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平穏と自我

 ねこっちです。最近は、春休みの最中に始まった心の不安定が長引き、去年の10月のころのような平穏で覚醒した状態から遠い、疲れがちで鈍重な状態になって過ごしています。

 そのような中始まった大学の授業は以前よりハードに感じますが、それは恐らく、授業のレベルが上がったのではなく自分が疲れやすいからなのでしょう。今は、レポートをしたためながらもゆっくり休む時間が必要です。

 今日はレポートにめどが立ったので、久々にnoteを更新します。今日の思考テーマは、「平穏とは何か」ということです。


去年の平穏

 2023年10月、私は不思議なことを体験しました。それまで生死を悩むほど病んでいた心が晴れ始めたのです。

 この経験は本当に良い経験でした。私は自分を認識できるようになるほど自分の自我が発達してから、平穏な心になったことが一度もなかったので、生まれて初めて自分を認識しながら自分の心が晴れた経験をしたのはよい意味で新鮮でした。

 この時の経験を振り返ってみると、これは「こだわりが減ったこと」が引き起こした心の平穏だったのだと分かりました。

 それまで私は、何を見ても自分のこと-なぜ自分は子どもではないのか、なぜ自分は天才でないのか、生きていくとは何なのか、など-を考えてしまい、とても健全な生活どころではありませんでした。常に思考するテーマは「自分」で、私はそれに苦しんでいました。

 しかし、昨年の10月、突然「自分について考えないことが大事なのではないか」とひらめき、それを確かめていくうちにみるみる心が安定していきました。

 勿論、自分を何も顧みないということではありません。自分について顧みなければ、欲などに動かされて大変なことになってしまいます。大事なのは、自分について事あるごとに、病的にこだわるのは苦しいことだ、ということです。これをうまく意識するようになってから、私は確固たる自分を逆に獲得し、生活もまた充実していきました。

世間には自分を考えさせるものが多い

 私の場合は、自分について考えるとそれが止まらなくなり、調子が悪くなり、その調子の高低を中学入学直後からずっと双極性障害のように繰り返していました。

 そうして不安定な私が学校に通ったり浪人したりして生きていると、嫌でも自分の中で見聞が広がっていきます。その中には、自分が身に着けてきた多くの「常識」もありました。

・「社会は実力主義」
・「教養をもつことが大事」
・「人にされて嫌なことはしない」
・「小学生でもわかることを大人はできないことが多い」
・「いい年して」「大の大人が」
・「大人の事情」

 ここで述べていることが分かりにくかったらすみませんが、こうした世間の常識には、自分に意識を向けさせるものが山ほどあります。例えば、大人になるとマルチタスクが嫌だ、というのはよくあることと思います。しかし、子どものころも「勉強」や「遊び」、「友人関係」というマルチタスクをこなせていました。大人になって変わったのは、それをマルチタスクだと認識する心のほうです。そして、そのような心を作るのが、大人になるまで発達し続けてきた、社会性や人間性などに存在している「常識」だと思うのです。

 大きな失敗や犯罪、借金などのような、第三者が見ても明らかに苦しそうに見える場合を除き、大人になってパッとしない、厳しくなった、充実しないと感じる原因は、もしかすると「経済」や「人間関係」などの個々の要因がすべて悪いのではなく、それらを認識して自分に結び付けてしまう、自我のほうが悪いのかもしれません。

 世間には、自分に意識を向けさせる文言や考え方が多くあるように思います。もちろんそれが全て悪いとは言いませんが、それも「大人の心の不安定」に一役買っていることと思います。

蛇足:「物事を自分に結び付けて考えてしまう自我が良くない」というこの視点に立てば、そもそも自分を「大人である」と考えすぎることもよろしくないように思えるので、今述べた「大人の心の不安定」という言い方も変なのかもしれません。

自我のコントロールの重要性

 そもそもこんなことを考えたのは、久々に合唱曲『ありがとうさようなら』を聴いたからでした。『ありがとうさようなら』には、このような一節があります:

思い出の傷が 残るあの机に だれが今度は すわるんだろう

『ありがとうさようなら』歌詞の一節

 もし「マルチタスク」が本当に”悪”なのであれば、子どものころのマルチタスクの元凶である「学校」に、懐かしさも思い出もないはずです。しかし、多くの人には「学校」に思い出があります。

 もしこの歌詞を

「思い出の傷が 残るオフィスの机で どんな社員が 働くんだろう」

と替え歌すれば多くの人が違和感を抱くはずです。「学校」と「オフィス」は一見すれば同じようなもので、そこに特別な非対称性はないはずです。それなのに違和感を覚えるのは、子どもから大人になるにつれて、物を見る目のほうが変化したからだと考えられます。この変化の要因が、私は「発達した自我」ではないかと考えました

 そう考えると、いかに自我をコントロールし、自分について過剰に考えない状態を作るかが大事なのだと合点がいきます。去年私が体験した心の平穏は、それまでの「自分が自我に支配された状態」がなくなったからであると説明できます。

 私は大学で学び、段々と論理的思考ができるようになってきました。今までの悩んでいた私は、物理現象は論理的に考えられるのにもかかわらず、こと自分のこととなると自我に支配されて盲目的、主観的な思考になってしまっていました。本来、「自分」についても、物理現象と同じように論理的に考えるのが良いのかもしれませんね。

 まだ私は自我のコントロール法について明確なことを述べる力はありませんが、去年の平穏以来、実践していることを書いてみようと思います。

大人の意味を逆手に取る

 私は、「もう大人だから」と楽しいことをするのを渋ったり、逆に「お前/あなたももう大人だから」と言われて苦しいことを言われたりしたことがありました。私は、長らく「大人」という言葉に自分の人生が規定されてしまうような悩みを抱えておりました。

 それは今でも0になったわけではありませんが、「こう考えると楽になった」という考え方を紹介します。それは「大人だからこそ自分をもつ」という発想法です。

 これはよく考えると当たり前ですが、「大人だから○○しなさい/してはいけません」「いい年して何をしているんだ」という意見を素直に聞いてしまうのは、「子ども」のすることです。いわば先生の言うことを何でも言う通りに聞いてしまう「真面目君」のような状態です。

 大人になるというのは一つ、この「真面目君」を解き放つことが重要だと思います。「大人だから」と言われても、それを取捨選択する権利は自分がもっているのです。それこそ、「大人だから」です。

 こうして自分について合理的に判断できるようになってくると、それまで自分に無理をして言い聞かせるような心理がほどけ、「今はヤバいから休もうかな」とか「この不調を長引かせるとまずいな」という判断のもとで大学の履修や授業参加にも良い影響があり、あれだけ悩んでいたころに比べて逆に成績も上がりました。

余談:かつて宗教勧誘を受けた日(2023年10月30日)は、自分の心に明らかなダメージが及んでいたのが分かったので、翌日の授業を一コマ欠席して地元に帰りました。これが功を奏し、その時は早めに回復できました。「真面目君」を解き放つと、このような「勇気ある撤退」のようなことができるようになりました。

 勿論、「真面目君」を解き放つのは大変なことなので、今すぐにできるようにならなくてもよいです。ゆっくり焦らずにその時を待てば、いつかできるようになることと思います。

根を確かに持つ

 「平穏」にとって大事なことが他にあるとすれば、それは「自分の根をもつ」ことだと思います。

 自分が自我に支配されている状態というのは、自分が不安定で、崩れやすい状態です。そこで「自分の根をもつ」ということをすると、私の場合は楽になりました。

 植物は、花の咲くものは特にきれいで、関心は花や実らせた果実に向く場合がほとんどですが、地下には、その豪華な実りの勢いと同等か、それよりも大きな「根」があります。根は植物を見る場合ほとんど関心されませんが、根がなければ、植物は生きられません。

 自我に支配されている状態は、この「根」がもろい状態です。根がもろいと、他力本願になりがちで、他人の言うことややることに振り回されるようになってしまいます。

 そうして「自分には意味があるのか」「何のために生きるんだ」と問い始めてしまい、余計に自我に支配されてしまうのです。

 「心の平穏」以降、私は「無理なことは無理です」とはっきり言うようになりました。それまでは「他者を傷つけたらどうしよう」とか「せっかく提案してくれたのに」と考えてしまい、他者を自分よりも優先していました。その結果、さらに自分が不安定になり、自我の支配も強力になっていきました。「悪い事にはこだわらない。自分の平穏を大事にする。」と決めてから、自分の中に「無理」の基準ができ、それに従って行動するようにしてから疲労も減りました。そして、「無理なことは無理です」とはっきり言えるほうが、逆に他者のためになれるということも分かりました。

 嵐に吹き飛ばされない「自分の根」をもつことが、平穏には大事なようです。

最後に:今はまだ回復途上

 これを書いている今の私は、まだ回復の途中です。上ではさまざまに述べてきましたが、精神的に不安定になると、分かっていても無理をしてしまったり、大人だからという言葉を気にしてしまったりと、いつもの自分ではない自分になってしまいます。他力本願で真面目君な、困った自分になってしまうのです。

 しかし、もうそれもあまり怖くなくなってきました。というのも、「他力本願で真面目君」な自分になっている時というのは、十中八九、不安定な自分なので、それを証拠にして「今はゆっくり休む時だ」と思えるからです。元気な時の自分は、必ず思考もクリアで、良いことを考えられます。そのため、「他力本願で真面目君」な自分を自覚したときは、自分に対して「休息警報」を出して休養します。

 そう考えると、まだ今の自分は本調子ではないように思います。そのため、レポートも時間を決めて取り組み、今は規則正しい生活を心がけて生活していこうと思います。

 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

   ねこっち

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