不幸な人
先日、作業所の仲間が話しているのを横で聞いていたら、なかなかすごい話をしていた。
その子(まだ二十歳の女の子だ)の家が火事で燃えてしまい、ガレキの撤去作業にお金がいるそうで、親類や知人にお金を借りることになったとのこと。
「お金がなくてどうしようか…」という話だった。
家が火事でなくなってしまっただけでも大変なことなのに、その上、借金まで…。
聞いているだけで血の気が引いたが、当人はあっけらかんとしていた。
こういう言い方は差別的かもしれないが、知的障害のある子なので、状況の深刻さがよく理解できていないのかもしれない。
とにかく、その話を聞いていて、「自分もお金がなくて苦しんでいるけれど、あの子の家庭よりはずっとマシだ」と思った。
世の中、上には上がいるように、下には下がいるものだ。
苦しい時には「自分の苦しさ」しか目に入らなくなりがちだが、もっと悲惨な日々を送っている人が必ずいる。
そうした人々のことを想像すると、「自分ってまだまだ幸せなほうだな」なんて思ったりもするのだ。
自分より上の人と比べると「自分なんて」と卑屈になるが、自分より下の(というか悲惨な)人と比べると「自分はまだまだマシだ」と思える。
だから、どうしても他人と比べてしまう癖がある人は、自分より悲惨な状況にある人と比べるといいと思う。
反対に、上を見だせばキリがないし、欲望が消えない限りは、仮にどんなに上へのぼっても満たされることはないだろう。
そこそこでいいんですよ、そこそこで。
ところで、悲惨な人々と自分を比べて、「自分はまだマシだ」と思うことは、優越感を持つこととはちょっと違う。
それは「自分のほうが優れている」という感覚ではない。
そうではなくて、それは「かわいそうだな、不憫だな」という憐憫(れんびん)の情を抱くことなのだ。
また同時に、憐憫の情だけでなく、「自分のほうが恵まれてる(ありがたいことだ)」という感謝の気持ちが自然と湧いてくる。
これがけっこう温かい気持ちで、「自分の苦しみ」にばかりフォーカスして強張っていた心を、優しくほぐしてくれるのだ。
さっきも書いたが、苦しい時は誰しも「自分の苦しさ」に目を奪われがちになるものだ。
「自分ばかりが苦しくて、自分は世界で一番不幸である」という風に思い込んでしまうことさえある。
そういう時、自分より不幸な他人のことを考えると、狭くなっていた視野が少し開ける。
「自分ばかりが苦しんでいるわけではない」と気づくからだ。
でもこれ、自分で気づくのではなく、他人から言われるとけっこう腹が立つ「真理」だ。
実際に苦しんでいるまさにその時には、「あなただけが苦しいんじゃない、みんな苦しみながら生きているんだ」と言われても、なかなか受け入れられないだろう。
むしろ、「そんなの知ってるよ!でも、それはそれとして自分は苦しいんだ!」と言いたくなる。
そう、「それはそれとして」なのだ。
「理屈がどうだろうと、事実がどうだろうと、他人がどうだろうと関係ない!とにかく他でもないこの自分が苦しいんだ!」という強固な想いがあるわけだ。
これを溶かすのは容易ではない。
他人からいくら「もっと不幸な人がいる」と指摘されても、なかなか「その通りだ」とは思えないものだ。
苦しみは当人の視野を狭くし、心を暗くする。
だからついつい自分ばっかりが苦しいような気分になってしまう。
そんな重苦しい気分をほぐすには、やっぱり「自分より悲惨な人々」へ少しだけ目を向けるのがいいと思う。
「ああ、かわいそうだな」「自分のほうが幸せだな」と思えるだけで、気持ちが軽くなるものだから。
なんてことを、しょせん他人である私に言われたところで、受け入れがたいかもしれない。
結局、私が言ってることも「あなたより不幸な人が世の中にはいる」ということであって、「他人からそう言われると腹が立つよね」と私自身さっき上で書いたばっかりだからだ。
なら、いったい私に何が言えるだろう?
私に言えるのは、「身近に自分より不幸な人がいた」と気づいて気持ちが軽くなったということくらいのものだろう。
実際、私たちの身近なところに「不幸な人」はいる。
「不幸な人」というのはどこにでもいるのだ。
なぜなら、「不幸」も、「苦しみ」も、この社会のそこら中にばらまかれているものだからだ。