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ポエトリーリーディング――詩のスタイルについて

こんにちは。長尾です。

今日はポエトリーリーディングのことについてお話ししようと思います。

現代詩の発生と朗読

以前詩の授業で教わったのですが、現代の詩はアメリカのラップがもとになっているところが多いようです。あと、歌詞とかね。(ボブ・ディランもそうですよね)

韻を踏むことは英語の詩に多く見られますし、リズムの発生なんかも「歌」「ミュージック」として広く広がるのはわかります。

朗読には詩人それそれのスタイルがあって、ちょっと舞台朗読とは違うよさがあります。舞台朗読の一員として関わらせていた時もあったので、初めてポエトリーリーディングを聞いた時はカルチャーショックでした。大きな声で、明瞭に、意味が伝わるように語る舞台朗読と、どんなにテクストを自由に読んでもいいというポエトリーリーディングの違いにびっくりしたんです。

ヒップホップとラップと詩

舞台朗読の世界ではわたしは受け入れられないかもしれない……という葛藤が、わたしの中に常にありました。ポエトリーリーディングで大事なのは詩の「場」で、ある種の前衛的な運動だからです。パフォーマンス、と呼ばれることもありますし、詩のボクシングから始まり、詩人は詩人で「朗読」に力を入れているような気もします。ただ、ヒップホップやラップと同じように、主体となる「詩の魅せ方」が舞台朗読とかなり異なるので、自分のスタイルを確立していくしかない……とかみしめて思います。

かっこよさをCheck it out!

ポエトリーリーディングや即興詩、ゲリラライブなどを聞いていると、「意味はないけれど何かかっこいい」と思う瞬間が訪れます。

その「意味はないけれど」が重要なのかなと思ったり。

舞台朗読で求められるのは全部「意味」でした。書かれた年代の背景・人物像を読んで、調べて、声に出す。ポエトリーリーディングとはまた違う味わい深さがあり、舞台朗読に携わっていたからこそ、わたしはポエトリーリーディングをしていいのか、ためらっていた時期もありました。

やっぱり、自分のスタイルを確立していくしかないんだなと思います。自作詩はどうとでも読める、という気軽さがあります。しかし先人が書いた詩は、背景やその人を知っていないと読めない、というのはわたしの中での葛藤です。

自作詩は、自由。これを合言葉に、ちょっとがんばってみようと思います。

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