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「教師」の肩書きを捨てた。

私は約4か月前に「教師」という肩書きを捨てた。

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「教師」というと、教壇に立って、子どもたちに時には楽しい授業を提供したり、時には熱い言葉をかけたりする印象だろうか。

かつては、「小学校の先生をしていて~」と話すと、
「すごい!」「かっこいい!」なんて言葉をもらい、
自分でもその肩書きをもつことに魅力を感じていたと思う。

幼いころから憧れた教師という肩書きをもち、それまでの学生時代にそれなりに真面目に取り組んだ努力が報われたと思っていた。


でも、
この肩書きは次第に「責任」という二文字を、
私にいつも突きつけるようになった。

ひとりひとりの学力を保障すること
ひとりひとりの安全を確保すること
ひとりひとりの安心の場を確保すること


教師と名乗る限り、
わたしの学級にいる30人ひとりひとりに対して、
これらを保障する責任が最低限の使命であると感じるようになっていた。

どれかひとつでもできないと教師として名乗る資格なんてない、

うまくいかないことが幾重にも重なったとき、
どんなに周りの先生に優しい言葉をかけていただいても、
その考えだけはいつも心の奥底でドロドロと渦巻いていた。

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私は今シェアハウスに住んでいる。

シェアハウスの住人は本当に多種多様で、きっと教師を続けていたら一生知ることのなかった世界をたくさん見せてくれる。

企業に勤める人、フリーランスで働く人、自分の専門性を発揮して稼ぐ人。それまでの仕事を生かしてキャリアチェンジをする人もいる。


そんなみんなの話を聞いていると、
「肩書き」というものよりも、
「いかに自分の能力を発揮するか」
を大事にしている人は、とても楽しそうに働いていると思った。


確かにみんなある職種の肩書きをもっているかもしれない。

でも、複数の肩書きを持つ人もたくさんいるし、
仕事内容を聞いてると、あなたの肩書き一言で言えなくね??
となる人もたくさんいる。


楽しそうに自分の仕事の話をする人は、
たとえ肩書きを一言で表せなくても、
この人はこんな能力をもっていて、それをこの仕事の中で発揮しているんだなあ
と思わせてくれる。


肩書きに縛られて世間の「こうあるべき」
に合わせるよりも、
自分のもった経験や能力を使って
世の中のだれかのために貢献できるなら、
それがいちばん社会にとっても自分にとってもwin-winな関係ではないのか。

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もうすぐ次の職場での仕事が始まる。

どんな仕事?と聞かれて、肩書きを一応は言えるかもしれないが、
なんだかどれもしっくりこないのは、この考えに至ったからなのかもしれない。


でも、この一言で表せられない感覚を大事にしたいと思った。

自分のこれまでの経験を使って、
社会で繋がる誰かにのために身を尽くす。
それだけ。


そう思うと、「教師」という肩書きに縛られていたときの自分と
ちょっと違った気持ちで仕事に臨めるような気がしている。


私の肩書きは
「自分の能力を使って社会貢献する人」
なのかもしれないね。





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