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猫おじさんの青い屋根と漆喰の家

小さな家がありました。
小さいけど瀟洒な、というのが正しい。
季節になると蓮で埋め尽くされる池のほとりに、その家は建っていました。
白い漆喰の壁に屋根は深く青く、
玄関までのアプローチにはささやかな庭があり、
ニワトリが1、2羽放し飼いにされている。
壁には絵などが飾ってあるのが外からも見え、
部屋は2つくらいあったでしょう。
家人の趣味なのか廃材を用いたアート作品が並べられ、表札も手作りの微笑ましいものでした。

奥さまは髪を高い位置にキュッとひとつに束ね、よく庭先をホウキで掃き掃除をしていた。ニワトリがコッコと鳴きながらその間をすり抜けて右往左往している。
ご主人はヒョロリとしたかなり細身の少し鋭い目つきをした人で、愛用の自転車が家の前に停めてあれば、それは在宅の合図でもあった。
細身といっても軟弱な感じではなく、薄く筋肉はついていたし、陽にも灼けていて、フォルムとしてはジャコメッティの彫像に近い。全てが細く、長かった。
かといって長身なわけではない。実際どれくらいだったかはさっぱり見当もつかない。もしかしてすごく小さかったのかもしれない。
私が覚えている彼の格好は、白いランニングに膝丈くらいの縞々の長いトランクスのようなものを履いている姿だけ。
だからそこから伸びた手脚や胸板もよく見えていたのだ。その肉のつき方さえも。

頭髪は部分的には豊かで、おでこは向こう側まで繋がってはいるものの、それ以外は耳にかかるくらいの黒々としたボブスタイル。その、有と無が、彼を若くもそうでなくも見せていた。
でもきっと40代くらい。
広い額の下にはまだまだ生気のあるギョロリとした目が2つ光っていた。

なんとなく猫っぽい人だなと私は密かに思っていた。猫を愛する私からすれば、いささか不本意ではある。
いや、不本意だというのは今度は彼に失礼でもある。
でもその不思議な生命力と、無駄がなくしなやかにも見える肉体、そして鼻の下に猫の口とヒゲを描いて耳を足したら、
まるで猫そのものになりそうな感じがあまりにもしっくりときたのです。

あの人ははもしかして、本当は猫なのかもしれない。
まだ彼よりもだいぶと若かった私は、わりと真剣にそう思った。
彼のあの口元から、言葉が、日本語が発せられるような気がしない。

奥さまはというと、全く猫っぽくない。
年齢なりのふくよかさのある体つきに、赤ちゃけた髪の色をした女性で、
彼女もいつもタンクトップに短パンだったと記憶している。
でもイメージの中ではなぜか
ノースリーブの花柄のワンピースに白いエプロンをしている。
彼女は実際、外国人だったのかもしれない。
彼女の口から日本語が出ることも想像できなかった。

その家は間違いなく家なのだけど、ホームではない。
いや、彼らにとってはこの上なくスウィートなマイホームなはずなのだけど、実態は、ホームがレスな方のおうちだった。

家が建っているのならホームレスではないじゃないか、
というのは愚問である。
その家のそばを流れる川の両岸は、何キロにも渡る大きな公園で、
春には桜が大いに咲き、夏は盛大に花火があがる。
その景勝から、まだ日本に貴族階級があったころ、とある爵位の人物が川沿いの一帯に大きなお屋敷を建てた。
川から水を引き、庭園や池を造り、のちに重要文化財となる建物は御殿と呼ばれそれはそれは立派なものだった。
時代とともに広大な所有地は分割されていき、残ったものも残らなかったものもあるけれど、なぜか何十年も放置されていたのが大きな日本庭園だ。
こどもの頃は、その一角だけが塀で囲まれ立ち入り禁止となっていて、大きな木や植物が手付かずで縦横無尽に生い茂っていた。
もちろんやんちゃな子らはそこに忍び込んだりもした。
でも見えない高低差のある足元を、ゆうに自分の背丈を超える草木が覆い尽くしている。おそらくあらゆる生と死がそこにはあったのだ。
さすがにあそこはやばい、とみんな本当は思っていたのだろう。私はそこに立ち入ることのないまま大人になった。

元庭園を囲む塀と川の間には、瓢箪の形をした池がある。昔はそこも日本庭園の一角だったのかもしれない。子供たちはおもにその浅い池で魚なんかをとって遊んでいた。
かつてはそうした普通の水場だったのだけど、いつからか池は蓮で埋め尽くされてしまった。葉が開けばもはや水面も見えない。花が咲けば見渡す限りの浄土感で、あっちの世界へ足を踏み入れたかのような光景だった。
瓢箪のちょうどくびれた部分には紅い欄干の緩い太鼓橋があり、それがさらにあの世ムードを盛り上げている。
川側から橋を向こうへ渡ると、廃墟となった庭園の塀と池の間が道のようになっている。
のちに猫おじさんの家が建った場所である。
蓮の花の咲く時期に池の向こうに猫おじさんの家を望めば、まさに天上人の暮らしように見えた。
そこだけ浮世離れが甚しかった。

ある時この国にとんでもない不景気の波が一気に押し寄せ、公園の炊き出しに並ぶ人たちの映像が繰り返しニュースで流れだした。
川沿いの公園もテント村のようになった。
猫おじさんの家ができたのも多分そのころだ。
いたるところに生活に困窮した人たちが居を構え、番地もあって手紙を出せば届くんじゃないかというほど、秩序立った町のような様相だった。
あまり深い森のようなところに入っていくことはしなかったけど、眺めている限りでは、その一帯は彼らの心境を表したようなどんよりした色をしていた。身を隠しやすいカーキや茶色で埋め尽くされていた。
そしてだいたいが簡易な布製のテントで、
橋の下には少し建造物のようなものをこしらえる人もいたし、オープンキッチンみたいな楽しそうなものを作る人もいたけれど、「家」と呼ぶほど固定や隔離されたものでなかったのは、いつまでもここにいるわけにはいかない、という気持ちからだったのかもしれない。

ところがだ。
テント群とは少し離れた場所に突如現れた猫おじさんの「おうち」には、
まず「門」があった。
そしてその上にはアーチがあった。
家と庭をぐるりと囲う「柵」があった。
柵は腰の位置ほどで高いものではなかったけれど、外と「敷地」を区切って「家感」を出すには十分なものだった。
その柵に、拾ってきたのか何なのか、絵画やらアートやら、柱時計や置物までもが外に向けて見せるように飾りつけてある。
敷地の奥側には、貴族の庭園の塀がそびえたっている。
その庭園が他の土地より少し高くなっていることで塀自体も高く、上からはさらに背の高い樹木がこぼれ出し、木陰や雨よけを作っていた。
つまり片側の防犯対策はばっちりだし、木陰の下では優雅に庭で食事もできたのだろう。
しかも猫おじさんのおうちの横には、綺麗な公営のトイレがあった。
もともとそこに目をつけて家を建てたのか、トイレも真水もいつでも使い放題で、なんなら敷地が続いているから自分達のもののようでさえあった。
そのおかげか、猫おじさんにも奥さまにも清潔感があった。
奥さまなどは、スーパーで買い物してる人と変わらないほど小綺麗で、
そういう部分でも、ちゃんと「家」に暮らす人の雰囲気を纏っていたのだ。

おうちの柵も、建物も、
廃材で上手に作られていて、
柵はかわいく白いペンキで塗られていた。
家には隙間があって少し中が見えていたけど、決して丸見えではない。
実を言うと、白い漆喰の壁も青い屋根も本当はなかった。
でもそう思わせるほど、そこはあまりにも「家」だった。勝手に公園に造っちゃったにしては、あまりに家すぎたのです。

かわいい表札は本当にかかっていたし、お庭も本当にあった。
目の前の池では蓮根が採れたかもしれない。
もちろん川で魚も釣れただろう。
ニワトリは新鮮な卵を産んだだろうし、
ほとんど苦いけどさくらんぼも採れたはず。
庭にはお花も植えてあって、小さい畑もあったかもしれない。
部屋に切花も飾ってあったんじゃないか。
門のアーチにはモッコウバラでも咲いてやいなかったか。
猫おじさんは自慢の自転車で街をまわり、
まだ使えるものや家を飾るものを探し出してはカゴに積み、
毎日持ち帰っていたのでしょう。
彼ら夫婦は(ほんとに夫婦かどうかは知らないが)、
雄大な川と蓮の花で溢れる池のほとりで、
好きなものに囲まれ、おいしいものを食べ、
かつての貴族のような暮らしを営んでいたのだ。

あの家には、たくさん「色」があった。
飾ってある絵画の色、咲いているお花の色、ニワトリの色、奥さまの髪と洋服のカラフルな色。
なんともしあわせそうだな、とわたしは心から思った。

思ったけれど、そこは公共の土地である。
水道代だってもちろん払われていないだろうし、
おうちができたことで、その道を通ろうと思う人は減ったでしょう。

猫おじさんのおうちは、ある日忽然と、
跡形もなく綺麗さっぱり消えてしまいました。
かの貴族の庭園が整備され、市民の憩いの場となることが決まったのです。
工事が始まった時点でいなくなったのか、工事が終わってからいなくなったのかは定かではありません。
猫おじさんの家が消えてしまったころには、公園の他のテントもすっかりいなくなってしまいました。そういう政策がなされたのです。
あんなにあったテントたちは、暮らしていた人たちは、いったいどこへ消えてしまったのか。もしかして彼らも、猫だったのか。

いまやその庭園は、かつて貴族が自然の渓谷を再現して滝や小川まで流したというありし日に近い姿で、毎日丁寧に手入れをしてもらい大切にされている。
囲っている高い塀はいまもあるけれど、塀から樹木がはみ出る外から見た姿は、荒れ放題だったころとそうは変わらない気もする。
でも塀の中は全く違う世界へと変貌した。
瓢箪池の蓮も、誰かが勝手に繁殖させたもので駆除されたのか、いまではすっかり数も減ってしまったし、蓮が枯れている姿というのは地の底のように汚い。あの極楽浄土のような光景はもう見られない。

猫おじさんは猫に戻ったのだろうか。
奥さまのほうも、ふくふくとした雌猫だったのかもしれない。
そういえばあの白い肌と赤い髪は、まるで三毛猫のようだったではないか。
ふたりは野良猫として立派に生き抜いたのでしょうか、それともどこかの家猫にでもなったのでしょうか。
あのおうちを追われたあと、しあわせに暮らせたのか。ふたりはずっと一緒にいられたのか。
もちろんそれも、定かではないのです。

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