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トルストイの日露戦争論/エピグラフの機械翻訳 第十章分

・「トルストイの日露戦争論」は、各章に多量のエピグラフが付されているが(第十二章を除く)、平民社訳、あるいはその底本となった英訳からは省かれている。
 そのエピグラフ部分を訳してみようという試み。

・タイトルに「機械翻訳」と銘打ったように、機械翻訳によるざっくり訳を想定。ただし、既存の翻訳が特に問題なく引用できそうな場合は、そちらを使用。

・各引用文の最初にある(1)(2)(3)…の番号は、記事作成などの都合上、当方で付したもので、原文にはない。

・その他、原文にない要素を加える場合もある。
 (聖書からの引用の場合、原文に章・節番号がなくても、それを付加する、など。)

・誤訳を見つけた場合、こっそり修正すると思います……。

第十章エピグラフ


(1)
《……神の民とは、世界を守る神秘の塩である。なぜなら、この世のものは、神の塩がその力を失わない限りにおいてのみ守られるからである。『だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい』{註 i}。私たちについて言えば、神が誘惑者に私たちを迫害する力を与えるときには迫害されるが、神が私たちを苦しめることを望まれないときには、私たちを憎むこの世のただ中にあっても、驚くべき静けさを享受することができ、このように言われた方の守護に頼ることができる:『勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』{註 ii}。

ケルソスはさらにこう言う、『アジア、ヨーロッパ、リビアの住民全員が、ギリシャ人も野蛮人も同じ法律に従うことに同意することは不可能だ。 そう考えることは ─彼は言う─ 何も理解していないことを意味する』。しかし私たちは、これは可能であるばかりでなく、すべての理性的な存在が一つの法則の下で団結する日が来るだろうと言います。なぜなら、言葉あるいは智慧はすべての理性的な存在を自ずと征服し、それらを自分本来の完全性へと変革するからです。

どんな治療でも癒せない身体の病気や傷はあるが、魂の病はそうではない:至高の智慧、即ち神、にとって、それを治癒することが不可能であるような悪などない。》

オリゲネス、ケルソスに反駁して

 お詫びとお断り
前回(第九章分)までは「機械翻訳」といいながらも、それなりに内容確認や修正などもしていたのですが、今回は都合により、そうしたチェックも最小限でUPしています。
(あとで見直すつもりではあります。)
なにとぞ悪しからず、ご容赦願います。


【(2) は準備中】

【(3) はカントの引用。註釈部分に出典のみ紹介。】


(4)
《私がお前に神について語るとき、何か金か銀で作られた物について私が語るのだと思ってはならない。
(翻訳未了。但し、2パートあるうち、前半部分は註釈での補足あり。)

エピクテトス




(1)出典はオリゲネス『ケルソス駁論』でいいだろうと思います。
オリゲネスは古代のキリスト教神学者。

下は『ケルソス駁論』についての英語版Wikipedia 。

『ケルソス駁論』は全3冊の邦訳もあるようです。下のページの検索窓に "ケルソス駁論" と入れれば、候補で出てくるはずです。

トルストイ全集の解説によると、トルストイが参照したのは «Les pères de l’église. Origène contre Celse». Tome VIII, Paris, 1843 という本。これは『教父たち』という叢書があり、その第8巻がオリゲネスだったということのようです。
『教父たち』は次のようなデジタルデータが一応ありますが、

現時点で、第8巻は解説部分しかデータ化されていない模様。他で、この第8巻が見られるところがないか検索しましたが、さしあたり見つかりませんでした。

なお、同じく全集の解説によると、元々は八章のエピグラフにオリゲネスの引用が2つあったけれどカット。また、この十章の引用も前半がカットされたとのことです(紹介されている文章をざっと読む限り、「前半」といっても「この」エピグラフにそのまま続く感じではなく、実質的には別の引用という感じに見えます)。

{註 i}…ルカ14:34-35
{註 ii}…ヨハネ16:33


【(2) は準備中】


(3)《現在は註釈のみ》
カントの引用。カント(と、トルストイのネタ本)についてはエピグラフ第7章分の註釈を参照ください。

この引用は前半と後半で出典が異なります。

前半の出典は7-5などと同じ『たんなる理性の限界内の宗教』。その3編第1章VII(だと思います)にある次の文でしょう。ネタ本で132ページ、255番。

Man kann aber mit Grunde sagen: „daß das Reich Gottes zu uns gekommen sei,“ wenn auch nur das Princip des allmähligen Ueberganges des Kirchenglaubens zur allgemeinen Vernunftreligion, und so zu einem (göttlichen) ethischen Staat auf Erden, allgemein, und irgendwo auch öffentlich Wurzel gefaßt hat: obgleich die wirkliche Errichtung desselben noch in unendlicher Weite von uns entfernt liegt. Denn, weil dieses Princip den Grund einer continuirlichen Annäherung zu dieser Vollkommenheit enthält, so liegt in ihm als in einem sich entwickelnden, und in der Folge wiederum besamendem Keime das Ganze (unsichtbarer Weise), welches dereinst die Welt erleuchten und beherrschen soll. 

たとえ、教会信仰が徐々に理性的な一般宗教へと移行し、地上における(神的な)倫理的状態へと移行するという原理が、一般に、またどこか公共の場に根を下ろしたにすぎないとしても、「神の国はわれわれに到来した」と理性的に言うことができる。というのも、この原理は、この完全性への絶え間ない接近の理由を含んでいるからであり、この原理には、発育し、その後再び受精する胚芽のように、いつの日か世界を啓発し、支配することになる全体が(目に見えない形で)横たわっているのである。(機械翻訳)

一方、後半の出典は “Reflexionen Kants Zur Kritischen Philosophie” で、これは Benno Erdmann という人が纏めたカントの遺稿集らしいです。
そこから、次のような文章。

Im ganzen Weltall sind tausend Jahr ein Tag. Wir müssen geduldig an diesem Unternehmen arbeiten und warten.

全宇宙において、千年は一日である。私たちは辛抱強くこの事業に取り組み、待たなければならない。(機械翻訳)

ネタ本では131ページ、253番。ネタ本の方では、割とすぐそばにある文章どうしです。
また、“Reflexionen” は原書もネットで見られます。

1巻の214ページ、678番の文章。

エアトマン氏についても一応(Wikipedia独語版)。



(4)出典はエピクテトスの『語録』。
エピクテトスは、古代ギリシアのストア派の哲学者。

そして出典ですが。まずトルストイ全集の註釈によると、彼が «Мысли мудрых людей на каждый день», М. 1903 (『毎日の賢者の考え』と訳しておきます。日めくり的に毎日見る体裁の箴言集)の7月7日に採用したエピクテトスの言葉を、こちらにも持ってきたものだということ。

では、そちらの解説はと言うと(ちなみに全集の40巻でした)それほど役にはたたず。
[В. Г. Чертков], «Римский мудрец Эпиктет. Его жизнь и учение», изд. «Посредник», М. (1-е изд. вышло в 1889 г.)
(В. Г. チェルトコフ]、『ローマの賢者エピクテトス。 彼の人生と教え』)
……が、恐らくは参照元っぽいというくらい。

とは言え、引用文が2パートあるうち、少なくとも前半部分については元の文章を確認できています。
次の英語訳版だと2巻の8章です(この章立てが一般的なものなのかは、私には不明です)。

これに関しては(少々古めかしい)日本語訳も国会図書館デジタルコレクションにあったので、該当部分を文字起こししておきます。資料中のページ割で333ページ。

おんみは私が、金銀で作った神、おんみにとって外部に存する神に就て話していると考えるのか? 否、おんみは神をおんみのうちに持って居るのである。而しておんみの不純なる思想と不浄なる行為とに依って、神を汚すのを知らないのである。神像の前に居る時すらも、おんみは平素なすような行為の一つを、敢えてなさなかったのではないか。然るにおんみに内在して、総ての事を見聞する神そのものの面前に於て、おんみはそのようなことを考えたり、行ったりすることを恥じとしない。

一方、後半部分についてですが。
とりあえず次の英訳を、検索用に使ってみましたら、

その中の次のような文章が、内容的には似て見えると思いました。なので一応の候補として置いておきます(機械翻訳も下に付しておきます)。

(APPENDIX A)
Fragments Attributed to Epictetus
(付録A)
エピクテトスに帰せられている断片

XIX
Think of God more often than thou breathest.
汝が息をするよりも頻繁に神のことを思え。

XXI
Let thy speech of God be renewed day by day, aye, rather than thy meat and drink.
汝の肉や飲み物よりも、汝の神への言葉を日々新たにせよ。

XXIV
If thou rememberest that God standeth by to behold and visit all that thou doest; whether in the body or in the soul, thou surely wilt not err in any prayer or deed; and thou shalt have God to dwell with thee.
もし汝が、神が汝の行うすべてのことを見守り、見舞うために傍らにおられることを心に留めるならば、それが肉体であれ、魂であれ、汝はいかなる祈りや行いにおいても誤ることはないだろう。そして神が汝と共に住まわれるであろう。