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スイッチ、ころん

早朝から鏡と睨み合い続けて、もう数時間。

部屋の角の壁と床に設置した大きな鏡には、私の姿が左右に、上下に反転して映り込んでいる。実際に眺めながら考えても、やはり鏡映反転の理由は分からない。

床に置いた鏡に映る、上下逆さの私の像は、特に不可解だ。

鉄板に銀の膜を張り、さらにガラスを被せるだけ。構造は簡単なのに、なぜ反転して物が映るのか、鏡はなかなか教えてくれない。2000年間、あらゆる人を惑わせ続けている鏡の謎。もはや魔性だ。

「鍵、また開いてたので勝手に入りましたー。不用心なんだから…。あら、ついにお洒落に目覚めちゃいました?メイク道具、貸しますよ?」

今日も自慢の金髪ロングヘアをなびかせ、ド派手なメイクをした友人が、ドタバタと私の実験ラボ兼住居に入ってきた。ダンスを生業とする青年で、いつも騒がしい。

「静かに!実験中!」

「はいはい、博士はかせさん。実験でしょうとも。分かってますよ。とりあえず、焼き立ての今川焼でもどうです?イライラ治まりますよー」

私の名前は博士と書いて「ひろし」だと言いたい気持ちを抑える。机の上のペンを取り、壁に貼り付けている大きな紙に、思い浮かんだ数式を書き記した。

私はメモ魔だ。メモの整理が煩わしくなって、壁一面をメモにした。図形や数式、何でもない独り言や愚痴、落書きや詩などなどで紙を埋め尽くしたら、スキャンして内容をパソコンに取り込み、紙を交換する。

後ろから、滅多に点けないテレビの騒々しい音が聞こえてきた。

「あ、丁度あの変な岩石のスイッチ、押されるみたいですよ。実況中継だって。博士はかせさん、興味あるとか言ってませんでした?」

書き終わり、裾や袖口が何ヶ所も擦り切れている白衣を翻して、隣のリビングに移動した。イスに足を組んで座り、今川焼を頬張る友人は、もう家主の風格を漂わせている。

キッチンに入り、急須に茶葉を入れ、ポットの湯を注いだ。

研究、実験と論文執筆に夢中になって、食事や睡眠を忘れがちな私を助けようと、頻繁に来てくれるのはありがたい。しかし、私と違ってまだ若い彼には、色々あるだろうに。こんなに私に構っていて大丈夫かと、時々心配になる。

数ヶ月前の真冬の真夜中、とある数式を記憶から捻り出そうと、近所を散歩していた時。路上でしゃがみ込んでいた彼と出会った。救急車は嫌だという彼を、仕方なく家で介抱してからの付き合いだ。

職場のキャバレーからの帰宅途中に気分が悪くなったらしい彼は、水を一杯飲んだら落ち着いた。そして一晩中、色々話してくれた。

見た目や歩んできた道は真逆の私たち。しかし驚くほど話が盛り上がり、定期的に会う友人になった。

「興味はあるが、ああいう、人の注目を浴び過ぎるものには近寄りたくないんだ。世間の毒気にやられて、目眩がする」

緑茶で満たした湯呑を彼の前に置く。

「へー。現地に乗り込んで実験するのかと思ってました。あ、今川焼、美味しいですよ。新発売の豆乳抹茶クリーム味、大当たり」

「いらない」

「じゃ、俺が全部食べときますね」

今は・・ってこと。残しといてよ、豆乳抹茶クリーム」

「はいはい、ふふっ」

春の生暖かい陽気のような、緩い会話を続けていると、テレビ画面には地元の人へのインタビュー映像が映し出された。レポーターがお爺さんに、例のスイッチについて尋ねている。


「銀を取り尽くされ、何百年も放置されてた鏡里かがみざと銀山が、急に激しく揺れてな。頂上の辺りが崩れたんだ。崩れてできた断崖絶壁の斜面に、大きな奇岩が出てきてな」

「それは、どんな形の?」

「今の見た目通りの、見事な円筒形だよ。まるで人が削り出したみたいに、綺麗な形しててな。厚みはそれほど無い。奇岩は最初から、しっかり絶壁にくっついてるわけじゃないみたいだった。微妙に、隙間があるんだ」

「この数ヶ月間、大規模な調査が行われ、あの奇岩は何らかの押しボタンスイッチという結論に至りました。今まさに、そのスイッチを押す実験が行われますが、今のお気持ちは?」

「ちょっと怖いけど、ワクワクしてるよ。まさに、非常用ベルのスイッチ押すみたいな感覚だ。わははは」


「のんきだなぁー。何が起こるか分からないのに。でっかいクレーンの先に付けた鉄球で岩のスイッチ押そうなんて、ちょっと乱暴ですよね」

「まぁ、謎のスイッチが目の前にあったら、押さずにはおれない」

博士はかせさんも気になったらすぐに押しちゃいそう…。あっ!ふふっ、あのスイッチ、今川焼にそっくり」

今川焼を掲げながらニュースを見る友人に背を向けて、隣の実験部屋に戻る。軽く柔軟体操をしている間に、リビングから轟音と歓声が聞こえてきた。スイッチが押されたのだろう。

気にしない気にしないと頭の中で繰り返しながら、鏡に覆われた部屋の角に目を向ける。

何か、違和感がある。

鏡をよく見て、息を呑んだ。壁に取り付けた鏡の中の私が、反転していない。近づき、鏡に右手の人差し指を当てる。鏡の中の自分と、まったく指先の位置が合わない。

はっとして、下を向く。床に置いた鏡には、真上から見た自分の姿が映り込んでいた。何度目を擦っても、私の姿は反転してくれない。

あのスイッチ、もしや、





鏡の反転スイッチ。   。チッイス転反の鏡


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