彼捨離

「今までありがとう。」
いつも通りの笑顔でいる。ただ違うのは大きな黒いリュック。あたしがあげたいつものカバンじゃなくて、黒のリュック。さっきまで和やかだった空気が一気に凍り付いた。今日の晩飯はローストビーフなのに。この2人分のローストビーフはどうすればいいいの?
「どういうこと?」
本当はここで怒鳴って問い詰めたかったが、こうも当たり前のように言われると言い返すことなんて、できなかった。
「えっと、だから結婚することにした。」
この狭いワンルームが余計狭く感じた。
「誰と?」
「この人と。」
在り在りと目の前に差し出された、アイフォンの画面を凝視する。ベランダからの夜風が寂しい。
いかにも幸せな家庭でのびのび育ちました、みたいな笑顔に腹が立った。ピースを小顔効果にも使わない計算のところも気に入らない。
「もうそれいい。」アイフォンをとっさに手で払う。パシッと鋭い音がした。
あたし、こんな普通な女に負けたの?心が冷たい刃でスン、と切れた。
「誰?この人。」
怒りを露わにして詰め寄ってみても、手応えのない顔が返ってくる。
「えっと、婚約者?」
「はぁ?!」
いつも妙に冷静な青はそう、いつも通りにあたしの怒りを速やかに察知するとあたしの前から居なくなってしまう。
「じゃあ、そういうことだから。」
「ありがとう。」
今まで見た中で一番の笑顔だった。ドアの音が響動めいた。行かないで、糸のような細い声はドアの向こうへ届くはずもなかった。ローストビーフが空中にふわふわ浮かんで、フラフラのまま。

バタン、とドアの閉まる音が聞こえて、怒りはどこかへすっ飛んで冷静になった。とりあえずローストビーフ1個食べて、食欲を満たそう。これ、5000円もしたんだよ。このまま捨てるなんてもったいない。別に何の記念日でもないけど、たまに贅沢したくなる日ってあるじゃん。今日はそんな日だったの。
「美味しい。美味しい。あーとっても美味しい!」
ばくばくお腹にほおりこんで、味なんて分からないや。目から水が落ちてきても、そのまま。知らない。あたしが泣きたくて泣いてるんじゃないんだもん。空になったローストビーフを思いっきりゴミ箱に投げつけたら、爽快な音がした。
洗い物が終わって食器棚をみるとペアマグカップがあるし、お風呂に入っている時には青でも使えるようにと男女兼用のシャンプーが目に付くし、気を紛らわせようとテレビを点けるとテレビボードにはあたしは写真なんか飾っちゃってるし、じゃあ、スマホってスマホを開くと待ち受け画面に青が居る。どこを見ても思い出がある。こんな思い出が詰まった家で過ごすことなんててできないよ!!あたしはいても経っても居られなくなって、物件を急いで探して決めて、全ての処理を電話で済ませた。電力会社だけつながらなくて、朝9時になったらすぐかけて終わらせた。一睡もせずにひたすら片付けをしたせいで頭がくらくらする。残った物はたったスーツケース1つ分だった。颯爽とスーツケースを引きずって家を出て、

「死ねーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!」
星ひとつない空に向かって大声で叫んで、逃げ去るように家を捨てた。隣の人が出てきたけど、私じゃないふりをして平然とコンビニに行くときと同じ顔をしてみせた。

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