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子牛の件とクリームシチュー


モォ~モォ~、ヴォ、モォ~

突然の牛の来訪で、寝起きの頭に一気に血が通った。素早くドアを閉め、後退りしながら考える。

せっかくの休みだからと、今日は気の済むまで眠ろうと思っていた。しかし、無情にも早朝五時にチャイムを鳴らされ、むすっとしたままドアを開けた。そうしたら、これだ。

なんで、牛が?

夢であってほしい。夢だ、夢。あり得ない。普通のアパートの四階の一室に、突然迷い牛が来ることなんてない。牛が一頭で、エレベーターを使いこなせるわけない。それに、どうやってチャイムを鳴らした?牛は、後ろ足だけで立てるのか?

ついさっき目にした光景が夢であると判断する理由を、頭の中でぶつぶつ唱えながら、もう一度、ゆっくりドアを開けた。五cmほどドアを開けた時、牛の鼻先が隙間をこじ開けるように勢いよく突っ込んできた。

「びゃあぁ!」

飛び上がるように後ろに退いて、固まる。牛は、ドアを押し開けてのっしのっしと家に入ってきた。私の目の前で止まり、周囲を見回している。

モォ~……モォ~…

さっきから、しきりに鳴いている。

よく見ると、意外と小さい。まだ子牛なのかも。やっぱり、モーって鳴くんだ。あ、土足厳禁なのに。あ、土足じゃないのか。ひづめは靴?ん?

混乱した頭の中で、どうでもいい疑問と呟きが渦を巻く。ついに、牛は私を見た。目と目が、ばっちり合ってしまった。

「いきなりお邪魔してすみません。でも、事前にどうお知らせしたらいいのか、分からなくて。私、『くだん』と申します。漢字は要件の件の一文字で、くだん、と読むのです。私の名前を聞いたことは?」

お決まりのモーという鳴き声は消え、若い女性の声になった。私よりも流暢に喋る子牛に、私の脳は思考を放棄しようとしている。

「……ご存知ないですか。無理もありません。私はもう、人々にほぼ完全に忘れられていますから。ご説明します。私は妖怪なのです。古くから、人々に凶事を知らせて回っております。私の姿を紙か何かに写し取っていただき、それを肌身離さず持っていてくだされば、その凶事を避けることができますので、このこともお知らせに」

「……キョージ?」

「一般的に、よろしくないとされることです。戦争や飢饉、病や災害などなど。私は伝えるべきことを伝えられれば、満足なのです。伝えたその日の終わりに天に帰れます。使命を果たしたという誇りを胸に」

ずいっと近づいてきた子牛、件は、硬直したままの私の服の裾をくわえた。はむはむと、口の先を動かしている。なんとまぁ、可愛い。気持ちに余裕が出てきた。

「あの、なんで私の所に?……私全然、偉い人じゃないです……戦争とか災害とか予言されても、どうにもできないんですけど……」

「ああ、今回はあなたに関することだけを伝えに。あなたは来年、かなり重い病にかかります。あっという間に命に関わる状態になります。ですから、私の姿を写し取っていただきたい。さぁさぁお早く。墨と硯、和紙を用意して。私の姿を写し取った紙は、大事に持っていてくださいね」

ぐいーっと服を引っ張られて、慌てて引っ張り返す。

「ちょっ……ちょっ、と待って。墨も硯も無いです。和紙も無いです。あの、スマホのカメラじゃ駄目?写真なら、そのままの姿が映せるし。何枚かプリントしておきますから」

服の裾を放してくれた件が、私をじっと見た。

「……スマホ、とは何かよく分かりませんが、私の姿が写せるものならば問題ありません」

ほっとして、件の額を撫でた。件は目を細めて、気持ちよさそうにしている。普通の子牛のようだ。可愛い。

「ああ、なんとか大任を果たせて、安心しました。今日の真夜中十二時ちょうどに、私は消えます。それまで、ここに置いておいてくれませんか。外にいると目立って、面倒なことになりそうなのです」

つぶらな瞳で見つめられた。ああ、もう放り出せるわけない。

「いいですよ。むしろ、いてください。そうだ。今日は一緒に夕飯食べませんか。あ、食べ物は、食べれない?」

「ありがたい。夕餉ゆうげまでご一緒させてもらえるとは。食べれますよ。半人半牛なので。今はほぼ牛ですが」

「良かったー。今日はクリームシチュー、たっぷり作ろうと思ってて。コトコト煮るのがね、好きなんです。休日は何か、大鍋で煮たくなるんです」

件の頭に手を置きながら、キッチンに移動した。




具材をペースト状にして少し冷ましたシチューを、件は美味しそうに平らげてくれた。その日の夜、眠りに落ちるまでベッドの脇に立っていてくれないかとお願いしたら、件は快諾してくれた。

「……予言なんていいからさ、また来てよ……また、シチュー……作るから……」

「ご無理なさらず。もう、おやすみになって。いつになるかは分からないけれど、またきっと、来ます。あなたがちゃんと生きてるか確認しに。それまで、お元気で。おやすみなさい」

「うん……おやすみ……」

温かい件の額から放した手を、布団の中に入れる。意識が無くなる直前まで、私は件のゆっくりとした瞬きを見つめていた。



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