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ローソンとセブンイレブンに関する退屈な話。


三が日。少し静かな年始が静かに終わってゆく。


今年の年末年始は年休奨励期間だったが、ついに取得しなかった。大多数の人の能力に大差は無い。差がつくのは休んだ時だ。そうやって日付が変わるまで働いた時期もあるが、どこかで「違う」と気づく。それは一種の保険にすぎない。頑張ったという「同情」の保険。目的達成のためには正しい努力が必要だと気づく。

単に、今取得を奨励される意味がないのだ。奇をてらうことなく、淡々と凹凸なく静かな日常を送り続けること。「3むだらり」という言葉があるけれど、よどみなく流れ続けることが全体の負荷を軽減する。忠誠心等ではなく、そういう斜に構えた態度の表れだ。


正月。たまの帰省は、祭事みたいなものだった。強くはないが、酒好きな家族。朝から酒を飲んで過ごしていた。

夕方、電車に乗り、知人とまた酒を飲む。その際、少し早く家を出て、閑散としたカフェでコーヒーを頼む。アルコールとカフェインを交換しながら、あれやこれやと思考を巡らす。久しぶりの再開は、安らぎと同時に真剣勝負の場でもある。相手の反応1つで、自分の成長度合いに嫌でも向き合うことになる。

結婚して、知人と飲む機会自体、めっきり減った。昨年はカフェさえテイクアウトで済ます一年。少しだけ独身の自由が欲しくなる時もあるけれど、それは無い物ねだりというものだし、そもそもあらゆる結婚は不自由を渇望した結果である。


「おっきい室外機!」


公園のフェンス越しに大小十数個。さまざまな四角形を眺めるのが日課になって久しい。町中の、ありとある所にたくさんのエアコンが設置されている事実を子供の無邪気さで知ったりする。見る人、見る時によって、景色は如何様にも変わり行く。

年末から続く晴天のおかげで気温ほど寒くはない。何となく空を見上げながら歩いていると、コンビニエンスストアの看板が目に留まる。青地に白。地上数メートル、柱の先に光るロゴは凧のように見えなくもない。しかし、何でミルクなのだろう。

帰宅後に、気になって調べてみるとアメリカの牛乳販売店が元なのだとか。

目に見えるものにはたいてい理由がある。そんなことをしていたら、今日はいつもよりやたらと早く昼寝から目覚める子供。「ローソン分、あの本を読んでおけば…」と後悔する間もなく、自由時間分の砂はオリフィスを滑り落ちる。悔しくて、黒鍵の無いオクターブのチャチな電子音でアンパンマンマーチやルパン三世を弾いていると、横から「ドー、レー、ミー。」と白鍵を叩く無邪気な声と手。齢、二年と九ヶ月。お主もなかなかやるじゃないか。

外を見ると、二週間前より確実に遅くなっている日の入り。窓越しの公園は、普段の休みとは比べ物にならない盛況ぶりで、見るだけでも少し身構えてしまう。


それにしても。自分なりに頑張った年末年始。コンビニでコーヒーくらい買っても良かろう。

そうして足早に向かった先は、ミルクの看板の店ではない。別に、コーヒーがブラックだからでも、縁起の良い「7」にあやかりたかったからでもない。今日で終わる三が日。そのスタートが「日頃と変わらない」ことを祈る、僕なりの退屈な願掛けである。


飲み終えた空き缶をゴミ袋にゆっくり重ねると、カチャカチャと変わらぬ音がする。それを聞いて、早速明日からも何とか頑張れそうな気がしている。

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