声の波紋は白の原初へ
「 」
誰かに、何かに呼ばれた気がした。でも、起きるのが億劫で。目を閉じたまま、僕は感覚を探し始めた。ただ白い。目をちゃんと閉じているのか、不安になってくる。暑くも寒くもない。ここはどこだろうか。
とりあえず、末端神経に集中。僕の手足はどこだろう?そろそろと探ってみるけれど、見つからない。ちょっと焦るけれど、その焦燥感さえも、すぐに薄まっていく。
僕は、生きているのか?
「 」
あ、また。やっぱり、何かに呼ばれている。聞こえるのだから、生きているのだろう。そういうことにしておこう。しかし、自分の名前がなかなか思い出せない。でも、名前を呼ばれている。絶対に、呼ばれている。変な感覚だ。この確信はどこから来ている?
五感がほぼ無いのに、意識が曖昧なのに、僕は安心している。周囲の「白」がただ、平らに広がっているだけで。得体の知れない何かに、時々呼びかけられているだけで。
だんだんと、白い視界に色が混ざってきた。色の波が僕の視界から白を少しずつ、押し流していく。ぼやけた視界で、初めて認識できたのは、人の顔。真剣な眼差し。
視界はすぐにクリアになった。僕を真剣な顔で見つめていたのは、紺色のエプロンをした男の人だった。額に、深い皺が刻まれている。
僕は、木製のテーブルの上に置かれていて。大きなハサミや様々な色の布切れと糸、針がたくさん刺さっている小さなクッション、縞柄の猫の写真に、大体いつも囲まれている。
視覚の次には、聴覚を手に入れた。男の人が、耳をつけてくれたのだ。僕は耳を澄ます。
この男の人こそが、僕を呼んでいた人なのではと思っていた。けれど、この男の人は酷く無口だ。ミシンがダダダッと動く音やシューと糸を通す音、シャキシャキと布を切る音しか、聞こえてこない。
しばらくしてから、ずっと待ち望んでいた手足の感覚を手に入れた。もう、首元がぐらぐらしないし、とっても快適だ。少し短くて太めの、猫の手足。あの写真の猫とそっくりだ。縞模様も。
白いヒゲや縞柄の尻尾もついた。男の人が僕の背中の一部を、丁寧に縫い留め終わって。僕は抱き上げられて、様々な角度から見つめられる。少し、照れくさい。僕は男の人の笑顔を初めて見た。
名前を呼んでくれるかなぁと期待したけれど、やっぱり男の人は何も言わなかった。まだ僕は、自分の名前を思い出せない。
僕は綺麗な箱に丁寧に入れられて、どこかに運ばれた。数時間、ゆらゆらと揺れて。その揺れが収まって、また小さな揺れが始まった。
僕は、どこに行くのだろう?不安で、鼻とヒゲがむずむずしてくる。あの男の人の声が聞こえる。女の人の声も。何か、話している。
しばらくの静寂の後、強烈な光が突然差し込んできて、飛び上がりそうになるほど驚いた。すぐに僕の身体は抱き上げられて、女の人と目が合った。
涙がたっぷり張り付いている瞳。僕はまた、びっくりした。じっと見つめ合って数秒で、女の人の頬に溜まった涙がつたって落ちていく。
「コタロー……コタローだ……コタロー、おかえり」
僕は強く抱きしめられて、女の人の首元に顔を埋めた。覚えているわけないのに、微かに覚えている優しい匂い。呼んでいてくれたのは、この人だったのか。コタロー。コタロー。反芻して確かめる。僕の名前は、コタロー。
女の人の小さい嗚咽の声を聞きながら、規則的な鼓動の揺れを感じ取る。心臓のパーツがつけられていたら、ぬいぐるみの僕もこんなふうに、胸の奥が動くのだろうか。
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