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【30代の上京物語】東京が散歩にうってつけの街である3つの理由

一般的に「上京」するのは10代や20代が多いと思うけれど、私は31歳のときに「上京」することになった。

当時は札幌で、普通の会社の普通の会社員として働いていて、仕事にも環境にも特にこれといった不満も無かったのだけれど、ある時にふと自分の中でちょっとした心境の変化が起こり、人生のレールを切り替えることにした。がちゃん。レールはもうだいぶ錆びついて、ガチガチになっていたけど、まだどうにか動かせそうだった。それまでの30年を振り返って、この先を真剣に考てみて、出た結論がこれだった。

「そうだ。誰かと結婚して、どこかに引っ越そう」

・・・その決意から1年ほどで、私は結婚して、仕事を辞めて、札幌から東京に引っ越して、あたらしい生活を始めた。どうして結婚しようと思ったのか?(当時は彼女さえいなかった) どうして東京だったのか?(東京には何のツテも繋がりもなかった)・・・それについて話すと原稿用紙で80枚くらい必要になるので、ここでは詳細を省くけれど、それは白いコンクリート壁に黒いスプレーで書かれた落書きのように明確な啓示だった。

啓示が降りてきたある日の夕方

ただ、結論から言うと、東京には2年ほど滞在して、私と妻はまた札幌に戻ってくることになる。どうして2年で戻ってきたのか? それについて話すとまた原稿用紙で120枚くらい必要になるので、ここでは詳細を省くけれど、まぁよくある話なんだと思う。波には乗りこなせる波と、ただ肩をすくめて飲み込まれるのを待つしかない波と、二種類の波があって・・・というような話だ。でもそんな風に客観視、一般化できたのは、ずっと後のことで、当時は札幌に戻ってからもしばらく意識の焦点をあわせることが難しかった。やっとの思いで切り替えたレールを、もう一度どこかに切り替え直す必要があったわけだ。でもどこに? 宙ぶらりんのレールの端っこを抱えたまま、33歳の私は、雪が積もる新千歳空港の駅で、自分を札幌に連れ戻す電車が到着するのを待っていた。

・・・まぁそんなぐしゃぐしゃとした、犬も食わない前後の諸事情は置いておいて、シンプルに「上京生活」のことを書いてみよう。ここからは、いくつかのトピックにわけて整理してみる。


@住居❶ 三鷹市

三鷹というと中央線沿いのイメージが強いかもしれないけれど、私が住んでいたのは、新川というエリアで、京王線の仙川駅が最寄りの比較的地味な?エリアだった。仙川駅から歩いて15分ほどの2DK木造アパート。家賃は当時で9万円ほど。部屋の窓を開けると隣の家で栽培している玉ねぎ畑があるという、のんびりした地域だった。

もともとは、中央線沿いの三鷹駅か吉祥寺駅あたりに住もうと思って不動産屋に行ったけど、想像以上に家賃が高すぎて断念。札幌の二倍くらいの家賃相場だった・・・。それで同情した不動産屋がおすすめしてくれたのが仙川エリア。不動産屋の車が駅前に着いたとき、私は一発でその街の雰囲気が好きになった。駅を降りてすぐ、シンボルのような大きな桜の木があって、その周りを、小綺麗に再開発された区画と、昔ながらの商店街が残っている区画が入り混じりながら広がっている。スターバックスやカルディのような小洒落た店が入る綺麗なビルがあると思えば、昭和から営業してそうな金物屋と中華料理屋が軒を並べている。小劇場やライブハウスがあれば、大きなホームセンターもあるし、スーパー銭湯もある。沢山のスーパーマーケットが駅周辺にひしめきあっている。すぐ近くには大学もあって、若い学生も多く、ひとつのムードに閉じない、オープンで流動的で活発な雰囲気に包まれていた。

仙川では二つほど物件を見て、駅に近かったほうであっさり確定。そして物件の近くを不動産屋と歩いている時に、面接を受けていた会社から内定連絡電話があった。同じ日に、住居と仕事が決まったことで、とても幸せな気分になったのを覚えている。

記憶の中の仙川駅前スターバックス

引っ越した後、休日の朝には、駅前のスターバックスへよく通った。あとは、シャノアールという煙草が吸える喫茶店にもよく行ったな・・・。そこでだらだらと本を読んで、商店街のあたりをぶらぶらと散歩して、お昼に大戸屋かインドカレー屋なんかで食べて帰るというルート。すぐ隣が世田谷ということもあり、気が向くと成城や祖師ヶ谷大蔵のほうまで足を伸ばしたりもした。都心から適度に離れたエリアで、田舎すぎず、都会すぎず、絶妙なバランスで成立しているコンパクトタウン。あと、そうだ。駅から家に帰る途中に「きさく」という個人経営の居酒屋があり、妻とよくそこで飲んだり食べたりしていた。明太子オムレツ最高!

@住居❷ 板橋区

1年ほどで三鷹から板橋に引っ越した。東武東上線の中板橋駅と常磐台駅の間にある、2DKのマンション。駅からは徒歩8分で便利だったけど、すぐ近くの環七の騒音が凄いのと、マンション自体がとても古く、日当たりも悪く、今思い出してもなんだかやや荒涼とした気分になる。もっと言うと、マンションだけではなく、あのエリア全体が、古い時間軸の中にそのまま閉じ込められているような感じだった。ただ埃が積もり、金属が錆び、コンクリートがひび割れていくのをただじっと待っている場所。ある種の郷愁感とも言えるかもしれない。いずれにせよ、どちらが良いかということは別にして、仙川駅のエリアとは、まるで違う歴史と思想の元に形作られた町であることは確か。

引っ越した理由は例によっていろいろあって、全部書くとまた大量の原稿用紙が必要になってしまうけれど、ひとつ明確だったのは、通勤の利便性を上げることだった。私も妻も通勤に片道1時間半以上かかっていて、起きている時間の四分の一をあんな狭苦しい箱の中に他人と一緒に押し込められることで消耗したくない、という合意に至ったのだ。そこで、最初は山手線沿線の駒込や巣鴨あたりで部屋を探したものの、やっぱり家賃が高すぎて(あたり前だ)、風呂トイレ共同か、ワンルーム生活に踏み切るかどうかの選択を迫られる厳しい状況。私一人ならその決断もできたけど、妻には厳しい。そして、そのままずるずると山手線圏内から引き離されて、気づいたら板橋に流れ着いたというわけだ。

実際に引っ越してみて、通勤は確かに楽になった。休みの日の買い物でも、池袋まで10分ほどで行けるし、通勤1時間以内は快適だった。でも、住環境において失ったものは大きかった。仙川では街を歩いている時の高揚感、満足感があったけれど、板橋でそれを感じるのは困難だった。うーん、東京の家賃設定っていうのは本当によくできてる。何かを得るなら、何かを失うようになっているのだ。

板橋でよく行ったのは、常磐台駅の近くにあったバーミヤン(刀削麺ばかり食べてた)とインドカレー屋。そういえば、東京ではインドカレー屋によく行った。妻と出かけるときは、高い確率でインドカレー屋だった。札幌の美味しいスープカレーが食べられなくなった分、代替品としてインドカレーでお茶を濁していたのかもしれない。

@仕事

仕事、と書いてみたものの、実は東京での仕事について、特に話すことがない。札幌の仕事は辞めて東京に来たので、とりあえず就いただけの仕事だったし、実際にそこも2年で辞めて札幌に戻ってしまったこともあり、特に面白い話もないのだ。ひとつ感じたのは、東京にはめちゃめちゃ優秀な人もいれば、めちゃめちゃやばい人もいるということ。その人間性とスキルの振り幅が、札幌などの地方都市よりも大きい。

あと、仕事関連で印象に残ったことといえば、職場があった田町のことくらい。通勤電車で荒涼とした気分にさせられて田町に着くと、ほぼ毎朝、駅前にあるエクセルシオールカフェに飛び込んだ。そこでコーヒーを飲んで、本を読んで、照明器具や壁の模様をぼーっと眺める。窓の外の歩道を歩く人を眺める。雨が降っていれば雨を眺める。そうすると、荒涼とした気分が少しずつ落ち着いてくる。昼休みには散歩。高層ビルの間を縫って伸びる運河沿いをぶらぶら歩いて、品川まで行く。品川駅前の富士そばで昼ごはんを食べて、また会社まで戻るというのがお決まりのルートだった。私は昔からなぜか運河が好きだ。川よりも、海よりも、運河に惹かれてしまう。経済的余裕があれば、田町に住んでみたいとさえ思ったけど、吉祥寺や駒込に住めないような経済力じゃ無理!


仕事の昼休みに散歩する田町の運河

@散歩

ここまでに何度も書いてるけど、東京ではずーっと散歩をしていたような気がする。妻はあまり散歩が好きじゃないから、長い散歩をするのは一人の休みの時だけ。そういえば昔、東京ランダムウォークという洋書店があったけど(いまもあるのかな?)、まさにその言葉通り、東京のあちこちをランダムウォークしていた。偏見かもしれないけど、東京は世界一、散歩に適した都市なんじゃないだろうか? そう思う理由は大きく3つ。

  1. 景観に多様性があり、示唆と変化に満ちている

  2. 広いエリアのあちこちに鉄道路線と駅が点在している

  3. どこを歩いても、どこに行っても安全で安心

東京駅あたりを中心として、そこから放射状に広がっていく街の絨毯。直線と曲線。海、山、川。鬱蒼とした森と、雑然とした高層ビル群。変わるものと、変わらないもの。古く曲がりくねった時間軸の中で、沢山の物事が形を成しては、消えていったわけだけれど、その文化と文明の軌跡が凝縮されて、混ざり合って、街の構成物のあちこちに内包されている。その多様性を感じたければ、試しに、丸の内→神田→秋葉原あたりまで歩いてみればいい。原宿→青山→六本木でもいいかもしれないし、上野→根津→千駄木でもいいかもしれない。もっと手っ取り早くするなら、新宿で、歌舞伎町と新宿御苑をちょっと歩いてみるだけでもいい。とりわけ山手線圏内はその密度が濃く、どこを歩いても、誰かの五感と意識を揺さぶる、何かに出会うことができる。本当にさまざまな風景があって、その「さまざま」の度合いが、他の日本の都市(あるいは世界の都市)の平均値から飛び抜けていると思う。こんなに雑多なものが、こんなに凝縮されて詰め込まれた都市は、他にもあるのだろうか。

また、適当にあてもなくぶらぶらと歩いていると、いつか必ずどこかの駅に辿り着くようになっているのが、東京の街の非常に優れた点である。ふらっと適当な駅で降りて、駅前の雰囲気を把握して、住宅街を抜けて、公園や林を通り過ぎると、またどこかの街の駅前に辿り着く。大きな駅。小さな駅。新しい駅。古い駅。賑やかな駅。寂れた駅。駅ごとに固有の風景があり、固有の物語がある。不動産屋の看板。カフェの中でコーヒーを飲んでいる人。中華料理屋の匂い。公園の遊具。マンションのベランダの植木鉢。商店街のBGM。駅前を歩いているだけで、歴史や文化、そしてそこに暮らす人たちの生活の一片を垣間見ることができる。散歩で疲れたら、そのへんのカフェや食堂に適当に入って休み、少し本を読む。本からふと顔をあげて外を見ると、窓から見知らぬ風景が目に入ってくる。ここはどこだっけ? そんな風にしてまた冒険の続きを始める。ばったり出会した映画館で見る映画。たまたま見つけた美術館で見る絵画。知らない本屋の匂い。知らないレコード屋の匂い。たくさんのビルと、たくさんの公園。銀杏の香り。どこかの家から聞こえるピアノの音。日も暮れかけていよいよ疲れてきたら、適当に最寄りの駅を探して、電車に乗って帰る・・・そんな風な散歩を毎週のように、永遠に続けられるのだ。他の都市ではなかなかそんな風にもいかない。


散歩してたら雨が降ってきてカフェに逃げ込む

そして、安心については二種類ある。ひとつは、物理的なもの。確かに特定のエリアで、一部怪しいムードが漂う場所もあったけど、海外のスラム街のような、リアルに身に迫る危険が常に存在しているようなレベルでのリスク地帯は無いと思う。リスクを感じた思い出としては、夜の遅い時間に新大久保を歩いていた時(なんで歩いてたんだろう?)、急に街の雰囲気が変わってドキッとした。道端で急にゴミが増えたのだ。道路にもゴミが落ちてるし、自転車のカゴにもゴミが詰まっている。路駐している車から大音量の音楽が流れてきていて、ラーメン屋の前でアジア系の外国人が道端で口喧嘩。嫌だなーと思ってそこはささっと通り抜けた。あとは別の日に、入谷から鶯谷のあたりを歩いている時に、向こうから、巨大な生の豚肉みたいなものを肩に担いで歩いている人がいて、驚愕したこともあったっけ。でもそれくらいだ。あと、もうひとつの安心は、心情的なもの。匿名性と共存性だ。東京ではどこの通りでも、だいたい誰かが歩いていたり、自転車に乗っていたりする。車も多いけど、歩いている人も多いから、見知らぬ場所を一人で歩いていても、不思議と寂しさも感じない。東京は歩く人のための街だ。歩くことで、街と同化し、人と同化することができる。

@本と映画と音楽と

偉大なる散歩都市、東京。その次に、東京の素晴らしさを挙げるとすれば、やっぱり文化芸術の堆積地であり、集積地であることだろう。私にとっての三大聖地は、神保町の本屋、御茶ノ水のレコード屋、そして・・・渋谷のTSUTAYAのVHSコーナー!東京にはありとあらゆる娯楽があるけれど、休日にこれらの聖地を巡礼して、収穫品を手に帰ることが、私にとって最大の娯楽であり贅沢だった。その中でも、一番の心の拠り所になったのが、渋谷のTSUTAYAのVHSコーナーである。

私は映画が好きで、古いものから新しいものまで、ジャンルも問わず闇鍋のように雑食しまくっていた時期があった。「ロボコップ2」を観て、「エルム街の悪夢3」を観て、マルクス・ブラザーズのシリーズを観る。ビクトル・エリセの美しくて古い記憶。アンジェイ・ワイダの古くて暗い地下水道。ミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーにおける過酷さの違い。ニコラス・レイの映画で降る雨。ゴダールの「はなればなれに」のダンスシーン。黒澤明に小津安二郎・・・ああ、こんなことを書いていたらキリがない。そして、キリなく映画を見続けると、必然的に古い作品に、マイナーな作品に、映画史の片隅に忘れ去られた作品にたどり着くわけだけど、そういうものの多くはDVD化されず、VHSのまま、人知れず眠っているのだ。渋谷のTSUTAYAには、そんなVHSがまだたくさん残されていた。新宿のTSUTAYAのもなかなかだったけど、渋谷のほうが品揃えが良かったと思う。そこには、DVDやブルーレイ、AmazonやNetflixでは目にすることのない、ごつごつとした、いびつな世界が広がっている。ずっと昔に滅びてしまった文明の遺跡にこっそりと忍び込んで、古い石を触り、古い土の匂いを嗅ぐようなものだ。多くのものはいわゆるB級映画という枠組みの中にあり、これといって大きな感動があるわけでもないのだけれど、それらのVHSに収められた固有の風景と物語には、何かしら決定的に私の心を捉えるものがあった。自分の家系図を遡って、いまでは失われてしまった事実と物語のかけらを収集するかのように、無心で古い映画を借り続けた。そんなわけで、あの渋谷のTSUTAYAのVHSコーナーは、私にとって、世界でもっとも素敵で重要な場所のひとつになっていた。東京から離れることで、いろいろな寂しさはあったけれど、一番寂しかったのは、私の人生があのVHSコーナーから切り離されてしまったことかもしれない。

ロボコップ・・・??(違う気がする)

もうひとつ、トピックを書こうかどうか迷ったのだけれど、やっぱり書かないことにする。東京から離れることになったいくつかの理由のうち、最も直接的なきっかけとなった、ある出来事のこと。それはあまりにも個人的な事象であると同時に、あまりにもよくある話で、おまけに例によって大量の原稿用紙が必要になってしまう類のものなので、いつか機会があれば別の場所で書いてみようと思う。

それにしても、東京は、私たちから時間とお金とエネルギーを効率的に吸い上げる装置として、とてもよくできた都市だと思う。途方も無い家賃にお金を使い、数多のイベントの気が遠くなるほど長い列にエネルギーを使い、地獄のような通勤電車に時間を使う。職場、学校、居住地、コミュニティ・・・至るところで差異化と差別化が生じ、格差が目の当たりになり、多様性という隠れ蓑の下で分断が生じ、あちこちで摩擦と軋轢と緊張を産んでいる。歩みを進めれば混乱するし、立ち止まれば焦る。周囲とのギャップを認知すれば不安を感じるけれど、不安を解消するためには、時間を使い、お金を使い、エネルギーを使うしかない。一番多くを消費できた人間が幸福感を感じられるシステムなのだ。でも平均的な人間ひとりが持てる資産には限りがある。つまり、東京で幸せに生きていくには、自分の限られたリソース(時間とお金とエネルギー)を何に投資すべきか、その価値観を明確に打ち立てて、自分の旗を自分で振り続けるしかない。そして、その旗の動き以外のことは、あまり気にしないようにする・・・まぁでも、結局のところ、人は一人では生きられないわけで、それが誰にとっても問題になる。私たちはやがて、自分の旗ばかりを振ってももいられなくなるわけだ。それが、ある意味で、また札幌に戻ることになった最大の要因にもなるわけだけど。

私にとって、東京時代は「最後の楽園」と呼べる性質のものだったような気がする。駅前の広場で咲く桜、運河に流れる静かな水、境内にある柳の冷たい木陰。街のあちこちの何気ない風景の中に、自分の一部を埋め込むことができた最後の時代。いつか東京を離れるときが、青春と呼ばれるフェーズが終焉を迎えるときが来るような気がして、それで、あんなに必死になって、あちこちを歩き回って、あれこれの古い映画を見続けたのかもしれない。街の風景を自分の意識に沈め、自分の意識を街の風景に沈めて、いつまでもずっとそこに留まり続けるために。

#上京のはなし

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