後から分かることだってある
美紀さんの母が亡くなった時の話。
「母は嫌われ者でした。皆が母の事を嫌っていたんです。祖父も祖母も、勿論私も」
母は若い頃から酒に溺れ、借金を作ったりと父に迷惑をかける最低な人だった。美紀さんも物心ついた時には毎日のように母から暴言を浴びせられ、母との楽しい思い出など存在しなかった。
父はとても優しく、母に暴言を浴びせられて泣いている美紀さんをいつも慰めてくれていた。
酒に酔い、タバコの臭いを全身に纏わせて、怒鳴り声をあげながらドアをガンガン叩いて帰ってくる母は、毎日のように父と喧嘩していた。離婚した方が良い、母と離れた方が良いと父は周りから言われていたそうだが
「あいつを今一人にはできない。俺がどうにかするから」
と母を捨てる事はしなかった。母に対しても優しい父だった。本当は優しいお母さんなんだよ、と笑う父の姿を美紀さんは今も覚えている。
そんな母は急に亡くなった。死因は持病によるものだった。父は誰にも言っていなかったのだが、母は病気が判明してから自暴自棄になり、あんな状態になってしまったとの事であった。
葬儀を終え、諸々の手続きを終えた父と美紀さんは仏壇の前に座っていた。父はカチャカチャと音を立てながらキーケースを弄くり回し、口を開いた。
「今まで、苦労をかけてごめんな」
母が亡くなって、美紀さんは正直ほっとしていた。父から母の病気について語られても、昔の優しい母について語られても、何の感情も湧いてこなかった。
──カチャカチャ
鍵の音を鳴らしながら、父は母の思い出話を語った。それは美紀さんに向けて話しているようにも、父が自分自身に語っているかのようにも思えた。
──カチャカチャ
話を聞きながら、ふと気付く。何だか音がする。それは父が弄っているキーケースの音ではなく、違う場所から聞こえてくるようだった。
──カチャカチャ
「最後にさ、昔の優しい母さんに一目会いたいと思って棺に鍵をいれたんだ」
父は独り言のように呟いた。
──カチャリ
聞き間違いではない、確実に、玄関の方から音がした。 美紀さんは玄関のドアに目をやる。
閉めていたはずの鍵が開いている。ゆっくりと、ドアノブが動いた。
「……父さん」
美紀さんの震えた声で、父がはっとしたように玄関へ駆け出した。
勢いよく開けたドアの先には誰もおらず、酒とタバコの臭いだけが漂っていた。
その後、美紀さんも父も別の地域に引っ越して、今は穏やかに暮らしているそうだ。
美紀さん(仮名)から聞いたこの話。
大分前に私のメモ帳の奥底にしまわれ、そのまま世に発表されることなく眠っていた話。
理由としてはただ単に書く気がしなかったから。
なぜそう感じたかはここで記載しない。長くなるし色々あって細かい部分なので、わざわざ発表しなくても良いと思う。
とにかく何だか微妙な話だなと感じたのである。
しかし、ある怪談コンテストに投稿するに当たってネタを探している最中にこの話を思い出したのだ。
それとは別にしばらく前、美紀さんと同じ地域に住む別の人からこんな話を聞いた。
その人が体験した話などではない。もしかしたら今この記事を読んでいる人の中にこの噂を聞いたことがあるという人もいるかもしれない。ただそんな噂話があるというだけの話。
本当かも分からない、噂話なのである。
実際色々調べて聞いてみてもそんな体験した人もいないし、見た人もいない。
しかし、本当に『夜中に町内を足音が駆け回る』という怪異自体は存在していたという。実際に聞いたという方も数名確認できているのだ。
私はこの噂話を聞いたとき、面白味のある話だなと思っただけでそこまで気にかけることは無かった。
しかし前述したように、美紀さんの母についての話を思い出した後、気が付いた。
改めて読み返して見ると分かる。『ランニングおばさん』と共通点があると思う。
私は美紀さんにも連絡をしたのだが、『ランニングおばさん』の話は聞いたことがないという。
それに、美紀さんは前述の話を私以外の誰にも話していないということだった。
夜中に町内を駆け回る足音。タバコとお酒を備える。家を訪れる。
なんとなく思うだろう。この『ランニングおばさん』って美紀さんの母親のことでは無いだろうかと。
噂話の出所は分かっていない。誰が最初に言い始め、広めたのかは分からない。
『夜中に町内を足音が駆け回る』という怪異を体験した人達も、『おばさんがものすごい形相で走り回る姿をイメージ』することは無かったのだという。
ちなみに私が知る限りの時系列で言えば、美紀さんが教えてくれた母の話より後に、『夜中に町内を足音が駆け回る』という怪異が発生しているようだった。
なので私も思っていた。美紀さんの母は家に帰ろうと未だに町内を走り回っているんだろうな、と。
しかし後日、美紀さんの父が
"以前その地域で夜中足音を聞いたことはある。変な音と臭いもした”
と話していたらしいのだ。
それも、美紀さんが話してくれた母の怪奇現象が起きる前に。
「あの日来ていたのってどちらなんでしょうね」
そう言って美紀さんは電話口で笑っていた。
『ランニングおばさん』が美紀さんの母なのか、あの日美紀さんの元に訪れたものが母では無かったのか。それは分からない。
『美紀さんの母』か『ランニングおばさん』どちらにせよ、今もそれは町中を走り回っているんだろうなと思った。
なんとなく思うこともあったが、それは美紀さんに伝えなかった。
何も無いだろうと思っている。何も起きないはずなのだ。噂話が本当でなければ。
美紀さんの家族に訪れたものは不幸なのか幸福なのかも、私には分からない。
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