「孤独な人生」も悪くはない
今の世の中は一人暮らしの人が増えている。
生涯通して結婚しない人も増えていて、「老後も一人」というケースは多い。
かく言う私も一人暮らしだ。
おそらく今後もずっと一人だろうし、死ぬ時も一人で死んでいくような気がする。
そう聞くと、「寂しくないのだろうか?」と思う人もいるかもしれない。
だが、特に寂しいと感じることはないし、未来に悲観もしていない。
なぜなら、「孤独」というものを別に「悪いもの」だとは思っていないからだ。
しかし、世の中には孤独でいることに耐えられない人もいる。
そういう人は、一人きりでいると孤独感を感じてしまい、それを埋めたくて人と一緒にいることを求めずにはいられない。
一人で生きて一人で死ぬのなんてまっぴらごめんで、孤独を避けたいがために結婚したいと思う人もいるだろう。
今回は、「孤独ってそもそも何なのか?」「孤独は悪いものなのか?」ということについていろいろ考えてみたい。
孤独感に苛まれて苦しんでいる人や、「いつまでも一人で生きていていいのだろうか?」と思って悩んでいる人は読んでみてほしい。
(なお、今回の記事は6000字以上の長文だ)
◎「孤独」と「孤独感」は別のもの
まず、よく言われることだが、「孤独」と「孤独感」は別のものだ。
「孤独」というのは、まわりに人が居なくて「物理的に一人ぼっち」になっている状態のことだが、「孤独感」というのは周囲に人が居ようがいまいが関係なく感じる「自分は一人ぼっちだ」という感覚のことだ。
たとえば、知り合いで集まって飲み会に行ったときなどに、うまく話の輪に加わることができなかった経験などはないだろうか?(私はたくさんある)
そういう時、みんなは盛り上がっているのに、自分はその感情を共有できず、一緒に盛り上がることができないものだ。
そして、そんな風に「ノリ」が悪いと、あまり話も振ってもらえなくなってしまうかもしれない。
こういう時、言いようのない疎外感を覚え、「自分は一人ぼっちだ」と感じることがある。
これは「孤独感」の一種だ。
まわりにたくさんの知り合いがいるのに、それにもかかわらず「自分は孤独だ」と感じるわけだ。
他にも、デート中に彼氏・彼女と喧嘩してしまった場合なんかには、すぐ横に好きな人がいるにもかかわらず、「相手と気持ちが通じ合っていない」と思うことによって、「強い孤独感」を感じる可能性がある。
このように、どれほど他人に囲まれていようとも、たとえ愛する人と一緒にいようとも、「孤独感」を感じる可能性はあるわけだ。
だが、世の中には「誰かと一緒にいれば孤独感を紛らわせることができる」と考える人もいる。
そういう人は、「一人は寂しいから友達が欲しい」とか、「孤独感に耐えられないから結婚したい」とかいった風に思うかもしれない。
しかし、経験上、「気持ちの通じ合っていない他人」に囲まれている時のほうが、物理的に一人ぼっちでいる時よりも、「強い孤独感」を感じやすい。
人に囲まれている時に「孤独感」を感じると、「こんなに人がたくさんいるのに、その中にあっても自分は孤独なんだ」と思って、余計に辛くなるものなのだ。
だから、「誰かと一緒にいれば孤独感を感じずに済むはず」という考えは、必ずしも正しくはない。
誰かと一緒にいても「孤独感」を感じることはあるし、むしろ誰かと一緒にいるからこそ、「孤独感」をより強く感じる場合さえあるのだ。
◎何かに没頭する時、「孤独感」は消える
逆に、「物理的に一人ぼっち(孤独)」であっても、まるで「孤独感」を感じない場合もある。
たとえば、一人で趣味に没頭している時などはそうだろう。
自分の好きなことをしてマイペースに時間を過ごしている時には、「孤独感」などは特に感じない。
むしろ、「楽しい」というポジティブな感情を感じさえするのではないかと思う。
それゆえ、「孤独感」をどうにかするためには、「友達を増やすこと」より「趣味を持つこと」が推奨されたりもする。
なぜなら、友達は必ずしも「孤独感」を和らげてくれるとは限らないが、好きなことに没頭している間は確実に「孤独感」に苛まれることがなくなるからだ。
また、友達は他人なのでこちらの思うようにはコントロールできないが、趣味だったら自分の好きな時に自分のペースでおこなうことができる。
友達の場合、こちらがひどい「孤独感」を感じて苦しんでいても、「今は都合が悪いから無理」と言われてしまったらそれまでだ。
友達にだって、都合というものがある。
でも、趣味だったら、自分の都合だけでいつでも始められる。
他人の都合やペースを気にすることなく、自分の好きなようにおこなうことができるのだ。
こんな風に、「孤独感を解消する方法」が自分のコントール下にあるかないかは、日常的な心の安定にも大きく影響するだろう。
実際、「孤独感」が強くなった時、他人に頼るしかないというのはなんとも心もとない。
「孤独感」を自分で何とかできるなら、そのほうがずっと安心できるのは明白だ。
ただ、趣味の中には、他人と一緒でないとできないものもあるだろう。
チームでするスポーツなどの場合は、一人でできることは自主練くらいになるのではないだろうか?
そういう場合、趣味と言えど自分の都合だけでおこなえないが、一人で自主練をするだけでも、「趣味の時間」とは言えるかもしれない。
要は、何か「意味」や「やりがい」を感じられるものに没頭できるかどうかが大事だからだ。
◎本来、「孤独な時間」は「解放的で自由な時間」
このように、もし「意味」や「やりがい」を感じられる何かがあれば、「孤独感」は解消することができる。
一人きりで何かに没頭している時、物理的には「孤独」なわけだが、「孤独感」はそこにないわけだ。
反対に、「物理的な孤独」のほうを解消することは、「孤独感」を解消することよりずっと難しいかもしれない。
なぜなら、どんな人でも、常に誰かと一緒にいるわけではないからだ。
生活していれば、時として私たちは否応なく「孤独」になる。
「一人きりでいなければならない時間」というのは生活の中からなくすことができない。
もしそれがなくなって、24時間、常に誰かとくっついて生活することになってしまったら、それこそストレスだろう。
「孤独」は決して「悪いもの」ではなく、「生きていれば当たり前に訪れるもの」であり、受け入れるしかないものなのだ。
むしろ、「孤独な時間」は「自分の時間」とも言える。
他人に縛られず、自分のペースで自分のしたいことができる時間。
それは本来、「解放的な時間」であり、「自由な時間」とも言うことができるはずだ。
◎周りに合わせることが「善」か?
だが、そういった時に「解放感」や「自由」を感じられる人ばかりでもない。
なぜなら、一人きりで過ごしてばかりいると、「自分の生き方は何か間違っているんじゃないか?」と考える人もいるからだ。
そういう人は、「自分ももっと他人とかかわって生きたほうが良いのではないか?」とか、「いつも一人でいる自分は周りとうまくやっていけない『劣った人間』なんじゃないか?」とか、そういうことを考えて自分を責めてしまう。
「自分は間違った生き方」をしていると思うわけだ。
だが、ここには「思い込み」があると思う。
それは、「誰もが他人に合わせて生きていかなければならない」という思い込みだ。
そもそも私たちは、小さいころから「協調性」というものを繰り返し叩き込まれる。
学校では、場を乱さず、空気を読んで、集団の中で生きていくことが大事だと教え込まれるのだ。
なぜかと言えば、そのほうが教師が管理しやすいからだ。
当たり前だが、各人が各人のペースでてんでバラバラなことをしていたら、授業などおこなえない。
学校というシステムを運営していくうえで、子どもたちが「管理しやすい状態」にあることは必須なのだ。
もちろん、社会的な常識や一般的な道徳は必要だろうと思う。
だが、「周りと違う=悪」というのは必ずしも正しくない。
人には、良くも悪くも「個性」というものがある。
他人に合わせることのできる人もいれば、できない人もいる。
それはあくまでも個性であって、優劣はない。
だが、学校教育の場ではここに優劣が持ち込まれる。
他人に合わせて速やかに行動できる子どもが教師から称賛され、他人に合わせられずにマイペースで行動する子どもは教師から問題児扱いされてしまうだろう。
そして、こういった「指導」が繰り返されることで、私たちの中には、「他人に合わせられることが善で、他人に合わせられないことは悪だ」という思い込みが根付いてしまう。
だから、その後大人になってからも、他人とうまく馴染めない人は、「自分は劣った人間であり、間違った人間なのだ」と思ってしまいがちになるのだ。
しかし、繰り返し言うが、他人に合わせられるかどうかは、優劣ではなく個性だ。
他人に合わせられないからといって、その人が人間として劣っているわけではない。
そういう人は、無理に他人に合わせたりせず、「孤独」に生きることを選んでもいいのだ。
それは決して「劣った生き方」なのではなく、「その人自身の生き方」だ。
その選択は尊重されるべきだろうと私は思う。
◎私が「一人ぼっち」になったときのこと
このように、「孤独な人生」を歩んでいるからと言って、その人が間違っているというわけではない。
「孤独に生きるかどうか」は、あくまでも個人の選択なのだ。
だが、それでもやはり、「自分は孤独を選んだのではなく、否応なく選ばされたのだ」と思う人はいるだろう。
「誰かと一緒に生きること」と「一人きりで生きること」のどちらも選べたけれど、あえて「孤独な人生」を選んだという人ばかりではないはずだ。
そういう人は、「自分は孤独に生きるしかなかった」という敗北感を感じるかもしれない。
かく言う私も、過去にそう感じていたことがある。
「自分は一人で生きていくしかない人間なのだ」と絶望していたことがあるのだ。
実は、私は過去に離婚経験がある。
大好きな人と結婚して一緒に暮らしていたのだが、生活するうちに関係がぎくしゃくしてきて、喧嘩が絶えなくなった。
そして、妻は子どもを連れて家を出ていき、その後、二度と戻ってくることはなかった。
その時、私は「人生最大の孤独感」を感じた。
前は、仕事が終わって家に帰ってくると、妻と子どもが迎えてくれた。
だが、もう二人はいない。
真っ暗な誰もいない家に帰ってくると、寂しさと惨めさが込み上げてきて、私はよく泣いたものだった。
私は妻のことがまだ好きだった。
ケンカをすることも多かったが、できることならまたやり直したいとも思っていた。
だが、妻はもう二度と私のもとには戻らないと決めていた。
それがとても悲しかったし、私は自分が人生の敗残者になってしまったように感じたものだ。
広いがらんどうの家に帰ってきて一人きりで食事をしていると、「自分ほど寂しい人間はこの世にいないのではないか」と思えた。
生きていることが虚しく、心はズタズタに傷ついていた。
これから先、「一人きりの人生」に耐えられるのか、本当に不安だったのを覚えている。
だが、私にはどうしようもなかった。
妻も子どもも、もう戻ってくる見込みはなく、かといって新しい出会いを求めようという気にもならなかった。
それに、私は憔悴しきっていてひどい有様だったし、とてもではないが、新しく誰かと恋愛ができるような状態にはなかった。
私は否応なく「一人きり」になった。
ついには精神を壊して仕事にも行けなくなり、外にも出ないで引きこもるようになった。
これが「自分で選んだ生き方だ」なんて、当時の私にはまったく思えなかった。
そうして、「自分は結婚生活を維持できない出来損ないの人間なのだ」という敗北感が私の心を染め付けた。
「自分が孤独であるのは自分が劣った人間、間違った人間だからであり、この孤独感はその罰なのだ」と思ったのだ。
私は一人ぼっちで苦しみの中に沈んでいった。
あれは、今思い出しても地獄のような日々だった。
◎「孤独こそ我が指定席」という自覚
私がどうやってそこから立ち直ったのか、実のところ、自分でもよくわからない。
だが、時間が経つにつれて、「孤独感」が和らいでいったのは確かだ。
一年、二年と経つうちに、一人きりでいてもなんとも思わなくなっていった。
むしろ私はそれが自然なことのように感じ始めたくらいだ。
つまりは、「孤独こそが自分の指定席だ」と思うようになっていったのだ。
私はもう「誰かと一緒に生きよう」とは思わなくなった。
結婚生活は私にとって地獄のようなものだったし、離婚した後の苦しみもまた筆舌に尽くしがたいほどのストレスだったからだ。
もちろん、もし幸せな結婚生活を送れる自信があるのであれば結婚したほうが良いだろうが、結局、私は結婚をして幸せになれるタイプの人間ではないのだと悟った。
むしろ今は、「あんな苦しい想いはもう二度としたくない」くらいに思っている。
だから、私は今、好きで一人でいる。
確かに私は誰かと一緒に生きていく能力には欠けるが、それは私が「そういう人間」だからであって、別にそういった部分を直そうとは思わない。
要は、私は離婚後に長い時間をかけて、「自分の孤独」を受け入れられるようになったということだ。
離婚した直後は、自分のことを「出来損ないの欠陥品」みたいに思ったものだが、今はそうも思わない。
「他人と一緒に生きていけない人間は出来損ないだ」という価値観を絶対視するのは、単なる思い込みだと、今ではわかっているからだ。
今ではむしろ、私は一人の生活が好きだとさえ思っている。
なにしろ、自分のペースで自分の好きなように生きられるからだ。
好きな時に寝て、好きな時に起き、好きな時に好きなものを食べられる。
別に誰かの意見や顔色をうかがう必要もなく、自分の生活を自分流に組み立てることができる。
そういう生活が気に入っているし、私の性には合っているように思う。
それに、基本的に一人でいることによって、私は自分で自分を満たしてやることが結構得意だ。
機嫌が良くない時や精神的に落ち込んでいる時などに、他人にそれを何とかしてもらおうとはあまり思わない。
自分の機嫌は自分で取るのが基本だ。
「自分を満足させるのは他人ではなく、あくまでも自分自身だ」という感覚が根っこにあるのだ。
◎「孤独」は「悪いもの」ではない
そんなこんなで、今の私は「一人きりの生活」を楽しんでいる。
確かに私は「孤独」かもしれないが、もう「孤独感」を感じることはないし、「孤独」を「どうにかするべき問題」だとも思っていない。
「自分の人生はこれでいい」と思っているのだ。
「孤独な人生」を「惨めだ」と思うか「自由だ」と思うかは、その人次第だ。
だが、もしも「惨めだ」と思うなら、自分が信じている常識を一度疑ってみてもいいかもしれない。
なぜ「孤独」ではいけないのだろうか?
一人で生きていくことは、本当に「悪いこと」なのだろうか?
そういったことを自分に問いかけてみてほしい。
そうしたら、案外、昔親や教師から言われたことを頭から信じていただけだったと気づくかもしれない。
「一人きりで生きていても幸せになれない」などということはない。
むしろ、「孤独な時間」を楽しむことの中にこそ、幸福はあると私は思う。