あらまほし鈴蘭の星目薬
「大変。ビッグバウンスが起きてしまう」
月に1回、いつもの喫茶店のいつもの席で待ち合わせする幼馴染の友人は、もう70代だとは思えない勢いで私の頭を両手で掴んだ。そして、私の左目を心配そうに覗きこむ。
「うわ、って、ちょっと、痛い痛い。落ち着いて、ただのおしゃれよ。安全だから。とりあえず放して」
「ごめん……」
しゅんとした様子で着席してくれた。首の後ろをさすりながら、息を吐く。私も同じ70代のお婆ちゃんだということを、そろそろ理解してほしい。
でも、予想外の面白い反応に大満足だ。最近、巷で流行っている片目だけのおしゃれ。黒目が好みの星のリアルな形に見えるようになるという星目薬。
もちろん若者向けだけれど、お婆ちゃんがやってはいけないという法律はない。3日前、思い切ってやってみた。今日会う友人がどんな反応をするのかワクワクしながら。
「黒目が星、ということは、眼球が宇宙ということよね。最近読んだ論文に興味深い宇宙論的モデルがあったのよ。宇宙はこうできてるんじゃないかっていう、考え方の1つね。それによると、宇宙は収縮と膨張を永遠に繰り返してるらしいの。今は広がり続けてるけど、いつかは縮こまって、ゆっくり、ゆっくり、全ての星や銀河が押しつぶされて、また新しい宇宙が……」
「ちょっとちょっと、脅かすような話は止めて。もう、子供の頃から生粋の宇宙マニアなんだから。隙あらば宇宙、ね」
「私の宇宙の話を飽きずに何十年も真面目に聞いてくれてるの、鈴ちゃんだけよ。ずっと独り身で、結局狙ってた宇宙関連の仕事にも就けなかったけど、この歳になるまでずっと宇宙マニアでいられたの、鈴ちゃんがいてくれたからなの。でも、もしかしたら私に付き合わせたせいで、鈴ちゃんも一生独り身にさせちゃったのかもって、最近思って」
しぼんでいく声量。沈んでいく表情。ああ、いつものようにへらへら笑ってほしいのに。
「そりゃ、若い頃は気にしたこともあるけど、蘭ちゃんのせいだなんて思ったことはないわ。今は逆に、あなたとずっと2人で良かったと思ってる。あ、もしかしてそれで最近ちょっと元気無かったの?ふふふ、自由気ままなようで気にしいなんだから。老人ホームに入った後も、ずっと宇宙の話聞かせてちょうだいよ。私だって宇宙好きなの」
目の前の顔に笑顔が戻ったことを確認してから、鞄からいくつかの冊子を取り出す。一緒に入居しようと話し合っている老人ホームのパンフレット2冊と、例の星目薬の説明書。
テーブルにどしんと乗せる。意外と重い。主に星目薬の説明書が。乗せたとたんに蘭ちゃんの手が説明書に伸びた。ぺらりぺらりとめくり始める。
「お店に入った時に、黒目が星の形に見える仕組みを店員さんが丁寧に教えてくれてね。瞳に張り付いてる涙の層に目薬の液が混ざると、入る光が曲がって星に見える……らしいわ。私、その時は全然理解できなくて。年齢制限は無いらしいけど、別の店員さんが心配してくれてね。その人が後から詳しい説明書を家に送ってくれたのよ」
「それが、これ?手書きだ。すごい、カラーイラスト入りじゃない。分かりやすいし面白い。カリスマ店員ね、その人」
「ね。すごいでしょ。しっかり読み込んでから、またそのお店に行って説明書のお礼言って、この満月の目薬買ったの。その場で試した時にお似合いですーって言われたけど、似合ってるのかどうなのか自分じゃよく分からなくて。どうかしら。見てみて」
蘭ちゃんが私の左目をじっと見た。瞬きを少し我慢する。どうか、卵の黄身のような、見事な満月が見えていますように。
「綺麗」
蘭ちゃんと目が合ったまま、しばらく沈黙が流れる。恥ずかしくなってきた。顔が赤くなる前にごまかそう。
「……えっと、じゃあ、蘭ちゃんもどう?蘭ちゃんにこそ、ぴったりでしょう?帰りにお店寄らない?星目薬の瓶もラベルもね、可愛いのよ。香水瓶みたいなの。それぞれの星をイメージしたデザインになってるんですって」
「そうね、面白そう。同じ満月にしても、いい?」
「もちろん。おそろいね。うふふふ。楽しい。10代の頃に戻ったみたい」
「本当に。ふふふ」
お互い、左目に満月を光らせて。街を練り歩いて道行く人を驚かせて。愉快な想像が次から次に生まれていく。
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