐れざる不法無頼の虚偽の如き、又彼の露国交際社会より起りて漸々[ぜんぜん]民衆の間[あいだ]に移植せられつつある、無神経と残忍性との如き、総て是れ現に遂行せられつつある此大事件の有罪を自覚せる兆候にあらざるは無し
人は自然に自己の行為の不正を感ずる者なりされど、既に其敵に切りかけたる殺人者は自ら其手を止[や]むること能わざると同じく、露国人民は今既に此一大事を始めたりと云うの故を以て、戦争を可とする不可抗の理由なるが如くに思えり、戦争は既に始まれり、故に之を継続せざる可[べか]らず、是れ単純なる無智無学の輩[はい]が、其の区々の感情と其の執着せる迷妄との為に抱けるの思想なり、然るに現時の最も教育ある人士にして、亦正に之と同一の論證を為さんとせり、曰く、人は自由意志を有する者に非ず、故に其の一たび開始したる事件は、仮令[たとえ]其害悪を悟ると雖[いえど]も、最早之を中止すること能わずと
斯くて目くらみ心荒れたる人々が其の恐ろしき事業を継続するなり
※「ヴォルテールなく〜耶蘇其の人なかりしものの如し」……ここに名の上がっている思想家などはビッグネーム揃いですので、大方は説明を要しないかと思います。
耶蘇はもちろんイエス・キリスト。
スヰフト(スウィフト)は(他の人々とは随分毛色が違うようにも思われますが)小説『ガリヴァー旅行記』で知られるジョナサン・スウィフトのことだと思われます。他に著名な「スウィフト」氏も特に思い当たりませんし。
なお、日本でも「スウィフト政治・宗教論集」などという本が出版されています。往時はこの方面でも高い評価を受けていたのかもしれません。
モンテーニュが「モンテーシン」なる表記になっているのは、いささか腑に落ちない点です。
(該当の箇所における原文 Монтеня〘否定生格〙,英訳 Montaigne で、これがモンテーニュであることには疑問の余地がありません。)
当時はこのように表記していたという話は寡聞にして聞き及びません。
恐らくは翻訳の元になった英語記事の活字が潰れていたか何かで "Montaigne" がモンテーシンと読め(そうとでも読むほかない状態であり)、よく分からないままとにかく「モンテーシン」と訳した……などということではないかと、さしあたってそのように想像しています。
※彼の……この段落中、これのみ読みが「かれ-の」
なお、本文のこのあたりにずらっと並ぶ「又彼[か]の○○の如き、」は(お察しの方も多いでしょうが)、英文で言えば「セミコロンによる列挙」の構造です。英訳では "all these 〜 ; all these 〜 ;" とずらずら並ぶ形になっています。
(ロシア語原文では "все эти 〜 , все эти 〜 ,)
※「又彼の神呼ばわりの如き」……原文では "все эти молебны," 「これらすべてのモレーベン」。
(モレーベンについては下の記事参照。)
英訳ではここは "all these Te Deums; " 「これらすべてのテ・デウム」と意訳しています("Te Deums" は斜体)。
(テ・デウムについても下の記事参照。)
しかし、日本語訳に当たって、"又彼の『テ・デウム』の如き" とするのでは当時の一般的な日本の読者にとって分かりづらいという配慮から、さらに意訳してこのような訳となったものでしょうか。
いずれにしてもここでの「神呼ばわり」とは「神を呼ばわる」(呼ぶ)を名詞化した言い回しと読み取らないといけないでしょう。