みんなのnoteが読みたい
ぼくはみんなのnoteが読みたい。
こう考える理由なのだけれど、人が考えていることとかに興味があるからです。すごく単純な理由。別にnoteじゃなくてもいいんじゃないかという考えもあったりするが、noteが良い。ぼくはそう思っている。
note以外にも文字や声、動画などの何かしらを投稿できるプラットフォームはいくつもあるのだけれど、この気軽さが性にあっている。
小難しいPC周りの設定をしなくてもスムーズに書くことが出来る機能性はとても魅力的に思える。敷居がとてつもなく低い。
他の人の考えが知れるところが特に気に入ってる。
他の人の考えというのはぼくにとって、それ自体が物語のようなもので、見ているだけでドキドキする。昔から小説を読むのが好きだったけど、最近はめっきり読んでいなかった。
もっぱらビジネス書ばかりを好んで読むようになった。ある意味大人になったということなのだろうと思うけれども、それよりももっと前の少年ー青年時代。ぼくのもっぱらの娯楽は小説が殆どを占めていた。
人にはそれぞれ書き方があって、それは丁寧だったり、簡潔だったり、詩的であったり、時には粗雑であったりしてもどれも同様に文字であることに変わりはない。
日本語は良い。言語そのものに繊細さを孕んでいるので、どのような味付けがされていようと美味しくいただける。
母国語である贔屓目があることは否定しないけれど、それでも日本語は美しいものだなぁと勝手に思ってる。
ぼくはnote以外にツイッターをしている。ツイッターの場合、文字数は140文字に限定されて、それはそれで面白い使い方が出来るのだけれど、技法の面に傾いている感が否めない。
全く持って否定しているわけではないし、むしろそれはそれで楽しい。楽しいのだけれど、やはりnoteが良い。これは完全にぼくの主観。
物事一つとっても、説明するには140文字では少なすぎる。ぼくは喋りたがりだし、書きたがりなのだ。
とはいっても10000文字書けばよいのか、あるいは1億文字書けばよいのか、ということでも無くて、要は【制限が限りなく少ない】というのが重要だと感じる。
意中の相手にただ「好き」と伝えるのも、時間の限りを尽くして原稿用紙1000枚分の愛の言葉を綴るのも、厳密に言ってしまえば違いはない。別になんでも良い。
ただ、相手が自分に割いてくれた時間と労力を値踏みして、価値を図ろうとするのは傲慢なのではないかと思ったりもする。
同じように、文字数の制限がないという点で言えばブログなどもそれに当たる。それでもぼくはnoteが良いと思っている。
ブログというのは良くも悪くも外部の要因が強く影響するもので、また、参入障壁が少し高いようにも感じられる。検索エンジンに認められるだけの実績を積む必要があって、それには技術が必要不可欠だ。
玉石混合のnoteとは違い、まず玉石混合の器に入るための審査が必要とされる。
これは完全な現代病なのだけれど「スキ」などをされると嬉しい気持ちがある。
誰にも見向きもされない文章を孤独に書き続けるというのは、よっぽどの文章狂いでないと無理だと思う。つまり良くも悪くも偏らざるを得なくなる。
んっと、すごくわかりにくくなってきた。SEOに気をつかったスマートな物書きが作る文章は、大抵わかりやすく頭に入ってくる。ぼくは甘やかされたくないのだ。
文字を書く、というのはある種の苦行みたいなところがあって、不慣れなものにとってはとても厳しい。
人によっては140文字ですら長いと感じることもあると思うし、そんなことを言ってるぼくは、1500文字くらいで「なんだかやめたいな」という気分になってくる。
実際にこの時点で1400文字ほどなので、概ねその感覚は正しい。しんどいことはめんどくさいし、投げ出してしまいたくもなる。
これは筋トレに似ていると、勝手に感じている。脳を働かせるためのトレーニングだ。
日常生活の中で、ぼくたちの殆どは他人と会話して、脳の働きの多くを補ってもらっている。
時には思いもよらない発想だったり、心地の良い時間だったり、激しい衝突であったりしても、自分一人では出来ないことだ。
脳というのは人体の神秘の一つだけれど、それと同時にひどくいい加減なものでもあって、一日前のことですらも都合よく記憶を捏造し、誤認させることは多々あることらしい。
例えば、昨日晩ごはんを食べたレストランの味一つとっても、誰と食べたか、どのような調味料を使っていたか、外は雨だった、店内のBGMがひどく騒々しいものであったか、その他諸々の理由で不明瞭なものになる。一緒に食べた誰かが重要だった場合、下手したら味すら覚えていないだろう。嫌な相手であれば、店自体にも良い印象を持たなくなってしまうかもしれない。
人の記憶というのは曖昧に出来ている。
その点、文字は記憶を風化させることなく、新鮮さを保ったまま残しておける手段の一つだ。表現するための手法もあったり、初期衝動のまま書きなぐったものであったり、なんでもいいし自由だ。
文字崇拝者のようになってしまった気もするけれども、とにかく何が言いたいかというと「文字は良い」ということである。
ぼくは悪趣味だと思う。他人の生活を想像したりするのに喜びを感じているフシがある。勝手な偏見だが、同じような人は多いと思う。
人によっては、そこに性的な趣向が多少絡んでいたりもするかも、と思ったりもしている。
そんな覗き見趣味のぼくにとってnoteは最高の遊び場所である。
有益なものをみるのも、読むだけで死にたくなってくるような苦しい文章も、ぼくはどれも一様に平等に愛している。
そしてそれをやめる気は当分無い。
ぼくはみんなのnoteが読みたい。価値が有る、無いなんてものはどこかゴミ箱にでも放ってもらって、どうしようもない文章であってもぼくは読んでみたい。
今後とも、どうしよう無い文章が量産されることを望んでいます。
おわり。
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