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「愛」の胡散臭さについて

「愛」というものが、どこか胡散臭く感じられる。元々好ましく感じているカテゴリの内から選択可能だった一つを選び、その個物を「特別」だと崇めているだけに思えるからだ。

愛しやすいものを愛してるだけなのに、愛がどうこうと誇らしげに語らないでほしいと思う。愛といえば「恋愛」でありがちなのも気に入らない。
若く美しい男女やかわいい犬猫…そういった一般的に愛しやすいものを愛することに、私はあまり愛を感じない。

またどちらかといえば、元々ぼんやりと好ましく感じるものたちのなかからひとつを選び特別にするという営みよりは、
その人が全く好ましく感じていないカテゴリ内にある事物を愛することのほうが、愛のように感じる。
例えば、デンキウナギなんて全く好きじゃなかった人が、1匹のデンキウナギを何故か愛してしまった場合などだ。
一般的に愛しづらい者を愛する営みもそうかもしれない。もしかしたらそれは道徳に似てくるのかもしれないが。

ちなみに「愛」はずっと苦手というか、「愛?フン、どうだか…」みたいな感じだったんだけど、「道徳」は昔から好きだ。
謂わば「愛」のアンチで「道徳」のファンである。
道徳は無差別で、贔屓や区別をしないから安心できる。
「世界中を敵に回しても君を愛する」
という愛の言葉がよくあるが、世界中を敵に回すような奴は、警察に突き出したほうがいい。
みんな愛の歌ばかり歌っていないで、もっと道徳の歌も歌うべきだと思う。
(それをやってるのがamazarashiで、だから私はamazarashiが好きだった。またamazarashiは『ラブソング』という曲を歌っているが、その曲は「未来はないぜ 陽も射さない」というフレーズから始まる資本主義批判の曲である)
愛が苦手なのに、最近「愛」についてよく書いているのは、今がとても苦しくて、だからこそ苦手なものに向き合っているのかもしれない。

私は昔、「愛してる」と言われたらとても幸せで嬉しいのに、なぜか論駁しようとするような人間だった。今もそういうところがあるかもしれない。
それでいて性愛関係には依存してしまう。
完全な愛など無いって分かっているのに、愛を信じたかったから、疑って疑って強度を確かめる。
また私はある時期から、なるべく愛しやすい形を取るように意識して生きていた。
「誰でもいいから恋人や配偶者がほしい」などとは一度も思ったことがないし、子供の頃には友達が皆無だったが友達がほしいとも思わず孤独が好きだった。
それでも、人と接して生きていかなきゃいけないなら、やはり人に好かれたい。
こぎれいに、礼儀正しく、引き出しを多く、たのしく謙虚に…etc でも、いざ愛し愛されて、たとえばそれが性愛で、関係が安定しだしたら、
「愛してると言うけど、身近な異性なら誰でもよかったんでは?私である必然性は?」
などと、相手を論破しにかかるフェーズに入ることがある。
愛に必然性なんて無いのは当たり前で、「たまたまそこに居たから愛した」のだっていい筈なのに、それでは私は怖いのだ。ただ単にシンプルに幸せでありたいのに怖くなってしまう。

私は長い間ずっと同じところで足踏みしているだけで、その間に加齢によって「愛されやすさ」が失われることもまた恐怖である。

「愛されやすい者たち」のカテゴリのなかに紛れて愛されるのではなく、一個のデンキウナギとして愛されたいんだと思う。
とはいえ私は、充分に変さや独自生類性を出してるので、私を愛してくれた人は、私をデンキウナギとして愛していたと思う。
でも、そのまた奥にある狂気や歪みや醜さまでは愛してくれるわけなくて、それでも愛してほしかったのだ。だから確かめてしまう。

私ほど極端ではないとしても、たとえば「女が好き」とうそぶく人に愛されても不安だと言う女性は多いのではないか。自分である必然性が見られないからだ。私は全てがそのように感じられてしまう病気かもしれない。
なのでマッチングアプリや婚活が流行る近年の流れもすごく嫌だ。繋がることばかりが良しとされ、一人であることは悪だと言わんばかり。
顔と年収と年齢で選ぶシステムを作っておきながら、「愛」を掲げたCMを打つ。そこに、実存はあるのか?
いや、一般的にいう愛とは、本質的にそういうものなんだろう。可視化されやすくなったというだけなのだ。

「愛は技術である」とエーリッヒ・フロムは言った。人と人との間の愛は、鍛錬と努力によってなされるものかもしれない。だとすると、私の向き合い方はそもそも間違ってる。
技術としての愛を学び身につけていくのが、愛を壊さないためには必要なことだろう。
好きな人間と溶け合える体験は、何ものにも代え難い幸せだと知っている。
しかし、私は愛がよく分からない。

他方で私は、何か素晴らしい作品や事象に触れたときに、感動して、「これは愛だ」などと評価することがある。それは私の最大限の褒め言葉かもしれない。何せ、愛を信じない人間が愛だと認めたのだから…。
その評価は、人間が関係しない世界における愛や、甚だしく愛しづらい者に対する愛の表現に向けられることが多かった。

前者については、以前、単細胞生物が死んで周りの空間に溶け出していく動画を見たときに、「愛だなあ」と言ったことがある。
あとは、死んだ野生動物がバクテリアに分解されて土に還っていくのも愛だと思う。

後者については、私の好きな幾つかの物語を例に挙げる。
たとえば、井伏鱒二の『遥拝隊長』という短編小説では、戦争で発狂した元軍人が、戦争が終わったことを理解できてないまま近所の人々に号令をかけては、「貴様、それでも軍人か!」などと怒号を浴びせる。
近所の人たちは、号令に従って敬礼し、「ハッ、失礼いたしました!」などと恐縮するふりをし、迷惑がりながらもひたすらに彼の世界に合わせてあげるのだ。愛だ。

またたとえば、夢野久作の『少女地獄』に収録された短編小説『何んでもない』では、つらい現実に耐えられなくなった看護婦の女性が、人々に好意を抱かせるために全てを嘘で塗り固める。周りの人達は、彼女の天才的な虚言癖に騙されているのだが、やがてボロが出て彼女の嘘に気づいてしまう。
しかし、気づいた後も、人々はその嘘に騙されてるふりを続け、彼女の世界を守ってあげようとする。結局、嘘がバレてることに気づいてしまった彼女は自殺するのだが。物語は、
「彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です──ただそれだけです。」
という言葉で締め括られる。
愛だな、と思う。泣ける。

発狂して怒鳴り散らす元軍人、全てを嘘で固めた虚言癖の女……実に愛しづらい人々だ。
大らかな時代性もあるのだろうけど、こういう愛しづらい人々を、周りがそっと優しく風のように愛しているのがたまらなく良いのだ。
大々的に愛を掲げたマス的な映画やアニメに反感を抱き、どこかささやかで切実でおかしみのある文学を愛する私の嗜好は、「愛」に対する捻くれた考えの発露であるのかもしれない。

それから、最近読んだネットの漫画『葬式帰り』にも感銘を受けた。中学生の性描写があるBL作品で勧めづらいが、同作者の『遠い日の陽』がよかったのでこちらも読んでみたのだ。
https://www.pixiv.net/artworks/76874436
ネタバレをすると、BLでパッケージされた、かなり救いの無い話だった。愛着障害で性依存の少年の話だ。
子どもが欲しくない女性が、「後々欲しくなったとき後悔したくない」という理由で少年を産むが、結局愛せなくて家庭を捨てる。
母親に愛されなかったその子は寂しさに狂って、性に依存し性犯罪行為を繰り返す「怪物」になり、父親の手によって殺される。
出生奨励の世への警告とも捉えられそうな、
すごい漫画だった。
主人公はその少年と出会い、そうと知らず恋し、性に溺れる。その後に色々あってその少年が父親に殺されることになる。
何となくで生まれさせられて、愛されず、寂しさに狂って人々を害し、親に殺される…何とも救いがない人生だ。
しかし主人公はその少年のことを、彼が死んだ後にも、全てを知った上でずっと愛しつづける。
単なるBL作品と思わせておきながら、違和感の蓄積と不穏さからの急激な暗転にゾワッとする話だった。
少年の救いのない人生に救いを見出そうとするなら、それは主人公からの「愛」だろう。

うーん…結局私は、ものすごく愛を求めているのかもしれない。でも縋り付いて壊れるのが怖い。完璧じゃないなら要らないと思ってしまう。そうやって壊しているのは自分なのにね。
そして私は、自分に似た欠落のある人間を、自分を愛するかのように愛した。空虚を抱える人には、どうしようもなく惹きつけられる。
こんなのが愛なのかは分からない。しかし誰に否定されようと、愛しいのだから仕方ない。
愛わよ。(愛なんかじゃないわよの略)

#エッセイ #コラム #愛 #哲学だより #文学






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