見出し画像

トルストイの日露戦争論/エピグラフの機械翻訳 第七章分

・「トルストイの日露戦争論」は、各章に多量のエピグラフが付されているが(第十二章を除く)、平民社訳、あるいはその底本となった英訳からは省かれている。
 そのエピグラフ部分を訳してみようという試み。

・タイトルに「機械翻訳」と銘打ったように、機械翻訳によるざっくり訳を想定。ただし、既存の翻訳が特に問題なく引用できそうな場合は、そちらを使用。

・各引用文の最初にある(1)(2)(3)…の番号は、記事作成などの都合上、当方で付したもので、原文にはない。

・その他、原文にない要素を加える場合もある。
 (聖書からの引用の場合、原文に章・節番号がなくても、それを付加する、など。)

・誤訳を見つけた場合、こっそり修正すると思います……。

第七章エピグラフ


(1)
《宗教は人間の本性において恒久的な要素ではないという意見が広く存在している。多くの人が我らに語るところによれば、それは単に思考と感情の段階の一つに過ぎず、人類生活における、初期の比較的に非文化的な人々に特徴的なものであり;そこから人々が徐々に成長し、自らの背後に置いていかねばならないような何かである。

我々はこの問題を冷静に見ることができる。なぜなら、もし宗教が単なる迷信であるなら、明らかに我々はそこから巣立つ必要があるからだ。だがもし宗教が、より高くより良い人類生活を特徴づけるものであるなら、この問題についてのキリスト教研究は必ず我々にそれを示すはずである。もしあなたが全てのコインに刻印を見出し、その刻印が同一のものであるなら、全てのコインに刻印をつけるのが、何かしら実際に存在するものであることを、あなたは疑いなき確信をもって得心するに違いない。従って、あなたが人間本性、あるいは何であろうと他の存在の本性に、普遍的で恒久的な、特徴的な性質を見出すいかなるところでも、その特徴を引き起こしたところの、何かしらそれに対応するものが世界に存在すると、あなたは完全に得心することができる。人は常にどこでも宗教的な存在であることをあなたは見出す。彼はどこでも、自分を取り囲んでいる神秘的な世界を信仰するものであることを、あなたは見出す。どのような理論に基づいて全世界を見るとしても、世界は我らを、かかるようなものとした。そして、もし世界が欺瞞とか言ったものでないなら、この我らの内にある世界に対応するもの─それもまた実在のものなのだ。なぜなら、実在する世界が我らの内にこれらの特徴を引き起こしたのであるから。》

サヴェッジ


【(2) は準備中】


【(3) はマッツィーニの引用。註釈部分に出典のみ紹介。】


【(4) は準備中】


(5)
《宗教とは(客観的に見れば)、すべての我々の義務を神の戒めと認めることである。

ただ一つの真なる宗教が存在する。多くの様々な信仰があるかもしれないが。》

カント




(1)サヴェッジは次の人。米国の聖職者、作家。

出典は "The passing and the permanent in religion". New York and London, 1901 とのことです。

引用の前半部分は上記資料の1ページ目、冒頭の文章。

後半部分は、原文を飛び飛びに引用している模様。
「我々はこの問題を冷静に見ることができる」〜「それを示すはずである。」:2ページ目の下のほうから3ページ目の記述に概ね沿った内容。
「もしあなたが全てのコインに刻印を」〜「得心するに違いない。」:17ページ下の方。
「従って、あなたが人間本性」以降、引用の最後:18ページ半ばから終わりにかけて。

なお、この文章は機械翻訳の結果があまり良くなかったので、ほとんど手作業で訳す感じになりました。


【(2) は準備中】


(3)《現在は註釈のみ》
6-3に続いてマッツィーニの引用。
マッツィーニについてはエピグラフ第6章分の註釈を参照ください。

こちらの引用の出典も『人間の義務』のようです。
と言っても、この文を書いている時点では、まだ該当する文章を探しきれていません(そのうち見つけられればとは思っています)。

とりあえず、以下の文章は引用文の出典と見てよいだろうと考えます。結構「パッチワーク的」な引用になっているのかもしれません。
(ページ数は後述の訳書のもの。)

神なしとも諸君は命令することが出来る、けれども説服することは出来ない。諸君は自ら暴君たり得んも、決して教育者たり、使徒たることは出来ない。

訳書217ページ

真面目な信仰は何れも、自己を以て人間活動のあらゆる部門に適合せしめんと欲するが故に、又地は、之まで何れの時代に於ても、その信ずる天に自らを適合せしめんと努めたから、なお又人間の歴史全体は時と場合に応じて、種々の形、種々の程度に於て、キリストの祈祷に書かれた『御国を臨らせ給え、天に於けるが如く。』という言葉を繰返したから、古い汚損した信條の廃物から起り立つ信仰は何れも、現存の社会組織を変形するであろう。

訳書214ページ

ここでの「訳書」は6-3でも紹介した次のものです。



【(4) は準備中】


(5)カントはドイツの哲学者。世界の哲学の最高峰という評価を恣(ほしいまま)にするような人と言っても、そこまで過言ではないでしょう。

このトルストイの論文のエピグラフに、カントの文章は全部で4回出てきます。
本ページの(私が勝手につけた)整理番号で言えば、7-5(これ),8-2,8-4,10-3。

さて。
トルストイ全集の註釈によると、トルストイはこれらの引用で、実際のところカントの著作そのものというより、その「さわり」をまとめた本を元にしているとのことです。
その本については Paul Richer の "Assprüche" だとあるのですが、これはいろいろ正しくないようで(Paul Richer で検索すると、全く別ジャンルの著名人がヒットします)。
正しくは Raoul Richter の "Kant - Aussprüche" ではと思われます。

下の本は年代的に少し版が違うかもしれませんが、さしあたり。

Raoul Richter についても一応(Wikipedia独語版の記事)。


* * * * *

ここでまた話を変えて。
こちら(7-5)の引用の大元の出典ですが。
『たんなる理性の限界内の宗教』
"Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft"

……の第4編第1部のはじめ(だと思います)にある次の文が、引用の前半部分の元テキストかと。

Religion ist (subjectiv betrachtet) das Erkenntniß aller unserer Pflichten als göttlicher Gebote.

ただし、これを(機械)翻訳すると

《宗教とは、(主観的には)私たちのすべての義務を神の戒めとして認識することです。》

……となって、主観と客観の入れ替わりが起きていますが(^_^;)。
でも、ここだろうと思います(ネタ本で115ページ、223番)。

後半部分については、同じく第3編第1部V(だと思います)にある次の文章が出典でしょう。ネタ本で129ページ、248番。

Es ist nur eine (wahre) Religion; aber es kann vielerlei Arten des Glaubens geben.

それは唯一の(真の)宗教です。 しかし、さまざまな種類の信仰がありえます。(機械翻訳)

なお、この本には邦訳もあります。

さらに、全くの余談ですが。
カントというと『永遠平和のために』が、戦争・平和の関係で言うと有名です。意外にも(?)ここからの引用はないのですが、一つの参考として貼っておきます。