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捨恥究学

 最近、物事に対するこだわりや執着が減ってきて、それに伴って心が安定してきました。このことは、以前noteの別の記事にも書いたことでした。

 すると、今まではただ認識していたことを、実行のフェーズに移すことができるようになってきました。それらには、私がかつて不安定だったころに悩み、こうあったらいいな、と思っていたことも多くあります。

 例えば、毎日朝起きた時に、今から始まる今日という日に期待で胸を膨らませて起きること。悩んでいたころは、それができたらいいな、とは思っていたものの、来る日も来る日も悩んでいたことの続きに追われてしまい、それができませんでした。しかし、今は朝起きた時に歩数計をポケットに入れ、一日をスタートします。毎朝「0歩」から始まるカウントに、今日は何が待っているのだろうと想像し、新しい一日を始められるようになりました。

 この記事では、かつては「認識」のフェーズにあったことを「実行」の段階に移せている現在、最も実行できていて嬉しいことを取り上げていきます。それが、タイトルにある「捨恥究学」(しゃちきゅうがく)という概念です。


捨恥究学とは

 捨恥究学とは、私が作った造語の一つで、一言で述べると次のような意味の言葉です。

 「恥を捨てて学びを究める」

 この言葉は、私が2年前に作った言葉で、当時は「子どものように学びたい」ということを悩んでいました。ここでいう「子どものような学び」とは、恥や失敗の概念がなく、それゆえにそこから自由でどんどん様々なことを探求できるような学びを指します。この感覚は、例えば幼いころに、泥団子を作って体が泥まみれになっても楽しかったような「ひと時」や、水たまりに興味津々になって大きな水たまりに入っていくような「楽しさ」に近いものです。私は、まさにこのような学びの境地を目指して、なぜ自分はそのようになれないのかと悩んでいました。理想とする学びがなかなかできない自分が、そうなれたらいいのにと思い、この「捨恥究学」という言葉を考えたのでした。

体現できなかった日々

 この言葉を考えたものの、私はなかなか恥を捨てた学びを実行できませんでした。当時の私は、「これを分かるようになりたい!」という思いよりも、「これを理解してやろう」という考えのほうが多く、学ぶ内容に対して常に驕る(おごる)ような視点でいました。これには中学時に抱いた劣等感を学びで消してやろうという考えが根底にあったのですが、これについては以下の別記事で詳しく触れることにします。

 このような視点が常時あったため、私は恥を捨てるどころか、分からないことは愚かだ、ダメなことだという考えすら持って学びをしていました。そのため、分からないことは分からないままになってしまい、そこを隠していたことさえありました。

 このままではいけない、と思っても、そこに向き合うことが怖かったため、私は同じ場所でずっと足踏みしているような風でいました。「分かった」という確信がないまま、学ぶ内容もどんどん高度になり、月日も過ぎていきました。

10月の安定、そして捨恥究学の体現

 しかし今年の夏休みが終わり、10月に入った時、大きな変化が起きました。今まで悩んできたことが不思議とつながり始め、私は一つの大きな物事に気づいたのでした。

 今までの不安定は、マイナスなものごとに対する強いこだわりが作っていた。それをなくしていき、自分の「いつもの状態」に帰ってくれば、心は自然に安定する。

 そのことに気づいて、こだわりをなくすようになってから、今まで悩んでいた自分が嘘であったかのように心が安定し、同時に冷静で客観的になれました。中学時に抱いていた劣等感も消え去り、先述した学問への驕りもみるみるうちに少なくなっていきました。

 すると、自然に湧き上がってきたのが、小学生時代以来失っていた、「純粋な好奇心」でした。それは今までのような「理解してやろう」ではなく、「分かるようになりたい!」という方向の情動でした。

 私は今学期に受けている授業の中で、どうしても分からないものがありました。それは毎回授業を受けても、今一つ内容がつかめないものでした。そこで、その授業の何が分からないのか、その授業に関連した分からない語句の統計をとって調べてみました。すると、その発端は昨年度受けた別の授業にあったことがわかり、私は当時の授業担当の先生に、勇気を出して質問のメールを書きました。

 すると、幸運なことにその先生が直接会って質問を受けて下さることになり、私は質問をもって先生の研究室に伺いました。そして、約1時間ほどの議論の末、その授業で分からなかった箇所がクリアに頭に入ってきました。その後、家に帰って早速計算をし、約1年間分からなかった計算を自分の手で再現できました!その時の達成感には、凄まじいものがありました。

 私が、先生に質問をしてその概念を理解できるようになった過程は、今思えば、これこそが「捨恥究学」だったのだと思います。この言葉にたどり着いてから約2年、私はこの言葉の意味するところを体現できました。

最後に

 今学期分からなかった科目は、先生に質問した事項を踏まえてみると、少しずつですが分かることが増えてきました。今のペースで、引き続き勉学に励もうと思います。

 子どものような学びをしたいと望んでいたころは、それが手に届かなかったにもかかわらず、それにこだわらないようになると、自ずと子どものような学びになっていきました。このように、こだわらないことによって、それにこだわっていたころは実現しえなかったことが実現できるということは、最近は多く経験します。

 最後に、自分が考えた言葉「捨恥究学」について思うことを述べます。私の今のこの愚直な勉強は、当時の中学時を引きずっていたころの自分が見れば、それこそ「嫌だ」と思ってしまうことでしょう。しかし、いったん恥を捨ててしまえば、意外と捨てられるものだと感じました。こだわりを捨てて学びを味わっている今の自分にとって、捨恥究学は、自然に至れる学び方なのだと思いました。

 私の学びは、これから本格的に始まります。

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。

   ねこっち

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