心から尊敬できる人は居ますか

それがある人は此処を見に来る必要は無い可能性が高いと思っているので、尊敬できる人が居ない人が見ている前提の話になってしまうが、それはまあ御愛嬌としまして。
自分も今、歳を食った立場になってこそそれなりに尊敬する人は居る。と言っても見方が変わっただけだ。他者が居れば、それがどんな人であっても、その人にはその人なりの良い部分がある。逆を言えばどんなに立派に見える人にも不完全な部分もある訳で、完璧な人などは存在しない、と言う冷めた視点を持つ事が出来るようになったからこそな訳だが、やはり限定的な形で「心から尊敬する人は誰ですか」と尋ねられたら困ってしまう。
全幅の信頼を寄せられるような人が居ないのだ。

それは幼い頃からそうだった。

ひとえに、我が家が多少複雑な家庭環境だった事もあって、父親はその尊敬する対象では無かった。気づいた頃には反抗期だったのかもしれないし、それは父が他界するまであまり変わらなかったとも言える。今ですらまだ反抗期が残っているようなものだ。
その理由として、おれは人生に於いて、題に上げた「心から尊敬できる人が居なかった」と言うのが大きい。そういう人が見つからないまま、先述のような冷めた視点を持つようになり、未だに「心から尊敬できる人」と言うのが存在しない、見つからないままだ。
若い頃に、例えそれが若さゆえの思い込みであったとしても、「心から尊敬できる人」というのに出会えた人は幸運な事だと思う。それに出会え無かったという事は、自分以外の心の支えが存在しない事に等しいからだ。ここまで読んでくれた人なら、心当たりがある人も少なくは無いだろう。
「そもそもお前が他人を尊敬する気が無かったんじゃないか」と言われてしまうと、まあそういう側面もあったかもしれない。が、そこはカードの裏表の話だろう。見つからなかったと言う事実だけは確かなのだ。

尊敬と言うのは、「憧れ」と言い換える事も出来る。
「尊敬出来る人」が居るなら、ああ言う人間になりたい、という憧れ、雑に言ってしまえば人生の目標に成り得るという事でもある。
それが見つからない人間は、自分自身で何かを見つけるか、人生の路頭に迷うしか無いのではないだろうか。悩み苦しみ、暗中模索を繰り返す人というのは、「尊敬出来る人が居ない」のでは無いだろうか。あまりにも尊敬する人が遠すぎるから、という場合もあるだろうが。
「尊敬出来る人が居ない」のであれば、よすがが必要なのは言うまでも無いが、悲しいかなこの日本は自己肯定になる宗教心が弱い国でもある。
だから、スポーツだとかアイドルだとか、アニメ、音楽、なんでも良い、今、心から好きな物があるならそれを大切にした方が良いと思う。それしかよすがに成り得ないかもしれないのだから。


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