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トルストイの日露戦争論/加藤直士訳、その他の話題

(トルストイの日露戦争論/予備スペース)

この項はもともと、何か書き足すことが出てきたときのため「場所取り」的に立てたのですが。
次の本がデジタル化されているのを見つけまして。これはまさに「そういう話題」と言えます。

加藤直士訳『トルストイの日露戦争観』 1904年

これは私が見たいと思っていた(後述)、平民社訳以外の当時の訳書の一つ。付録的な文書もいくつかオマケで(?)ついていますので、それは別途ご紹介するつもり。
前書きによると少し後発の訳で、東京朝日新聞や平民社の訳も参考にしたとあります。ただ──まだじっくり訳文の比較とかをしたわけではないのですが──後発のメリットを生かした、ぐっと改善された訳文となっているかというと、そこまででもないような気も?

また、次の図書館レファレンスによると、

春秋社版『トルストイ全集』8巻には「悔い改めよ」の、トルストイ全集刊行会版『トルストイ全集』13巻には「悔改めよ」の、講談社版『トルストイ全集』47巻には「日露戦争について」の収録があるが、いずれも当館に所蔵なし。

「トルストイ全集刊行会」版と講談社版のトルストイ全集でざっくり検索するとこんなページが。

春秋社の全集は……下のものにはそれらしい記載がありませんが、また別のものでしょうか。

いずれにしても「トルストイ全集刊行会」の方には確かに「悔改めよ(柳田泉訳)」の記載があります。
ただ、柳田泉氏(調べたら有名な方なのですね)は英文系の人。
とすれば、やはりこれも英語訳からの重訳と思われ、必然的にエピグラフの訳もないものと思われます。

話は前後しますが、これも上のレファレンスにタイトルが上がっている論文、池澤 實芳氏『魯迅「藤野先生」ノート』。
この論文ではトルストイ論文発表当時にどのような訳業が見られたか、などについて、詳細に確認されていました。


・もう一つ論文追加。「日本における初期社会主義とトルストイ キリスト教社会主義者木下尚江・野上豊治の検討を通して・その1 」
「二 平民社と卜ルス卜イ」に興味深い情報。
https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/records/693



以下は、このページを立てた時に埋め草として書いた文です。

…………

「汝ら悔い改めよ」が、その当時は大層話題になったはずなのに、その後すっかり忘れ去られた感じなのは残念なことだと思います。

でも、平民社訳の古色蒼然とした趣きを見ると、正直そうなったのもよく分かります。

平民社が口語で訳してくれていれば、あるいは後日、誰かが平易な訳で出し直してくれていれば、また話は違ったのかも?

当時、他の訳も出ていたようなので、それは何かの機会があれば見てみたいと思います。ただ、どうしたわけか、当時の文章などで引き合いに出されるのは、基本的に平民社の訳一択という感じです。
ほかは流通した部数が少なすぎたのか、あるいは訳文があまり良くなかったのか?

そういえば、本論文の「現代文」版として出ている本があって、私もそれを買ったのですが。
これは平民社訳の文語調を口語体に直しただけの、随分志の低い本で、正直がっかりしました。
確かに「読みやすい」口語文にはなっているかもしれませんが、平民社訳と比べてすらニュアンスにズレが生じている箇所が見受けられます。そもそも古めかしい、しかも突貫作業だったという明治時代の訳を更に「翻訳」した形なので(元から見れば重訳の重訳!)、原文との差は広がるばかりでしょう。エピグラフが抜けていることも、言うまでもありません。
『汝ら悔い改めよ』を読みたいという人に、この本を紹介するかと言うと、私は正直ためらいます。当サイトで読みなさいと言いたいところなのですが、こちらはとても歯が立たないという人もいるでしょうから……。そういう人に、やむを得ずという感じでご紹介するぐらいでありましょうか。

今の時代だからこそ、どこか志のある出版社が(例えば某光文社さんの古典新訳文庫とか^_^;)、しっかりした新訳を出してくれないものかと思うのですけどね。
最新のトルストイ研究、あるいは日露戦争研究の成果も盛り込み。エピグラフは当然として、出来れば異稿なども入れて……。

エピグラフの「機械翻訳」は、実際のところ、だいぶ手直しをしたりもしました(「ハメになった」と言うべきか)。だからと言って、きちんと正確な訳になっているかというと、それは全然自信がありません。まぁ、大学の露文科3年の割と凡庸な学生が、それでもとにかく頑張って訳したもの、ぐらいにお思いください。

それでふっと思い出しました。かつて私が大学生だった頃に仕込まれたお作法で。
(私はいわゆるところの「社会人大学生」をやったこともあるので、《初回の》大学時代ということですが。)
翻訳をする時に、日本語として流れを良くしようと、原文にない余計な言葉を勝手につけたり、あるいは引いたりするのはやめなさい、と。また、同じ文中に同じ単語が出てくる場合に、その訳語をコロコロ変えるのも、もちろんよろしくないと。
そういうお作法の良し悪しはともかく(「文学的」ではないかもしれません)──「雀百まで」じゃありませんが──結局は習い覚えたその流儀でここでも訳文を作っていく感じになりました。

今回、エピグラフを訳してみて──と言っても、まだ部分的に訳しただけですが──思ったのは。
これまで本編だけ読んでいても、反戦論文というより宗教書という感じが強いな、と思っていたのですが。
エピグラフまで含めると、もうこれは完全に宗教書の趣きだなぁと。良くも悪くも。

補足・凡例その他」の回などで、トルストイと安部磯雄の文通についてご紹介しましたが。
(補足:この記事はお引越し中。別に項目を立てました。)
その安部磯雄の書簡(日本語訳)が載っているというアレクサンドラ・トルスタヤ『トルストイの思ひ出』もちょっと気になって軽く検索してみたのです。
これは元々昭和5年に岩波書店から出版された本である……ということは分かったのですが。

どうしたものか、同書のオリジナルとして存在して良いはずのロシア語版も、あるいは英語版も、それらしい書籍がさっぱり検索でヒットしませんでした。
同書を実際に見れば(読めば)、そのあたりの理由なども分かるかもしれず、これもまた一つの宿題かなと考えています。