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本当の『諦める』とは?

若い頃からそうなんですが、『夢は必ず叶う』教が大嫌いです。

「負けないで」と無責任に言い放つ応援ソングや、「お前達を花園に連れていく!」と泣きじゃくるスクールドラマなどに、どうしても乗れない。

なんでか、しらけるんだよね〜。

これは私の性格が『ひねくれて』いるからであって、こういう『夢叶う教』に乗っかって感動できる人種は、周りにたくさんいます。その筆頭が私の夫です。友達にもたくさんいるし、テレビの中でもドキュメンタリーなんかで頑張ってる人を取材すると、だいたい夢に向かって一所懸命。

素直なんですよね〜。

びっくりするくらい気持ちに裏表がなくて、真っ直ぐで健気な人種が、『夢叶う教』の信者。そんなに素直で大丈夫?と心配になるくらいです。まぁ、余計なお世話でしょうね。

本当に、羨ましい。あんな風に「すとん」と飲み込んで、「夢は必ず叶う!世界は、素晴らしい!今日もご飯がうまい!」と思って暮らせたら、この何か『鬱々』とした思考も、太陽に照らされて蒸発する玄関先のナメクジみたいに、消えて無くなるのかもしれない。

『夢叶う教』教祖たちは、すぐに「諦めるな」と言います。

無責任に、無邪気に。(適当だな〜っと思うわけです。ひねくれ者は。)

なんとなく「諦める」でググってみると、価値観がひっくり返る事が書かれていました。

『諦める』の本来の意味は、「物事をつまびらかにする。観察して真相をはっきりする事」なんだそうです。

「明らか」に近い意味合いがある。

今、一般的に使われている「挫折や断念」的な意味とは全く違うモノだったんです。

さらに仏教では、「真実」「真理」「悟り」の意味合いがあり、身の回りで起こる現象の原因を明らかにして理解し、自分に手が負えないならそこで「やめる」という思考のギアチェンジを促す要素でもある。

物事を「明らか」にするって、主観的に考えている間は、なかなかそれに気づく事が難しい。一生懸命に考えれば考えるほど、道は狭くなり、視野狭窄に陥りやすい。「諦める」姿勢で、後ろを振り返り、周りを見渡す事で活路が見つかることもある。

『諦める』で調べた記事に面白い一文がありました。

作家で住職でもある 『名取 芳彦』さんの記事です↓

〜仏教では「諦」と「明」の合体した「あきらめ」こそ、いつでも、どんなことが起こっても、心が苦しまず、おだやかでいられる境地(悟り)に至るために大切だとします。〜

仏教では、自分の思い通りにならない状態を「苦」として捉えます。都合通り行かない→苦しい。それなら、「都合」に焦点を当てる。これが諦める(明らか)事。目的と手段が入れ替わっていないか?と考察する。例え話でよくあるのが「お金」と「お金を稼ぐ」事です。

幸せになりたい、豊かな暮らしがしたいのが目的なのに、いつのまにかお金儲けが目的になってる・・・という例え話はよく聞きます。

「都合」に焦点を合わせると、そういう『捻れ』の部分に気が付きやすい。これが本来の『諦める』なのかもしれませんね。

本質はいつも目の前にあるけれど、それを見る心の目が疲れていたり、逆に浮ついていると、悪魔に見えたり天使に見えたりする。

状況をちゃんと見る上で、諦める視点は重要な要素。本質を客観的に見て、冷静に可能性を吟味する。原因を明らかにして、見極め対処する。撤退するも作戦の一つ。

え?ということは、『夢叶う教』の教祖様たちは、ちゃんとそれをわかってて「諦めないで」と言ってた⁈そっかそっか〜Σ( ̄。 ̄ノ)ノ 

無責任とか言ってごめんちゃい!

よし!私も諦めないぞ!

今から絶対アイドルになる!(←海賊王に俺はなる!のイントネーションで読んでね。)リアル48(あ、サバ読みました。正確には49です)

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