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「宜しくお願いします。」の英訳。

午後4時。今時期の外気温は10度そこらだが、教室は決して寒くない。

イギリスの建物には、基本的に「エアコン」というものが備え付けられていない。代わりに、暖房設備(器具ではなく固定式)が充実している。近年は、地球温暖化の影響か、夏場に30度に迫る日も少なくないのだというので、空調設備メーカー方々は虎視眈々といった所だろう。

ブラインド越しに斜陽を浴びながら、ディスカッションの授業を受ける。生徒が少ないので、「受ける」というより、皆で毎日フランクに話をするイメージだ。脳の疲労が極限まで積みあがった夕刻にはありがたい授業である。その中のテーマが興味深かったので、記しておきたい。

テーマ「世界の言語は1つに集約した方が良いか否か。またその理由。」

例えば、英語を世界の共通言語として使用し、他の言語を葬り去った方がメリットが大きいかどうか、ということだ。私以外の生徒は集約した方が良い、という意見であった。単一言語を導入できれば情報伝達の効率上がると。私(反対)の見解は次の通りである。

・結論 集約しない方が良い。(というより、集約できない。)
・前提 人は「言葉」があって、初めて物事を認識・区別できる。と、私は考えている。(目に映る景色は人それぞれだ、という話。を参照)
・理由
☛ 前提に立てば、言葉を1つに集約するためには、①全ての文化に対応できるだけの言葉を創出する、②文化を1つに統一する、のどちらかが必要。
☛ ①を行うには、膨大な言葉・表現を創り出し(各言語の和集合分、必要)、扱う必要がある。一方、ほとんどの人がそれらを使用しない。(例えば、我々はイヌイットほど雪に関して区別する必要がない。)使用しない言語のために膨大な言葉を新たに創り出すことが非効率的だし、そもそもそれはもはや単一言語を話しているということができない。
☛ ②地球には様々な気候帯や歴史的背景があり、そのパターンを無視して1つに集約することは恐らく困難。(例えばアフリカ原住民と、日本人が文化を統一し、全く同じ思考をすることは困難だろう。)


私は、この手の議論を通じて1つの結論を出す試みは野暮だなと考えている。意見を表明し、「おー、世の中色々な考え方の人がいるんだな。世界は広いぜ。」と視野を広げることそれ自体が問いかけの本質である。絶対の結論を見つけてしまった(と思ってしまった)時、私の中の老いが始まるのだと思う。

自分に対する強い自信と、それが変わり得る謙虚さをいいバランスで持ち合わせたい。「毎日飲んでいるの。」という、酸味の効いたフランス産オーガニックチェリージュースのお裾分けを紙コップに注ぎながら、改めてしみじみ思う。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)