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「内なる声」が語るのに任せること

文章を書いていると、時々、次の言葉が浮かんでこなくなる時がある。
それまですらすらと書けていたのに、急に言葉に詰まってしまい、何を書いたらいいかわからなくなるのだ。

特に、文章を書き始める時には、白紙のページを前にして途方に暮れることがよくある。
まっさらな白紙のページには「何を書いてもいい」のだが、「何でもいい」はかえって困る。
それで、「何を書いたらいいか」がわからなってしまうのだ。


◎書けない時には、ただ黙って坐ったまま待ってみる

そういう時、昔だったら書くことを放棄してしまっていた。
「もう書けない」と思って筆を置き、「また明日書こう」と考える。

でも、翌日になってもなんとなく気が乗らない。
それで「また明日」「また来週」と先送りにし、それを繰り返すうちに何ヶ月も書かなくなることさえ時にはあった。

だが、最近は「書けない」と思っても、そのまま待ってみることにしている。
「待つ」とは言っても、明日にまわすのではなくて、言葉が浮かんで来るまでパソコンの前に坐ったままでいるのだ。

ただし、「何を書こう?」とか「どう書こう?」とかは考えない。
むしろ、頭の中を空っぽにして、言葉が浮かぶのをただ待っている。
そうして黙って待っていると、ある時にフッと「次どう書けばいいか」がわかるのだ。

続きが急に書けなくなると、当人はつい焦ってしまって、「どうしようか?」と考えがちだ。
しかし、言葉が浮かんでこない時というのは、頭の中が整理されていない時だ。
「思考の流れ」が混線していて、しかるべき言葉が出てこないのだ。

そういう時には、考えれば考えるほどドツボにハマっていってしまう。
頭の中で思考が空回りし、「書けない!どうしよう!」という焦りばかりが強くなっていく。
そうして、書けないもどかしさで身もだえし、書くことが嫌になっていってしまうのだ。

書けない時には無理して書こうと思わないことだ。
かといって、書けなくなるたびに毎回書くことを放り出してしまうと、いつまで経っても何一つ書きあげることができない。

だから私は待っている。
言葉が自分を訪れるのを、静かに坐って待っているのだ。

◎私たちの「内なる神」は、私たち自身が受容的な時にのみ何かを語る

もちろん、そうして待っていたとしても、言葉がいつ訪れるかは誰にもわからない。
「何かが思いつく」という保証があるわけではないし、思いつくのをせかすわけにもいかない。

それはちょうど宗教家が「神のお告げ」を待ちながら、黙って祈りをささげる時のようだ。
「神」をせかすわけにはいかない。
「神」には「神」の都合があるし、そもそも「神」は人間にコントロールできない。
もしもコントロールできるなら、「神」は人間より下の存在になってしまうだろう。

パソコンの前に坐ったまま黙って言葉が浮かぶのを待っている時というのは、ちょうど「内なる神」の啓示を待っているかのようだ。
私たち自身の「内なる神」は、私たちに何かを語ろうとしている。
だが、その声は私たち自身が「白紙」になって、受容的に開いていないと聞き取れないのだ。

谷底のように受容的になって初めて言葉は流れ落ちてくる。
逆に、山頂のように攻撃的になると言葉を逃す。
言葉は「高いところ」には登ってこない。
それは「低く開いた場所」にこそ流れてこんでくるのだ。

◎コントロールを手放すとき、「創造」は内側から自然と起こる

言葉をつかもうとするのではなく、自分を開いて言葉を待つこと。
それは「自分自身の内なる神」を信じることだ。

この「内なる神」を心と呼んでもいいし潜在意識と呼んでもいいが、私たちの中には、私たち自身によってはコントロールできない、「とても大きな何か」がある。
その「大きな何か」を信じて自分を開くことは、瞑想的な祈りのようなものだ。

私たちの自我は、この「内なる神」よりも小さい。
そして、当たり前だが、「小さいもの」が「大きいもの」をコントロールすることなどできない。
だが、それにもかかわらず、往々にして私たちは思い上がってしまう。
「自分の内なる声」に耳を傾けず、表層的な自我の働きだけで問題を解決しようとしてしまうのだ。

私たち自身の力などちっぽけなものだ。
意識的に問題を解決しようと思っても、できることなど大してない。
だったら、焦って何かしようとしたりせず、黙って待っていればいいのだ。

だが、そういう「行き詰まり」の中にあっては、黙ったまま待っていることは「無駄なこと」のように思えてしまう。
ジッとしていないで行動し、もっと自覚的に考えねばならないかのように思えるのだ。

しかし、そういう時こそ、いたずらに動き回るのではなく、自分を「空っぽ」にして待つことが大事なのではないかと思う。
なぜなら、私たちの「内なる神」は既に答えを知っているはずだからだ。

それは攻撃することでもなければ征服することでもない。
そこに一切の努力はなく、緊張もなければ焦りもない。

そうして、ただただ受容的に待っている時、もはや私たちは自分から何かを作ろうとはしていないのに、何かが向こうから創造されてくる。

それはとても不思議な感覚だ。
なぜなら、それらの「創造物」は確かに「自分の中から出てきたもの」なのだが、まるで「自分を超えたもの」であるかのようにも感じられるからだ。

◎「自分の運命」を受け入れる時、人は「自分の限界」を超える

私たちが意識的にコントロールできることは、それほど多くない。
むしろ、コントロールしようとすればするほど、私たちは小さくまとまっていく。
逆に、自分を大きく開いていくためには、あえてコントロールを手放すことが必要だ。

結果を操作しようとしない。
成果を得ようと焦らない。
ただ、「自分を超えたもの」が語るのに任せるのだ。

「修行」というのは、本来そのためにあるのではないかと思う。
「コントロールできること」をただ量的に増やしていくだけなら、それは「修行」ではなくて「訓練」だ。
「修行」は「コントロールできること」を増やしていくためにおこなうものではなくて、むしろ「コントロールできない大きな何か」を受け入れるための「空っぽの器」となるためにおこなわれるのだ。

だが、私たち現代人は何でもかんでも操作したがる。
誰もが「確かな結果」を求めており、「確実な成果」を得ようとする。

そうして私たちは「頭でっかち」になる。
何でも思考によって解決しようとし、「内なる声」など聞きもしない。
「内なる声」などという不確かで曖昧なものを信じるよりも、「自分の自我」を信じているのだ。

コントロールを手放すこと。
それは時として恐ろしいことでもある。
もはや何が起こるかわからない。
結果は保証されておらず、何の成果も得られないかもしれない。

だが、全てをコントロールしようとする限り、私たちは「自我」という檻の中に閉じ込められる。
その檻は狭く、私たち自身を常に限界づけている。

「ここを超えたら操作できなくなる」というポイントがあり、私たちはその内側にいる限り安全だ。
だが、この安全と引き換えに、私たちは「思いがけないもの」と出会えなくなる。
「自分の限界」を超えられなくなり、「窮屈な想い」をしながら生きていかねばならなくなるのだ。

「自分の限界」を超えるためには、私たちはあたかも「遊ぶ」時のように、心を開いていなければならない。
大事なことは、結果を操作しようとすることなく過程そのものを楽しみ、必然よりも偶然を愛することだ。

合理主義は偶然を殺してしまい、私たちの可能性を狭めてしまう。
偶然に向かって身を開くこと。
それは、「自分の限界を超えていくこと」であり、同時にまた「自分の運命をありのままに受け入れること」でもあるのだ。

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