天使の梯子

二ーバーにならう、愚痴らない人生

愚痴。
愚痴を言うということは、
今の状況や環境、ないし自分自身に対して不満があるということ。

愚痴を言いながら生きていくということは、
愚痴を言うことで、不満を逃がしながら
今の状況や環境、ないし自分自身を変えないということ。

それは、愚痴によってうまくストレスコントロールしながら
不満な状況に耐えている、ということだとも思う。

そして、こんな見方もできるかも…
不満ではあるけれども、
その不満に耐えるストレスよりも
そこから抜け出すストレスの方が大きいと感じている。
この場合はけっこう無意識的にそれを感じ取って
「愚痴を言いながら耐える」という方法をとっていることが多いのでは。

例えば、
今している仕事が体力的にキツイ、その上職場での人間関係もサイアク。
という状況。
辞めたい。しんどい。ブラックすぎ。
上司は無能。
偉そうなわりに指示がめちゃくちゃ。

というようなことを言っている人がいて
「ひどいね、辞めた方がいいんじゃない?」
と言ってみる。

すると大体、
うーん、辞めたいのはやまやまだけど
無駄に長く勤めてそこそこ貰えてはいるし
まぁ、その上司もそのうちどうなるか分からないし
今、わたしが辞めると困る人がいるし…。
と、なったりする。

「辞めたい」と言いながらも
辞めることで抱えるリスクや今まで築いてきた地位を捨てることのストレスが、ブラックな労働環境や嫌な上司に耐えるストレスを上回ると感じているために、結果「愚痴を言いながらも辞めない」
という選択をとることになる。

こういう愚痴を聞く機会はすごく多いけれど
愚痴っている本人は自分の本心に気が付かないまま
ということがほとんど。
じつは、うちの妹がこの人だ。

そして、何度もこんなやりとりをした結果、
本当に妹自身が「仕事を辞めたい」と思い、
仕事を続けるストレスが
辞めてリスクを負うストレスを上回った時に
転職することができた。


愚痴の出る状況=不満のある状況。
そんなとき、
不満を根本的に解消する方法を選ぶのか
不満を持ちながらも、(無意識的に)その不満な状況の中でも変わらないことを選ぶのか
すべては選択なんだと思う。

そしてわたしは
愚痴を言わずに生きていくと決めた。

自分の中の不満と向き合い、不満の発生源を見極めて
解消の糸口を探り、根本的にやっつけるつもりで徹底的に不満と付き合う。
すべての不満にさようならを言うために。

そう決めた一番の理由は
単純に「愚痴を言うこと自体が嫌だから」だ。
愚痴を言っているなぁ、と思う時の自分を冷静に見つめると、
そういう自分は嫌だ、と思った。
そういう自分は嫌なので変えたい、と思うと
自然と「愚痴を言わずに生きていく」という選択になった。

もうひとつは
愚痴を言う時というのはさっきの例の
・(無意識的に)変えられない状況に対しての不満
 とは別に
・自分ではどうしようもできない状況、環境に対しての不満
があるということに気が付いたからだ。

自分では変えられない状況―生まれや育ちなど
自分がコントロールできないもの―他人の思考、言動など

そんなものに「変えたい・変わって欲しい」けど「変えられない・変わってくれない」不満をぶつける愚痴が、自分には多いのだと気が付いた。
これは、冷静に考えたら無茶な話で、
そういう愚痴は本当に馬鹿らしくっていらないな、と思ったから。

いらないなら捨てればいい。

愚痴が出そうになったらまず、
「それは自分で変えられるもの?変えられないもの?」と聞いてみる。
二ーバーの祈りにならって、
変えられるものと変えられないものを見極める。

二ーバーの祈りとは、
アメリカの神学者で倫理学者のラインホールド・ニーバー(1892-1971)がマサチューセッツ州西部の山村の小さな教会で1943年の夏に説教したときの祈りのこと。
第二次世界大戦後、アルコール依存症の断酒会のモットーとして広く知れ渡り、今日まで様々な困難な状況を打破しようとする人々の胸の中で唱えられ続けている。

ニーバーの祈り

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

変えることのできるものを変えることも
変えることのできないものを受け入れることも
口で言うほど簡単ではないけれど、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別できず、
不満な状況が延々と続くことの方が、わたしとってはツライ。
だから、やってやれないことはない。

愚痴が出る状況というのは、
学校に行っているみたいな感じだと思っている。
学校に行けば、宿題が出る。
宿題が出るので答えを書いて学校へ持って行かなければならない。
だけど、愚痴というのは宿題に間違えた答えを書いて持って行っているんだと思う。
間違っているから、いつまでたっても丸がもらえず、
延々と同じ宿題が出る。

わー、それは嫌なはずだ。
愚痴を言っている状況やその時の自分が嫌だ、と思うのはもっともだ。

だから、わたしは学校で学ぶべきことをささっと学んで
早めに卒業しよう!と考えるようになった。
最初の宿題で丸がもらえるようにじっくり考えることにした。
同じ宿題を何度もやらなくて済むように。

この例えで考えると、
・宿題はやるべきもの、と捉えてひたすら真面目に学校に通う人もいる
・宿題が出てもやらずに放置で、学校でも勉強しない人もいる
と思えておもしろい。

前者は、
「社会に出るとはこういうものだ」「人生とは、重き荷を負いて歩むが如し」のように考えている人だ。
後者は、
「わっ、やだな」と思うことがあっても、あまり考えないようにして状況をクリアするでも逃げるでもない。
とにかく、学校には行くけど何も勉強する気はない人、という気がする。
毎日宿題をやっている分、前者の方が学んでいるとは言える。

わたしは、
宿題は少ない方がいいし、
入った学校が違うなと思ったら別の学校へ行く。
きっと、ずっと勉強はするけど
自分がすすんで学ぶことも、学ぶ場も決めたい。

やる宿題の内容も量も
やるかやらないかさえも自分で選べる。
行く学校だって選べるし、自分次第でいつでも卒業できるし
入りなおせる。

いろんな人がいて、
すべては選択なんだと思う。

何を選ぶ?
自分の人生だ。




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ねこのあ(ワレのひと)
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