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トルストイの日露戦争論/「汝ら悔い改めよ」 第十一章

第十一章


(本章エピグラフの試訳はこちら

 余は前章を書き終りし時、旅順港外に於て六百の罪なき者殺されたり{下註}との報に接せり、此の六百の不幸なる人々が斯く無益に悲惨の死を遂げたるを見ては、此破滅の原因たりし人々を糺弾[きゅうだん]するを以て正当なりとすべし、予の斯く云うはマカロフ{下註}其他士官等の為に非ず、彼等は自己が何を為しつつあるか、又何の為に働きつつあるかを知り、虚偽なる愛国心を以て其身を装いつつ(其虚偽は只余りに一般に行われ居るが為に攻撃を受けず)、自己の利益の為に自己の野心の為に自ら進んで此事を為したるに非ずや、予は寧ろ露国の各地方より召集せられたる彼の不幸なる人々の為に云うなり、彼等は虚偽なる信仰と刑罰の恐れとに依りて、其の正しく清く、有益にして且つ勉勵[べんれい]なる家庭生活より引離され、世界の果[はて]に連行[つれゆ]かれて、残酷無情なる殺人機械の上に載せられ、其困苦、欠乏、努力、及び最後の其死に依りても何等の利益を挙ぐることなく、むざむざと紛韲[ふんさい]せられて其愚なる機械と共に遙かの海中に沈没せるに非ずや

 千八百三十年、波蘭[ポーランド]戦争の時、クロピトスキー将軍の命を受けて聖彼得堡[せんとぴーたーすぶるく/セントピータースブルク]{下註}に赴ける副官ビリジンスキーは、デイビツチとの仏語の会談中、デイビツチが露国軍隊を波蘭に入らしめざる可らずとの要求に対して答えて曰く

 「大将閣下、若し果して然らば波蘭国民は到底此宣言を受理すること能わざるべし」

 「予を信ぜよ、皇帝は之より一歩も譲歩せざるべし」

 「然らば止むを得ず戦うの外なからん、多くの血は流さるべく、多くの不幸なる犠牲は生ずべし

 「爾[しか]く憂慮すること勿[なか]れ、双力[そうほう]を合[あわ]して一万の死者を出[いだ]さば足らん、それ丈の事のみ」是れデイビツチが独逸[どいつ/ドイツ]訛[なまり]の言葉を以て答えたる所なり{下註}、此時彼の口振[くちぶり]は、彼及び彼と同じく残忍酷薄なる他の一人[にん](露帝ニコラス一世[せ])が、恰[あたか]も数万十数万の露人及芬蘭[ふいんらんど/フィンランド]人{下註}に対し生殺の権を有する者の如くなりき

 是等の人の意志に依りて、六万の家族維持者が其生命を棄てたりとは、余りに恐ろしく、余りに馬鹿馬鹿しき事にして、何人[なにびと]も容易に信ずる能わざる所なるべし、されどそは実に在りし事なり、而して今亦同一の事は起れり

 日本人を満洲に入[い]らしめず、又之を朝鮮より追出[おいいだ]さんとするには、一万人どころに非ず、五万以上の生命は無論必要なり、余はニコラス二世[せ]やクロパトキン{下註}がデイビツチの如く、「露西亜側だけにて五万の生命を棄つれば足れり、只是丈の事のみ、是丈の事のみ{下註}」と言いしや否やを知らず、然れども彼等は斯く考うるの外なし、彼等の為す所は即ちそを語りつつあり、今や誘惑されたる不幸なる露西亜農民は、幾千亦幾千、絶えず極東に送られつつあり、是れ即ちニコラス、ロマノフ{下註}及びクロパトキン等[ら]が之を殺さんと決したる五万{下註}の生霊[せいれい]なり、而して是れ即ち宮殿に安座せる不道徳なる野心家が、支那朝鮮に於て成遂げたる悪事醜行[しゅうこう]掠奪の類[るい]を擁護せんが為に殺されんとする者なり、而して是等の野心家は五万の不幸なる露国労働者の死に依りて、新しき栄誉と新しき利益とを期待せるに、其労働者は何等の罪もなくして殺され、而も其死と苦痛とに依りて何物をも利せざるなり
 露国人に何等の権利もなき他人の土地、元来其正当の所有者より無法に掠取したる土地、而して実は露国人に何の必要もなき土地の為に、又朝鮮に於て其森林より大儲けを為さんとする投機師の曖昧なる事業の為に{下註}、露国人民全体の労働の結果なる数百万円{下註}の金[きん]は消費せらる、而して其人民は次の代[よ]に於て負債に縛られ、其善良なる子弟は悉く其職を棄てしめられ、数千又数千、無慈悲にも死地に陥[おとしい]れらる、斯くの如き不幸なる人々の破滅は既に始まれり、既に始まれるのみならず、此戦争の当事者は不注意と怠慢とを極め、何等の準備も無きに戦争は全く不意に開始せられ、終[つい]に或新聞紙をして「今や露国の成功すべき重[おも]なる機関は、殺しても構わざる人間を無限に有するの一事に在り」と云わしむるに至れり、彼等が数千数万[すせんすまん]の露人を死地に送り出[い]だすは実に全く此考えに依るなり

 又、海に於ける艦隊失敗の無念を陸に於て之を償[つぐな]わざる可らずとは、彼等の卒直[すなお]に明言したる所なり、之を平たく云えば、当事者は海上に於ける措置を誤り、其手落[ておち]の為に数千万の富と数千の生命とを海底に沈めたれど、そは今後陸上に於て更に数万の死者を作りて之を償うべしと云うを意味す

 蝗[いなご]の一群[ひとむれ]が川を渡るに、其下層の者既に溺れて、其体躯を以て橋を作り、其上層の者は之を超えて渡り得[う]る事あり、露国人民は正に斯くの如く売られ居れり

 即ち最下層の者は既に溺れはじめたり、而して他の数千人が之と同様に死すべき事を指示し居れり

 此極悪事件の発起者、指揮者、擁護者等は其悪事犯行を理解しはじめたるか、否決して然らず、彼等は十分に己れの任務を尽したりと信じ、又尽しつつありと信じて、其活動に誇り居れり

 人民は皆勇敢なるマカロフの死を語れり、彼が人を殺すに妙を得たること何人も異議なき所なり、彼等は又数百万ルーブルを値[あたい]したる精巧なる殺人機の沈没を悲[かなし]めり、彼等は又如何にして彼の憐むべき愚漢{下註}マカロフにも劣らざる他の虐殺者を得んかに論議し居れり、彼等は又新[あらた]に一層有効なる殺人機を発明し居れり、而して上[かみ]は露国皇帝より下[しも]は最下等の新聞記者に至るまで此極悪事件に係[かか]れ□{下註}る一切の悪人[あくじん]等は、同胞に対する暴虐と憎悪[そうあく]とを増加せんが為に、万口一斉[まんこういっさい]新らしき狂気と新しき残忍とを求めて絶呌し居れり

 ノヴオ、ヴレミヤ{今日の一般的表記では "ノーヴォエ・ヴレーミャ" 等。下註}新聞記[き]して曰く「マカロフは露国に於ける唯一[ゆいつ]の人物に非ず、何[いず]れの将官と雖[いえど]も其地位に置かれなば、皆其歩調に傚[なら]い、名誉の戦死を遂げたる彼れマカロフの意見と計画とを継続すべき也」と

 聖彼得堡[せんとぴーたあすぶるぐ/セントピータアスブルグ]のヴイエドモスチ{今日の一般的表記では "ペテルブルクスキエ・ヴェドモスチ" 等。下註}新聞は曰く「我等をして、神聖なる祖国の為に其生命を棄てたる人々の為に、熱心に神に祈らしめよ、彼等は此祖国が今後の戦闘の為には更に有力なる新子弟[しんしてい]を與えて、此大功業を完成せんが為に永久不尽[ふじん]の力の蔵[くら]たらしむべきを確信して、露[つゆ]疑[たが]うこと無かりし也」と

 ルス{今日の一般的表記では "ルーシ"。下註}新聞は曰く「老熟せる国民が、ヨシ其先例なしとするも、敗軍より得来[えきた]るべき結論は、只其争いを継続し之を進め之を終るべしと云うの外なし、故に我等をして更に新勇気を起[おこ]さしめよ、されば其精神より成れる新英雄の出ずるあらん」と、其他皆此類なり

 斯くの如くして、殺戮と各種の犯罪とは一層の暴威を逞[たくまし]うせり、人民は是等兵勇[へいゆう]の軍事的精神の発揮を見て、或は不意に同胞五十人に出会いて悉く之を殺したりと云うが如き、或は一村[いっそん]を占領して悉く其住民を屠[ほふ]りたりと云うが如き、或は又間牃[かんちょう] と目せらるる人物を捕えて(そは止むを得ざる必要物なりとして我方[わがほう]に於ても正に同様の事を為し居れるに係わらず)、之を絞殺せりと云うが如きを見て、熱心に之を讃美し居れり、而して是等の悪事は誇大なる電報を以て総指揮官たる露国皇帝に報告せられ、露国皇帝は又更に斯[かく]の如きの行為を継続すべきを返電して、其の忠勇なる軍隊の祝福を祈る

 斯くの如きの地位に於て、若し救済の道ありとせば、そは只基督の教[おしえ]のみなること、此に於て明白となるに非ずや

 「爾曹[なんじら]先ず(汝の中に在る)神の国と其正義とを求めよ、然らば其他一切の物(即ち人の争うて求めつつある一切の世間的幸福)は、おのずから実現せらるべし{下註}」

 是[これ]れ人生の法則なり、世間的の幸福は人が争うて世間的の幸福を求むる時に得らるる者に非ず、斯くの如きの努力は却って常に人をして、其の求むる所の物より隔離せしむ、而して人が世間的幸福を得んことを思わずして、只神の前に、自己生命の根原[こんげん]と法則との前に、其自ら正[ただ]しと信ずる所を大胆に決行せんと努むる時にのみ、実に只其時にのみ、偶々[たまたま]世間的幸福も亦得らるるなり

 故に真[まこと]の救済は只一あるのみ、各個人が其心中に於て神の意[こころ]を行うあるのみ、此宇宙に於て僅[わずか]に我力[わがちから]に任ずべき者は只我心あるのみに非ずや、各個人の唯一[ゆいつ]主要の目的は実に是に在り、同時に又各個人が他を感化し得べき唯一[ゆいつ]の方法は実に是に在り、故に各人一切の努力は実に只此一事に向けらるべきもの也
  千九百四年五月二日{下註}



※都合により、第九〜十章に続き本章についても、註を(ほぼ)省いた形で一旦UPします(近日中に追加予定ではあります)。

ただ、部分的に註釈的なことを書いておきますと。

※「旅順港外に於て六百の罪なき者殺されたり」……当時著名なステパン・マカロフ提督座上の戦艦「ペトロパブロフスク」が触雷・沈没した事件のこと(1904年4月13日)。
さしあたり次のページなどを参照のこと。


※「千八百三十年、波蘭[ポーランド]戦争の時〜」……ポーランドの「11月蜂起」のこと。

文中「クロピトスキー」=「フウォピツキ」。
「ビリジンスキー」はどうやら「Wylezinski」という人らしいのですが、確認中です。
この節の後の方に「フィンランド」の語が出てきますが、原文を見ても明らかに「ポーランド」の誤訳。

ここの部分の原文は仏語を交えています。とりあえず引用のみ。

В 1830 году, во время польской войны, посланный от Хлопицкого в Петербург адъютант Вылежинский в разговоре с Дибичем, шедшем на французском языке, на поставленное Дибичем условие, чтобы русские войска вступили в Польшу, Вылежинский сказал:

— Monsieur le Maréchal, je crois que de cette manière il est de toute impossibilité que la nation polonaise accepte ce manifeste...

— Croyez-moi, l'Empereur ne fera pas de concessions.

— Je prevois donc qu’il y aura guerre malheureusement, qu’il y aura bien du sang répandu, bien de malheureuses victimes.

— Ne croyez pas cela, tout au plus dix mille hommes qui périront des deux côtés et voilà tout.[27] «Tis mille hommes et foilà dout» — сказал своим немецким акцентом Дибич, вполне уверенный, что он, вместе с другим, столь же жестоким и чуждым, как и он, русской и польской жизни человеком, Николаем Павловичем, имеет полное право приговорить или не приговорить к смерти десятки, сотни тысяч русских и польских людей.

※「ノーヴォエ・ヴレーミャ」紙……次の新聞かと。

※「ペテルブルクスキエ・ヴェドモスチ」紙……次の新聞かと。

※「ルーシ」紙…………次のページに紹介の新聞か?

※本章末の「千九百四年五月二日」の日付は、一番最初のページで紹介した原文等のうち「古い書籍のスキャン(表紙によれば1917年発行のもの)」「英語訳」にはありますが、どうした訳か「電子テキスト版」「トルストイ全集」には見当たりません。
さらによく分からない点がありまして。「古い書籍のスキャン」では日付が「1904年4月17日」となっています。英訳では(本訳と同様)5月2日。
当時(革命前)のロシアはユリウス暦を使っていたために、他の国と日付のズレがあるというのはよく知られた話です。なので、英訳においては日付を「意訳」したものかと思ったのですが。この当時のズレは13日なので、計算すると1904年4月17日は、現行の暦で同4月30日のはず……。ということで、どうも数字が合わないようです。ひょっとしたら私が何か見落しているのかもしれませんが、とりあえず「詳細不明」としておきます。
(さらに蛇足ながら。本章冒頭に述べられていることから当時のタイムラインを考えてみますと。戦艦ペトロパブロフスクの沈没が現行暦で4月13日。そのニュースが(ヤースナヤ・ポリャーナにいる)トルストイまで届くのに、少なくとも数日は掛かったでしょう。そのニュースが届いた頃に第十章を脱稿。さらに本章の執筆へと進み、先の日付の問題をどう取るにしても、その後おおよそ半月足らずで第十一章が書き上がるというような感じの流れだったことが伺えます。)