さらば、社会主義。
「正直言って、経済界は終身雇用なんてもう守れないと思っているんです。どうやってそういう社会のシステムを作り変えていくか、そういうことだというふうにお互いに理解が進んでいるので。」
4/19の報道と、その報道に対する率直かつ肯定的な「リアクション」に、私は二度驚いた。経団連という、”超”を3つ付けても差し支えのない伝統的大企業の抽象物が、終身雇用の放棄を検討している事実。それを「待ってました。」と言わんばかりに歓迎する労働者。一見win-winに見えるこの図式の崩壊は何をもたらすのか。誰が得をするのか。それをメモ書きとして残したい。
・終身雇用とは何か
終身雇用とは何か。それは、自企業の抱える労働者を、定年まで可能な限り雇用し続ける制度である。企業は、人員計画をかなり高い確度で行うことができ、中途採用やその教育にかかるコストを最小化できる。一方の労働者も、一度企業に就職すれば、その企業の賃金ロールモデルに則って、かなり具体的かつ確度の高い生活設計が可能だ。この"相利共生モデル"は、日本の労働市場をガラパゴス化し、戦後来、極めて低い失業率を実現してきた。"5.5%" これは、戦後最も高い完全失業率である。この低さは、世界的にも異常だ。計画雇用とでも呼ぶべき施策は、一企業を一国とした、社会主義でさえあったのではないかと思う。
・終身雇用は何をもたらしたか
終身雇用が何をもたらしたか。端的に言えば、それは強制的な富の分配である。しかし、それは若者から高齢者への、不可逆的な分配ではない。それは正確な表現ではない。一部の、非常に類まれな能力を持つ人間から、そうではない大多数への富の分配である。日本的企業の成功は、苛烈な労働と、それを指揮する優秀な中間管理職、並びに一部の天才的な経営者によってなされてきた、と私は考える。行く末の分からぬ船の行方を彼等が決め、大多数がそれを体力の限界まで漕いできた。それが終身雇用であり、かつての日本的成功モデルだ。
・終身雇用崩壊の現実
今、思うことがある。日本の学生は、"終身雇用"というフリーパス無しで、他国労働者と職を争い、勝ち抜けるだろうか。ヨーロッパの学生の溢れるコミュニケーション能力と、語学力。ハングリーに自分を売り込む精神的タフネス。率直に、私は難しいと思う。意外なことに、日本人は世界から尊敬を集めているし、日本人の潜在的能力は高い。されど、それを売り込まなくてはいけない。その力は、決定的に不足している。「何を成したいか。」という問と、その解への根拠無き自信を持っていなければならない。チャンスを得たものが、さらに大きいチャンスを得る。最初の一歩を彼らは踏み出せるだろうか。"終身雇用"の意義の1つは、大多数の専門性を持たない学生を、企業がコストとリスクを負担してビジネスの世界に導く点にある。それは、あるいはビジネススクールのようなものである。プレゼンテーションのスキルも、パソコンのスキルも、何かを成した経験も無しに、給与を得ながら学ぶことができる。そういう、ある種の生活保護的な、技能支援的なシステムである。それが今なくなろうとしている。
・今思うこと
実は、私はこの方向性を歓迎している。今、世界で活躍するビジネスパーソンと一緒にプレゼンテーションをしたり、あるテーマについて議論をしたりしながら、「自分はできる。」という自信を深めている。より高い給与と待遇を手にする自信がある。けれど、とも思う。この特異な"日本的社会主義"とでも呼ぶべき制度の崩壊は、混じりっ気なしの純粋な資本主義への入り口だ。それは、苛烈な競争と、格差社会への入り口である。富は、類まれな人材へと逆流し、失業率は上昇する。富める者は富み、そうでない者は瀕す。それは、極めて自然的である。見えない檻の喪失は、自由を背負った猛獣との対面を意味する。そういう過酷な現実を生き抜く術を、わが子に身に着けさせなければならない。親の責任は、一段重いものになる。もっとも、それは正当な評価の時代でもある。ムラから都市への成長である。結構なことじゃないか。前向きに捉えよう。さらば、社会主義。ようこそ、資本主義。
何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)