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「弱い人間」として生きていく

私は自分が「心の弱い人間」であると自認している。
日常のちょっとしたことで動揺するし、傷つきやすく、すぐにへこむ。

以前は、そんな自分が嫌で仕方なく、「もっと心の強い人間になりたい」とよく思ったものだった。
だが、最近はあまり「強くなりたい」とは思わなくなった。

今回は、どうしてそう思うようになったのかを書いてみたい。
「自分は心が弱い」と感じて悩んでいる人は参考にしてみてほしい。
(ちなみに、今回の記事は6000文字弱ある長文だ)


◎我慢して耐えれば強くなれるのか?

さっきも書いたが、私は心が弱い。
動揺しやすく傷つきやいし、不安になったり気分がモヤモヤして落ち着かなくなったりすることもよくある。

当たり前だが、精神的に不安定になることは楽しいことではないので、私も昔は、強くなるために努力をしていた。
「心の弱い自分」を好きになることができず、なんとかして「強い人間」に変わろうとしていたのだ。

たとえば、「もし辛いことがあっても、我慢して耐えていれば耐性がついて心が強くなれるのではないか」と思っていた時期があった。
苦しくても弱音を吐かず、ジッと耐えていれば心は強さを獲得すると思っていたわけだ。

だが、そうやって我慢をしていると徐々にメンタルが失調してしまい、気分は塞ぎ込むし、身体は動かなくなるしで、状況はかえって悪化してしまった。
もともとストレスに対する耐性がないのに無理をしたことで、うつ状態みたいになってしまったのだ。

それで、「ただ単純に我慢すれば心が強くなるわけではない」と学んだ。
確かに、適度なストレスを感じながら生活することでストレスに対する耐性が身についていくことはあると思うが、「とにかく我慢すればいい」という考え方は極端すぎた。
たぶん、こういう極端な考え方もまた、私の「心の弱さ」の一部なのだろうと思う。
白か黒、ゼロかヒャクかの極端な考え方しかできないから、現実に柔軟に対応できないのだ。

◎瞑想をすれば強くなれるのか?

また、「瞑想がメンタルに良い」ということを聞き、瞑想の実践に力を入れたこともあった。
瞑想によって「不動心」が得られれば、怒りや悲しみや苦しみなどの感情に翻弄されなくなると思ったのだ。

だが、何年瞑想を実践しても、「不動心」は手に入らなかった。
確かに、瞑想をしている間はリラックスできるようになったのだが、日常生活の中で何かトラブルが起こると、私の心は千々に乱れた。

また、苦しみが強い時には、そもそも瞑想自体ができなかった。
身体は坐ってジッとしていても、内側では感情が暴れまわっており、まったく集中することができなかったのだ。

何年も瞑想を実践したにもかかわらず、私の心は「弱いまま」だった。
そして、そのことでますます私は自信をなくしていった。
「こんなに努力しているのに、人並みの『心の強さ』さえも手に入らないのか…」と、かつての私は瞑想をするたびに落ち込んだものだ。

ひょっとすると、どこまでも瞑想を実践することで、心が動揺しなくなる境地にいつかは到達できるのかもしれない。
だが、今の私はそれに関してはもう諦めている。
それだけの努力を私は既にしてきたし、「それにもかかわらず強くなれないなら、もう諦めてもいいか」と思えるようになったのだ。

それに、そもそも「不動心」を目指していると、何かあって心が動揺するたびに落ち込むことになってしまう。
「心が動いてはいけない」と思っているから、何かある度に「ああ、また心が動揺してしまった」と、自分のことを責めてしまうのだ。
つまり、心が動揺したうえに、自己嫌悪にまで陥ってしまうわけだ。

それよりは、「ああ、またいつもみたいに動揺してる。まあ、自分はそういう人間だからな」と思って受け入れてしまったほうが、自己嫌悪に陥らない分だけまだマシだ。
いくら瞑想を実践しても心は動し、何かあれば動揺だってする。
そういうものだし、それでいいのだ。

そう思うようになってからは、「不動心」を求めることもなくなった。
瞑想自体は今も続けているが、それは「心を強くするための手段」ではなくなり、「思考を静めてリラックスするための方法」になっている。

◎この世は不公平にできている

考えてみれば、このあたりから、「自分の弱さを受け入れる」ということが徐々にできるようになっていったように思う。

どれだけ努力したところで、「弱い心」は弱いまま。
そのことで私は自分に失望したが、「どうやら自分はそういう人間として生まれついたのだろう」という諦めがついたのだ。

そもそも、この世界には「不公平な現実」が無数に存在している。
貧困家庭に生まれるか金持ちの家に生まれるかは誰も選べないし、知的能力も「どんな遺伝子を持って生まれたか」によってほとんど決まってしまう。
この世は、努力によってくつがえせないものばかりなのだ。

というか、そもそも「努力できるかどうか」ということ自体が、幼少期の養育環境に大きく依存している。
なぜなら、子どもの頃に褒められたり認められたりしたことのない人は、「努力する能力」自体が育たなくなってしまうからだ。

そういう意味では、何かしらの努力ができるという時点で、「恵まれた才能」を持っていると言ってもいいわけだ。
実際、世の中は努力しようと思って努力できる人ばかりではないのだから。

さっきも書いたが、そもそも世の中は不公平にできている。
心が強いか弱いかも、後天的な努力以上に、生まれによって決定的に決まっているところがあると私は思う。
「心の強い人」は別段努力していないのに子どものころからメンタル強者であり、「心の弱い人」はどれだけ努力したところでメンタル強者にはなれない。
残酷なことだが、そういうものだと思う。

そのことに気づいたばかりの頃は、そういった世の中の不公平に嘆いたりもした。
「なんで自分は『強い人間』として生まれてこず、こんな『弱い人間』として生まれてしまったのであろうか…」と、よく悲嘆したものだ。
そこには、「努力によっては乗り越えられない壁」が存在しており、私は一生「あちら側」には行けないわけなのだから。

◎「自分の弱さ」をただ認めること

だが、私は徐々に「自分の弱さ」を受け入れ始めた。
それは何年も瞑想の実践をして、実際に努力したことも大きかったように思う。
「これだけやってダメだったのだから、心を強くすることはもう諦めよう」と素直に思えたのだ。

それまでの私は、「心が弱いこと」は恥ずべきことであり、屈辱的なことであると思っていた。
だから、「心の弱い自分」を受け入れることにも抵抗があったわけだ。

だが、「心の弱さ」というものは、あくまで私の一部分に過ぎないと気づいた。
それは、私という人間を形作っている無数の要素の一つに過ぎないと思ったのだ。

私は「心の弱い人間」ではあるが、だからといって、何もかもが失われているわけではない。
五体満足だし、住む家だって、働ける職場だってある。
瞑想の実践を続けたおかげでリラックスするのは得意だし、こうして文章を書くことも人並み以上にできるという自負がある。
そういう風に見てみれば、私という人間の全部に「×(バツ)」をつけることはできないだろう。

自分のネガティブな点に目を向けると、あたかもそれが自分の全部であるかのように錯覚してしまいがちだ。
だが、それでもまだ残されているものが何かあるはずだ。
何もかもが失われているわけではない。
誰にだってまだ残されているものはあり、長所も美点もあるものなのだ。

もしそういった部分に着目するなら、自分のネガティブな部分も受け入れやすくなる。
「別に、自分の全部がダメなわけではない」と思えるからだ。
そして、たとえネガティブな部分を変えられなかったとしても、自分の人生を肯定することができるようになっていくだろうと私は思う。

何度でも言うが、この世の中は不公平だ。
「持っている者」は生まれつき多くを持っているし、「持っていない者」は生まれつき多くを失っている。
むしろ、「持ちたくないもの」をたくさん抱えて生まれてきてしまう場合だって多いだろう。

だから、「心が弱いほうがむしろ優れている」とは私は言わない。
なぜなら、「心が弱い」というのは、生きていくうえでは明らかにハンディキャップだからだ。

もちろん、心が弱いからこそ、弱い立場の人たちに共感できるという部分はあるだろう。
だが、ハンディキャップはハンディキャップだ。
「心の弱さ」が生きていくうえでの強みになることはないと思う。

だからこそ、「それ(=弱さ)をなくしたい」と多くの人は思うわけだが、「弱さ」は生まれつきのものなので、まずなくすことはできない。
私たちにできることは、ハンディキャップを受け入れることだけだ。

別に「自分の弱さ」を愛する必要はない。
ただ、目の前に机がある時に「ここに机がある」と認めるのと同じように、「自分には弱い心がある」と認めるだけでいい。
それが、「自分に課されたハンディキャップを受け入れる」ということなのだ。

◎「強さ」を諦めて良かったこと

私はいつからか、「強くなること」は諦めた。
私は「弱い人間」として生まれ、「弱い人間」として死んでいく。
それを変えることは、どうもできそうにない。
だったら、それを生きるだけだ。
その覚悟(というか諦め)が、少しずつできていったのだ。

ところで、そうして「強さ」を諦めたことで、良かったこともいくつかある。
「ハンディキャップを受け入れる」というのも、ただ辛いだけというわけではないのだ。

「強さ」を諦めて良かったことの一つ目は、「強がらなくてよくなったこと」だ。
たとえば、かつての私は、たとえ辛いことがあっても、我慢して平気なふりをすることがよくあった。
「こんな程度で弱音を吐いていたら強い人間にはなれない」と思ったし、弱音を吐いて他人から「心の弱い奴だ」と思われたくなかったからだ。

だが、「別に弱くてもいいか」と思うようになってからは、「強い人間の振り」をすることはしなくなった。
しんどい時は「しんどい」と言うし、無理な時には「無理」と言う。
時に傷つきへこむことがあったとしても、「まあ、自分はそういう人間だしな」と思って、あまり引きずらなくなった。

強くもないのに「強いふり」をするのは疲れることだ。
それは、「自分とは違う人間」になろうとするようなものであり、自分に無理を強いることでもある。
だが、「自分はそもそも弱い人間なのだ」と認めてしまうことで、「強い人間のふり」をすることをしなくてよくなる。
「守るべきもの(=強くなければいけないという理想)」がなくなるから、肩の荷が下りたように感じ、リラックスできるのだ。

それから、「強さ」を諦めたことで、今の自分の生活に満足できるようにもなった。
「強さ」を求めていた時は、今の自分に満足なんかできず、いつも「ここではないどこか」を目指していた。
「こんな事じゃいけない」と自分を追い詰めることで、視野も狭くなっていたと思う。

だが、「別に強くなくてもいい」と思うようになってからは、日常の中で感じる「ささやかな幸せ」を深く味わえるようになった。
ありきたりな言い方だが、幸せというのはいつも足元に見つかるものだ。
「今ここの自分」に満足できるなら、幸せはいつでもそこにあるのだ。

しかし、もしも「自分の弱さ」を許せないなら、「今ここの自分」に満足することなんてできないだろう。
「弱い自分」を嫌悪する気持ちが、どうしても残ってしまうからだ。

もしも「弱さ」を受け入れることができると、「弱さの中に安らぐ」ということができるようになっていく。
「強くあらねば」と思っていると緊張が解けないが、「弱いままであっていいんだ」と思うと安心できる。
「弱いまま生きていって大丈夫なんだ」と思えると、反対に勇気が湧いてくるかもしれない。

そういう意味で、「弱さ」を受け入れることは、決して「敗北」などではない。
それは、すぐ足元にある幸せに気づくために必要なことであり、不運にも「弱さ」を与えられた自分の人生をありのままに受け入れて生きていくための重要なステップでもあるのだ。

◎弱くたって生きていける

「そうは言っても、弱かったら生きていけないんじゃないか?」と不安に感じる人もいるかもしれない。
「しょせんこの世は弱肉強食であり、弱い人間に居場所なんてないんじゃないか?」と思うわけだ。

確かに、「生まれつき強い人間」が生きているのと同じ世界では生きていけないかもしれない。
だが、必ずしも他人と同じ場所で同じように生きなければならないわけではないだろう。
たとえ他人より地味で光の当たらない場所であったとしても、自分に合った場所でのびのび暮らしていけばいいのだ。

それに、今の日本は福祉制度も整備されているので、探せば「生きていける場所」も「生きていく術」も見つかるものだ。
かく言う私も、数年前に不安が強くなって引きこもり状態になったとき、精神科の病院に行って診断書をもらい、福祉施設に通所した経験を持っている。
失業していてお金もなかったのだが、思い切って生活保護を受給したことでなんとか生き延び、その後、回復して仕事ができるようになったことで、保護からも抜けることができたのだった。

辛かった当時は、「もう家に引きこもって自殺するしかない」とまで思い詰めていた。
だが、なんだかんだで私のことを受け入れてくれる人や場所はあったし、生活保護という制度があったおかげで生き延びることもできたのだ。

そういった経験をしたことで、「たとえ弱くても死にはしないのだ」ということが私にはわかった。
確かに、今の日本は弱者に優しくない部分もあるとは思うが、弱者なりに生きていくことが全くできないわけではないのだ。

最初にも書いたが、私は自分のことを「弱い人間」だと思っている。
昔は「自分の弱さ」が憎かったが、今は特に何とも思わない。
「自分には右手がある」というのと同じように、「自分には『弱い心』がある」と思っているのだ。

「弱さ」を罪悪視する必要はないと思う。
「弱い人間」だって生きていけるし、弱くたって別に大丈夫なのだ。

「弱さ」を抱えながら怯えて生きていくだけが人生じゃない。
「弱いままでも別にいいんだ」と、安心しながら生きていく道も、また残されているのだ。