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ねこまぐれ「愛」三部作 あとamazarashiについて

愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。
愛の一つの「対象」にたいしてではなく、
世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」


こんにちは。記事を開いたら急に記事が3個並んでて、その後で哲学者の言葉が引用されてて困りましたか?
私がこれまでに書いたこれらの記事が、「愛」の三部作として捉えられるなあと思って並べてみました。
フロムの引用は、なんかかっこいいからです。

また3ヶ月前に、私が2017年に書いた前出の記事『めちゃモテ愛され哲学女子』に、こんなコメントが寄せられたから、という理由もあります。

「この記事に救われました。頭の中を『愛されなかったということは生きなかったということ』とグルグル巡っていた時にこの記事に辿り着きました。ありがとうございます。」

ーーと。書いてから7年の時を経た今になって、自分の言葉が誰かの救いになったことに、私は卑しくも救われました。
「めちゃモテ愛され哲学女子」などとキャッチーなタイトルをつけてますが、ルサンチマン的な記事です。書いたのが私だからです。
それにしても、記事で引用したルー・サロメの言葉、

「愛されなかったということは生きなかったということと同義である」

に傷ついた人って結構居るんだなと思いました。
私の大好きな田村由美さんの漫画『ミステリと言う勿れ』の主人公・久能整くんもそうで、
彼がこの言葉を思い出して物思いに耽るシーンがあります。
まず、こんなマニアックな言葉に辿り着けることが凄いし、『ミステリと言う勿れ』にしても、またすごいところから引用するなあ!と驚いたものだけど、似たようなメッセージはそこかしこに溢れていると思う。町中に、テレビに、電車内に、YouTube広告に。
卑近な例にはなるが、愛されなければ価値がない、愛されるために毛を無くせ、痩せろ、出会いを求めろと口々に言い立て、人々を消費に走らせる。

ところで、私はamazarashiというバンドを昔好きだったのですが、そのバンドの曲で、私が勝手に「amazarashi 愛の三部作」だと思っている3曲があるので紹介したい。
「ねこまぐれ 愛の三部作」とのダブルミーニングです。心なしか、語感も似ていますね!

まずは、『ラブソング』。
amazarashi愛の三部作(私が勝手に定めた)のなかで唯一、タイトルからして愛の歌です。

愛すら知らない人が
居るのは確かだ
それを無視するのは何故だ
それを無視するのが愛か?

愛されるだとか 愛するんだとか
それ以前に僕ら 愛を買わなくちゃ
消費せよ 消費せよ
それ無しではこの先 生きてけない
消費せよ 消費せよ
それこそが君を救うのだ

『ラブソング』という曲名は完全なる皮肉で、資本主義と結びつけられた愛の空疎について歌う。

そして、amazarashiの得意技・羅列と対比によって詩の空間を形づくり、語らずして問いかける。

資本主義 ノンフィクション フィクション 個室ビデオ 虚無 人生回顧
愛こそ全て
シグナルとシグナレス 始発電車 自殺 唄うたいと商業主義
愛こそ全て 信じ給え

「シグナルとシグナレス」とは、amazarashiが愛する宮沢賢治の絵本で、電信柱どうしの恋愛が描かれるが、次のような会話が印象的だった。

「だってあたしはこんなつまらないんですわ」「わかってますよ。僕にはそのつまらないところが尊いんです」

「シグナルとシグナレス」宮沢賢治

「シグナルとシグナレス」は、この歌詞空間のなかで、ささやかな愛の隠喩として機能しているだろう。
このようにあらゆる隠喩を羅列して愛と死を対比させながら、「愛こそ全て」と収束させる。

そして、「愛を買わなくちゃ」で締める、そんな痛烈な批判の曲であった。

そして、2作目は私の大好きな『アノミー』。

「愛など無い知らない」という言葉から始まるこの曲だが、サビの歌詞が素晴らしく良い。

愛って単純な物なんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ アノミー アノミー
そんなら そのあばずれな愛で 68億の罪も抱いてよ アノミー アノミー

地球の人口が68億人だった頃の曲だ。
「愛は単純」などと言っている人も、
それぞれに愛しやすい人を愛しているか、もしくは概念としての人類を愛しているだけで、実際に68億人の罪に触れて、その全てを抱いたり許したりしてはいないだろう。そんなことはキリストくらいしか出来ない。
今では地球の人口も80億人を超えたが、罪や苦しみも80億になったと考えると私は途方もない気持ちになる。

神様なんて信じない 教科書なんて信じない
歴史なんて燃えないゴミだ 道徳なんて便所の紙だ
全部嘘だ 全部嘘だ って言ってたら全部無くなった
愛する理由が無くなった
殺さない理由が無くなった

この箇所は、「愛」が「道徳」の同義語として使われていると思う。
また、この世で意識を持つのは自分だけであるとする「独我論」という哲学に、私はかねてより多大なる関心を寄せており、それは永井均さんのもとで学ぶ動機であるのだが、ここの歌詞は独我論者の心境であるとも捉えられる。
独我論者には、道徳が無効だ。

そして、

愛って複雑な物なんです なんて歌ってる馬鹿は私だ アノミー アノミー
そんなら この神経過敏な愛で 救えた命はあったか? アノミー アノミー

と締められる。
あれは違う、これも違う、愛は複雑だと自分に制限を課す、「神経過敏な愛」。自縄自縛になり何もできないこともあるだろう。
「馬鹿は私だ」と言い、そんな自分に救えた命はあったのか?と、自問して終わる。
しかし私は、amazarashiの「神経過敏な愛」にこそ命を救われているのだ。
そういうこともある。

そして、『アノミー』の世界にも通じると感じる、ニーチェの言葉を引用したい。

人は時々人間愛からして、お好み次第の人を抱擁する(万人を抱擁することはできないから)。しかしこのことこそは、当の相手に洩らしてはならないところなのだ。

「善悪の彼岸」ニーチェ

 万人を抱擁することはできないからお好み次第の人を抱擁することを、多くの場合において愛と呼ぶのかもしれない。

そして、この曲は私が初めてamazarashiを聴いて大好きになった『つじつま合わせに生まれた僕等』。私にとっては、amazarashiの始まりであり全てだ。

遠い国の山のふもと この世で一番綺麗な水が湧いた

という歌詞で開闢し、そこから世界に起きていくことを順に淡々と並べていき、
この世の無常と不条理を歌う。

誰もが転がる石なのに皆が特別だと思うから
選ばれなかった少年はナイフを握り締めて立ってた
匿名を決め込む駅前の雑踏が真っ赤に染まったのは
夕焼け空が綺麗だから つじつま合わせに生まれた僕等

ふざけた歴史のどん詰まりで 僕等未だにもがいている
結局何も解らずに 許すとか 許されないとか
死刑になった犯罪者も 聖者の振りした悪人も
罪深い君も僕も いつか土に還った時

その上に花が咲くなら それだけで報われる世界
そこで人が愛し合うなら それだけで価値のある世界

どうしようもなく酷くて醜い、このろくでもない世界で、つじつま合わせをするとするなら、それは、「愛」だった。
私が世の中に対して言いたかったようなことはamazarashiが既に美しい曲にしているから、もう私に書くことなんて無いな…と、この曲を聴いた私はある種の敗北感のようなものを味わった。

だからせめて人を愛して 一生かけて愛してよ
このろくでもない世界で つじつま合わせに生まれた僕等

「愛すること」が、世界で起こるすべての酷いことのつじつま合わせになるのかは分からないし、もしかしたらamazarashiは本当はそう思ってないかもしれないが、
ここまで言われたら、「愛」という言葉にもようやく重みが出てくる。

以上、amazarashi愛の3部作でした。


話は戻るが、「愛されなかったことは、生きなかったことと同義である」という言葉はものすごく残酷だ。amazarashiの「愛」の取り扱い方は、その残酷さを知り尽くしている。

この言葉に傷ついた人々には、前出の記事でも引用した、次のような言葉を提示したい。

誰からも 愛されないということの 自由気ままを誇りつつ咲け

枡野浩一

誰も他人を愛することはない 愛するのは 
他人の内にある あると思っている自分だけ 
愛されないことを 思い悩むことはない お前をあるがままに感じただけ つまり異邦人として 自分であろうと努めよ 愛されようが愛されまいが 自分自身とともに閉じこもれ 少しずつ 自分の苦しみを苦しむのだ

フェルナンド・ペソア

私はこのような言葉に優しさを感じる。

私が「愛」に反発してしまうのは、私が「愛」から爪弾きにされていると思っていたからかもしれない。そして、同じように爪弾きにされている人たちのためにも反発したかった。

私の人生のテーマは「愛と孤独」かもしれない。
私は「愛」に苦しんできたと思う。無論、愛にも種類があるが、主に性愛に苦しんできた。自分を追い込んでしまって何度も死のうとした。
それは、私が親との関係において愛が上手くいってなかったことに端を発すると思う。
そして、私はあまりにも孤独に慣れすぎていた。
周りにいた多くの知人は家庭を持ったりしているが、私は依然として独身である。結婚願望は子供の頃から無いから、それは別に良い。
何が辛いかというと、愛に向いていないのに愛に溺れてしまうことだ。やめようと思っても愛してしまう。孤独を愛しながらも、寂しくて溶けたくて仕方ない。相手がどんなに優しい人でも関係を壊してしまってきた。
私の愛はなんだか全て焼け野原みたいだから、せめて書いて残したいと思う。
そこには確かに実存があった。
生きていたし、それは命だった。

「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」

エーリッヒ・フロム

ーーそんな風に思えていた。

最後に、永井均さんの「愛」についての言葉も引用する。(引用にハマっているから)

「世界の中心っていうのは、もっと深い、すべての意味の源であるような、そういう中心なんだよ。どんなに世の中の中心にいても、世界の中心につながっていないって感じることはあるさ。もし、きみがだれかに対して、そういう世界の中心がそこにあるって感じたなら、それは愛だよ。」
「ふーん。でも、世界の中心からすみっこのほうに向かう愛もあるんでしょ?」
「そうさ。自分自身に、すこしでも世界の中心とつながっているっていう安心感があって、その安心感をすみっこにいるあの人に分け与えてげたいって感じたとすればね。それも愛だよ」

「子どものための哲学対話」永井均

私は、哲学によって世界を愛そうとしているのかもしれない。

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