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転・勤・物・語

2021年の現在、「シャ乱Q」という名前のバンドを懐かしいと思う人は恐らく30代以上の年齢だと思う。
私にとってこの「シャ乱Q」が過つてヒットさせた「上・京・物・語」はとても大切な思い出の曲である。

上京物語

なぜか?その理由は「上・京・物・語」が世間で注目され始めた頃、自分自身もリアルに交際していた女性と離れて遠方に転勤し引っ越さねばならなかったからだ。
この曲は1994年に当時のTV番組のテーマ曲として売り出されたようであるが、私はその詳細は知らない。
ただ1994年当時は、私が新卒採用後に配属された茨城県つくば市の事業所から同じ会社の広島市の出先事務所へ転勤の内示を受け、準備を勧めている最中の年だった。そんな頃に出会ったのが後に妻となった女性である。

彼女(結婚前の話なので妻ではなく彼女で表現します)とは、とある結婚情報サービスをお互い利用して知り合ったのだが、なぜか会う時から以前からの知り合いの様な自然体な感じで話ができた。

私達が利用していたサービスはインターネットが普及する前なので、サービス業者から定期的に複数の紹介状が郵送で届き、その中から相手を選び直接又は業者を通じて連絡を取り合うシステムになっていた。
また数ヶ月に1度くらいの間隔で業者の出先事務所に出向き、業者の担当者(当時の年齢で4〜50代くらいの女性)と会ってカウンセリングの様な面談を行うシステムになっていたと記憶している。

ただし30年近くも以前のことだし、もうその業者は無くなっているので詳細なサービス内容は不明である。

何はともあれ、この業者からの紹介状で当時私が住んでいた茨城県土浦市から比較的近くに住んでいて私と同い年の女性が彼女であった。

私はこの頃、自分が転勤の内示を受けるとは思わずに紹介状の内容から彼女に連絡を取ってみようと思い、サービス業者に直接彼女に連絡を取りたいので自宅電話番号を教えて貰えるように手配していた。

携帯電話は世の中に有ったが一部の高額納税者しか持てていなかった時代なので、この頃は自宅電話かポケットベルが一般的な連絡手段だった。

彼女の実家に電話をしたのはたしか週末の夜だったと記憶している。
そしてその電話の会話ではナゼか「米」の話で盛り上がった。これはこの年の前年に国内米が大凶作で「タイ米輸入」などが大きなニュースになっていたからだった。

私の実家はこの頃、両親が自宅で食べる分の稲作をやっていて米の凶作には影響され難い環境でいた。

だが米を購入して生活している家では米の大凶作は切実な問題になっていて、彼女の家もそれは同じだったのだ。

だから私と彼女との最初の会話は「米」がメインの話題になった。2021年の現在ならば新型コロナ感染症が色んな所で話題になり、それこそ感染症の影響で人生が左右されている人達も多いと思うが、当時の私たちには「平成の米騒動」が一番身近で一番大きな話題だった。

そんな1990年代の中半に私と彼女は交際を始めた。だがつき合い始めて間もなく、私は会社の上司から広島市への転勤の内示を受けた。

広島駅新幹線_駅名看板

実は彼女と会う直前に上司と二人で広島の事務所に出張し、広島で私が住む『ひとり暮らし用』アパートを探し仮契約を交わしてきていた。

しかし彼女と直接会って会話を交わし、半日ドライブして私たちはお互いに結婚を意識して交際する気持ちになっていた。

彼女と交際を始めてすぐに、私は上司に「結婚するので、もう一度広島のアパートを選び直させて下さい」と直談判した。

だがそれまで結婚前提で交際している女性の影も匂いも周囲に見せていなかった私がいきなり結婚と言い出し、転勤のために仮契約したアパートを再度選び直したいと申し出たため直属の上司も事業所長も俄には信用してくれず、この申し出は当時の勤務先で大きな問題(話題)になった。

上司達への申し出は結局当時の勤務先の部署だけでは処理できず、本社の事業本部の担当役員にまで話が行き、2週間後に私は再度広島市に出向いて新婚生活に支障のない広さと間取りのアパートを選ぶことができた。

それからは本当にバッタバタで色んなことをした。

まず彼女の家に私が出向き「娘さんを僕に下さい」と挨拶し、私の家族に彼女を紹介するため彼女を連れて実家の山梨県に戻ったり、結婚式の会場候補をピックアップしたりした。

そして彼女と交際し始めて2ヶ月後、私は茨城県土浦市のアパートから広島市に引越した。

荒川沖駅西口

転勤に伴う引越しなので引越し費用と私が移動する交通費は会社から出たが、彼女が広島の新居まで私と一緒に付き合ってくれた。当然彼女の交通費は自腹だったし、彼女と一緒に長距離移動したのはこの時が初めてだった。
私達は二人で一緒にいられることが嬉しかった。少くてもこの時の私はそう思っていた。

引越し作業は2日間に及んだが、依頼した引越し業者の作業は非常にスムースに終了した。それは私達二人が一緒に家具の配置などを色々と考えて楽しめる時間も少なく感じるほどのスピードだった。
私達が生まれて初めて体験する西日本の6月の夕日は午後4時頃に感じられたが、時刻は午後6時を過ぎようとしていて、日本が東西にん長いことを実感できた。

引越し作業が終わった後、私はこの日の内に茨城県まで帰る彼女を広島駅の新幹線ホームまで送った。

私が約1年間を1人で住む予定のアパートの最寄駅からJR西日本、可部線に乗り広島駅に出向き、構内を移動して新幹線ホームにエスカレーターで上がっていた時、私は不覚にも彼女よりも先に涙を流してしまった。

それまでの20数年間女性との交際経験が乏しかったからなのか、私自身も理由がよく解らいが、とにかく彼女と駅のホームで分かれるのが悲しかった。そして私の涙を見て彼女も泣き出した。

300系新幹線

博多発〜東京行きの「300系のぞみ」が入ってくるまでの数分間、私達は広島駅の新幹線ホームで人目も憚らず抱き合い、キスをして泣いていた。

結婚して26年、あの日に広島駅で彼女を見送ってから27年が過ぎたが、後にも先にもあんな気持ちになったのはあの日が初めてだった。

この時、私の心の中ではシャ乱Qの「上・京・物・語」のメロディーが鳴っていた。

この歌の歌詞の最後にある、

『so,いつの日か東京で夢叶え、僕は君のことを迎えに行く、so,離れない離さない、今度こそ、どこまでも着いて来いと言えるだろう、心から』

の部分が新幹線を見送る私の中で何回もリフレインされていた。

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