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八月 夜明けの空


 生きることの不器用さでは人一倍苦しんできたと思う。
去年の秋に倒れて仕事に行けなくなってから、自分のことを自分なりにずっと考えてきた。

 容姿の醜さも、家庭環境も、人に正直な気持ちを話すことが苦手なせいで嫌なことがあると黙ってしまう性格も、そのくせあとからみじめな気持ちを一人で抱え込んでしまう臆病さも、全部嫌いだった。
 倒れている間はずっと、自分の嫌いな自分がどうしようもなく一番近くにいた。それがますます自分の弱さを直視する辛さをかき立てた。



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「こんな自分じゃなかったらよかった。」


「私が一番欲しいものはどんなに望んでも絶対に私のところには来ない。」



 独りぼっちの部屋の中で動けないまま、独りよがりな嫉妬で心に囲いを立ててしまった私は、呪いの言葉を自分自身にかけ続けた。


 でも、自分を嫌い、呪う日々の中でも、時間は過ぎていった。




 いつの間にか季節は秋から冬へ変わった。

 状況を理解してくれた周囲の人たちのおかげで、以前よりもスロウなペースではあるけれども、職場に復帰することができた。


 周りの人たちに対する申し訳なさを抱えながら、自分にできることに一つずつ取り組んだ。メンタルヘルスやメンタルケアに関する本を読んで、自分の好きなことに少しずつ取り組むようにもなった。





 季節は冬から春へ変わっていった。


 春は一番好きな季節だった。

 冬に買った勿忘草の鉢が冷たい雪の日も耐え、春のそよ風の中で満開に咲いていた。


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花が咲き始めた頃の勿忘草






 八月。


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 今、私は日が昇るよりも早く起きて、倒れていた間に落ちてしまった体力を回復させるために運動するようになった。


 5時6分。太陽が昇り始める空の色は、夜の名残をたたえた透明に近いブルーと、朝焼けの淡い桃色がグラデーションを成して、どこまでも広がる。

 見上げれば見上げるほど、澄んでいる。



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 夜と朝の境い目の時間に家を出て、空を見上げるようになってから理解したことがある。時間が経つということは、朝のあとに必ず夜が来て、けれど夜のあとに必ず朝が訪れる法則の繰り返しであること。
 そこに希望があってもなくても、変わることのない循環であることを。



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 ある日、線路沿いを自転車で走っていたとき、あまりにも綺麗な空に、つい立ち止まって写真を撮りたくなった瞬間があった。

 撮影した写真を確認すると、澄んだ空を横切る電線が思いっきり映り込んでしまったことに気が付いた。
 空を撮りたかったのに別のモノまで映してしまった。

「また失敗しちゃった。」

落ち込んだけれど、この夜明けの空を手元に残しておきたくて、写真を消すことはできなかった。


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「失敗した」空の写真





 写真を撮ったあとに偶然、安達茉莉子さんの『毛布 あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)という本を読んだ(http://genkosha.co.jp/gmook/?p=27392。)


 「ワーキングアーティスト」という章の最後に、水戸芸術館で行われていた内藤礼さんというアーティストの展覧会の話が出てくる。自然光の中、高い天井から降りる一本の細い線をアートとして展示した作品のこと。

 感受性と知性にあふれた安達さんの目は、儚く細い線に特別な意味を見出す。

 この場所に飾られていなければなんでもないように見える線。けれど、それを作品として生み出そうとする営みには、途方もないエネルギーが注がれている。

 自分の行為がどこかにつながるかもわからないまま、美しいものを作り上げることだけを信じて、細い線に芸術の息吹を託そうとする営み。

 そのとき、線は、芸術家の人生そのものを表す物体になる。

 その意味に気づいた安達さんは、細く儚い線がまとう光の輝きに胸を打たれる。

 線を見上げる。

 一本の線がひとの心をつなぐ媒介として存在する世界のことを感じる。






 たった一本の細い線に何かの意味を見出すということ。

 それは、人間が思考する存在だからこそできる、とても美しい行為だ。






 本を読んでから、ふと、写真を撮った電線のある道をもっと前に通りかかったときに見かけた、お父さんと子どもの姿を思い出した。

 そのお父さんは電線を指さしながら、まだ小学校1、2年生くらいの背丈の小さな息子さんに向かって、こういう風に一生懸命語りかけていた。


「あの細い細い線が見えるだろう。」


「あの線には、目には見えないけれど、」


「電流という、ものすごく、たくさんのエネルギーが流れているんだよ。」



 目には見えないけれど確かにそこに存在している力がこの社会を成り立たせていることの不思議さ。

 その不思議さを学び、世界に知識を開いていくことの素晴らしさ。

 小さな男の子が科学の意味を理解できるよう、ゆっくり、明朗に話すお父さんの言葉の優しさ。


 それは偶然通りかかった、たったの一瞬の出来事だった。


 けれど、どうやらその言葉はなぜか、私の心のどこかに残っていたようだった。

 安達さんの本は、その言葉を心の奥底からそっと掬い上げて、私の手元に持ってきてくれた。自分にとって大切だったものを思い出せるように。

 世界に目を開くこと。意味を思考すること。

 「それ」が存在する理由を想像すること。


 大切なものを大切にするために、学び続けること。







 もう一度、「失敗した」夜明けの空の写真を見る。


 晴れ空を渡って一本のびる細い細い電線には、目に見えない膨大なエネルギーが伝わっている。


 そのエネルギーがひとの家々に届いて、生活の新しい一ページが無数にめくられていく。


 かけがえのない朝が、ひとりひとりの生きる場所で始まっていく。







 電気がどこで作られてどうやってこの場所に辿り着いたのか考えていた時期に、東北に行ったことがあった。

 震災の爪痕が残る瓦礫を片付けたあと、すぐ近くにある神社の高い高い石段をのぼった。

 この息が切れるような細く長い石段を駆け上がって命が助かった人たちのことを考えた。

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「この土地でこれから夏のお祭りが開かれるんです。

 瓦礫を片付けてくれる人手が必要だったので…。」

 バスガイドさんは、よそ者の私に優しく話してくれた。


 痛みに気づき、助けを求めることで、回復していく土地と人間のこと。

 心に重なる八月の思い出。







 心療内科にはまだ通い続けている。生きていてよかったと心から思える日はやっぱり来ないのかもしれないと、時々涙が止まらなくなることもある。
 でも、そんな風に泣いている人間のところにも、必ず、美しい朝が来る。
曇りの朝も、雨の朝も愛しいと思えるような美しい朝が。



 それを伝えたかった。私自身に。




 もしかしたら私のすぐ近くにいるかもしれないし、今はとても遠いところにいて、いつか出会うかもしれない、大切なあなたに。





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曇りの朝は遠くが靄のように霞んで、おとぎ話のような世界が来る



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雨が降り始めた朝、ワニのような形の細長い雲が下の方に見える



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まためぐってくる晴れ空を待ち望んで





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