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機械のように働くばかりではなく、立ち止まらなければ見えないもの

今の世の中において、「何もしないこと」は「非生産的で無意味なこと」のように考えられている。

それゆえ、私たちは時間が空くとすぐに何かをしようとする。
たとえば、知識を得るために本を読んだり、資格を取るために勉強をしたり、社会情勢についてキャッチアップするために経済新聞を読んだりする。

今の時代において「空いた時間に何もしないこと」は「罪」とされ、実際、休日を有意義に過ごさないと人は「罪悪感」を抱く。
「ああ、今日もまた何もしないで過ごしてしまった…」と思って自分のことを責めるのだ。

うつ病の人が休養中に自分を責めてしまう原因の一つは、こういった価値観が染みついてしまっていることだ。
「時間を有意義に過ごさねばならない」と思えば思うほど、何もしないで休んでいる自分が無価値に思えてくる。
それで、「こんな自分は生きていないほうがいいんじゃないか?」と考えてしまうのだ。


◎「すること」を積み重ねた果てに、私たちは「死人のような大人」になる

だが、「何もしないこと」は別に「罪」ではないと思う。
むしろ、私たちには「何もしない時間」が必要だ。

「すること」によって生活を埋め尽くしてしまうことが「善」なのではない。
そもそも、「すること」を次々スケジュールに詰め込みたくなるのは、私たちの多くが「何もしないでいること」ができないからというだけだ。

多くの人には「何もしないでいる」ということができない。
私たちはみんな「すること」に慣れ切ってしまっているので、「しないこと」の中には落ち着けないのだ。

しかし、「何もしない」というのは、本来とても自然なことのはずだ。
実際、生まれたばかりの赤ん坊は何もしていない。
働いてもいなければ本も読んでおらず、特に勉強もしなければテレビのニュースも理解しない。
赤ん坊は「あるがまま」であり、「もっと時間を有意義に使って誰よりも速く成長しなければ!」などということは一切考えていないのだ。

だが、やがて自我が芽生えて教育が施されるようになると、事情が変わってくる。
成長した子どもたちは、様々な「すること」を親や教師たちから押し付けられるようになっていくのだ。

「来週までにこの宿題をやってきなさい」
「毎週水曜はピアノのレッスンに行きなさい」
「ゲームばかりしていないで勉強しなさい」
などなど。

子どもたちは常に「より生産的であること」を求められるようになる。
「時間を無駄にしてはいけない」と親や教師たちは言う。
そして、「そんなことではろくな大人になれないぞ」と言って脅すのだ。

だが、そうして言われた通り「するべきこと」をこなし続けていった結果が、「死人のような眼をした労働マシン」なのではないだろうか?
子どもたちが親や教師に命令されるのと同じように、大人たちは職場の上司によって命令される。
そうして、言われたことをただ機械的に積み上げていくだけの日々の中で、私たちの心は死んでしまうのだ。

子どもたちは大人たちのことを実によく見ている。
「このまま言われた通りのことを一生懸命やったとしても、『あんな大人』になるだけなのか…」と絶望している子も決して珍しくないだろう。

◎何もかもが「生産性」によって計られる時代の中で「意味」を問うこと

今の時代では、誰もが「生産的であらねばならない」という「呪い」にかかっている。
そこにおいて人生とは、「生産性を競い合うレース」だ。

ゆっくり休んでいる暇などない。
与えられた時間をすべて使って、より生産的に生きるのが「正しい生き方」とされるのだ。

「何もしないこと」は、こういった価値観とは真っ向から対立するかのように思える。
だが、必ずしもそうではない。
なぜなら、「『何もしないこと』ができれば、人はもっと生産的になれる」と言われる場合があるからだ。

たとえば、瞑想だ。
瞑想の修行とは、本来「何もしないこと」を学ぶための方便だった。

だが、その瞑想を実践することがビジネスマンの間で流行している。
いわく、「瞑想をすると脳の働きが改善されて、もっと生産的に働けるから」なのだそうだ。

こうしていまや「何もしないこと」さえもが、「生産性」のために役立てられるような時代になった。
私は正直言ってそういう今の時代の在り方に、息が詰まってしまう。
「生産性への信仰」が隅々まで行きわたり、「生産的でない人間」は生きる価値のない「罪人」扱いされる。

だが、「生産性」だけで「人間の価値」を計ることなどできはしない。
それなら、働くことのできない幼児や病人、老人や障害者には生きる価値がないのだろうか?

もちろん、「そうした人々に価値はない」という風に無意識に思っている人は世の中に大勢いるし、それを公然と言い放った国家もかつてはあった。
だが、「役に立つもの」だけが「善」とされ、「役に立たないもの」が淘汰される世界においては、何か「大切なもの」がないがしろにされているように思えてならない。

たとえば、今のネットの世界では、「役に立つ記事」が求められる傾向が強い。
誰もが「役に立つ情報」を求めていて、供給する側もそれに迎合して「お役立ち記事」を量産しているのだ。

だが、そんな情勢下にあっても、「役に立たない記事」はたくさんある。
たとえば、個人の日記のような文章や、過去の個人的経験を語るような文章などだ。
私がいつも書いているような哲学的省察も、読んで何かの役に立つわけではないので、「役に立たない記事」と言えるだろう。

それらの記事は、読んだところで何か問題が解決するわけでもなく、「役に立つ知識」が得られるわけでもない。
しかし、だからといってそういった文章が全てなくなってしまったら、この世界は貧しくなってしまうように私には思える。

私たちは上記のような「役に立たない記事」を読むことで、他者の思考や人生を知り、時にそれらに共感し、感動することがある。
だが、それは別に、読んだ内容が何かの役に立つからではない。
そうではなくて、そういった他者の思考や人生が、私たちの心に触れるからなのだ。

「真の豊かさ」とは、「生産性」だけで達成できるものではない。
どんなに「生産性」を高めたところで、私たちは物質的には「豊か」になるかもしれないが、精神的には「貧しい」ままだ。
いくら物を詰め込んでみたところで、私たちの心は満たされない。
なぜなら、人の心を満たすのは、「物」ではなくて「意味」だからだ。

たとえどれほど「物」が豊かにあっても、自分の人生に「意味」を感じられなければ、私たちは生きることが虚しくなってしまう。
それゆえ、少なくはない人々が自分の人生に「意味」を求める。

だが、「人生の意味」というのは誰かに聞いてわかるものではない。
「人生の意味」というのは、どこかにあらかじめ用意されているものではなく、自分で自分に問いかけることで自ら創り出すものなのだ。

◎自分の人生に「主体性」を取り戻すために立ち止まること

「何もしないこと」が大事なのは、それによって「意味を感じ取る主体」が育っていくからだ。
「生産性を上げるために瞑想しよう!」などと考えるのではなく、「意味」を感じ取るためにこそ、人は瞑想をするべきなのだ。

たとえば、うつ病を経験して長い休養を取る中で、自分自身の人生と向き合い、生き方をガラッと変える人がたまにいる。
こうした人々は、うつ病を患う前より創造的になり、自分らしい人生を歩んでいく。

彼らは「何もしない」ということの中で、「人生の意味」を見出した人たちだ。
「生産性」を追い求めることだけが人生ではない。
どこかで勇気を出して一度立ち止まらなければ、見えないものもたくさんあるのだ。

だが、「生産性を競うレース」において、「立ち止まること」は「負け」を意味する。
そして、誰もが「敗北者にはなりたくない」と思っている。
だからこそ、私たちは立ち止まることができずに走り続けてしまうのだ。

だが、そんなレースには負けてもいいし、「勝った者」などありはしない。
どれだけ頑張って走っても、上には上がいるものだし、たとえ世界一たくさん「生産」したとしても、最終的にはみんな死んでいなくなってしまう。

「勝者」はいったいどこにいるのか?
「勝者」が仮にいたとして、その人はいったい何を得たのか?

「生産性の奴隷」として走り続けるだけの人生に「意味」を見出すことは難しい。
社会的には「成功」するかもしれないが、人生においては「失敗」する。

自分の人生に納得するためには、時として「立ち止まること」が必要だ。
私たちの人生には、「すること」だけではなく「しないこと」もまた必要なのだ。

むしろ、「しないこと」ができて初めて、本当の意味で「すること」ができる。
なぜなら、「しないこと」ができないがために何かをし続けているだけだとしたら、その人は「主体的に何かをしている」わけではなくて、立ち止まることができないがゆえに「やむを得ず受動的に何かをし続けている」だけだからだ。

「しないこと」がもしも選べないならば、私たちは否応なく「すること」に釘付けにされてしまう。
そうしてどこまでも走り続け、「そもそも何のために走っているのだったっけ?」という疑問さえも置き去りにされ、疲弊していってしまうのだ。

他人に流され、言われるがままに「生産」し続けるだけが人生であって良いはずがない。
自分の人生に「主体性」を取り戻すためにも、思い切って一度立ち止まり、「自分自身の内なる声」に静かに耳を傾ける時間が、私たちには必要なのだ。