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「分身的幻聴」を今はここにハイライトしない

また純粋な口述筆記をしたいと思います。私は「分身的幻聴」と呼ばれるものによってずっと影響を受けているのではないかと思います。
「分身的幻聴」についてはジャック・ラカンが言及しているところのものでした。その「分身的幻聴」についてはフランスの関係の哲学をする人がある学会発表のなかで取り上げていた原稿のなかで言及されていたものでした。
その「分身的幻聴」の影響がかなり色濃く、そこから自分が脱出しなければならないことは感じています。
例えば、こうして口述筆記をする方がもしかしたら良い印象の文章を書けているのではないでしょうか。私はこの前、八王子で写真を撮りました。

八王子の空、2023.07.29

私は自分という存在が空を飛んでいけば良いのにと思うことがあります。そうした欲望については例えばX JAPANのAngelはそうした欲望について最初に歌っていたように思います。
そのAngelという歌があるなかで、何が自分にできるのか、自分の人格の分裂があるなかで、というより解離性障害があるなかで、そしてそれを自覚するなかで何をできるのかを考えたいです。
異なる自分、異なるモードの自分がいます。異なる人格の自分と言うべきでしょう。その異なる人格の自分、異なる意識の自分、その意識変容があるなかで社会のなかで上手く振る舞うために何が必要かということについて自分は社会的な人格を中心として生きざるを得ないと思っています。もう一つの人格については「何が俺やねんやろ」とかなり今反省しています。そうした反省があるなかで、ただ視界のダブリングは起こっているのですが、そうした視界のダブリがあるなかで、つまり自分にははっきりと記憶は喪失することはないけど、ただこの人格のモードでは思い出せないこともあります。
昔の大学時代のサークルの同期がどんな人だったのか。それは思い出せるのは、異なる人格の意識領域に自分はアクセスしているからでしょう。
それは映像記憶のように頭のなかにフラッシュバックするので、私は思い出すことはできるのですが、それは情報装置にアクセスしているようなもので、自分の自然な意識の流れでは「誰だっけ」となってしまいます。
それは普通の人はそうかもしれないです。普通の人も「あの人誰だっけ」となりうるのかもしれないです。
それが普通のことで、ずっと断片が映像記憶としてフラッシュバックすることによって覚えている自分は特殊かもしれないです。
そのことはあるのですが、自分はどう振る舞う人間として生きていけば良いかそこを考えて、その点で自分の人格を掴まえる必要があるかと思います。
画面上で異なる「自己のエクリチュール(書法)」が書かれていかないように、それは自分の綺麗な部分で人と接していたいと感じるからです。
人の心を汚染したくないです。その点については昔見たアニメでそうした係数の存在を言及しているものがありました。

係数を上げるのではなく、汚染されるのではなく、自分のなかで言葉を綴る練習をして何とかしていきたいです。
何を自分ができるのか、ということを考えたいです。
もちろん、これは一人の思ったこと、一人の単なる振り返りです。
そんなに面白くないかもしれません。これまでのものと比べては。
ただ、自分の心が汚染されていくのは辛いものがあります。

心が汚染されてしまうのではなく、その「分身的幻聴」をどう自分のなかで位置づけるかということも考えつつ、2人の主体が書いてしまうことのないようにこうして話しながら書くことにしました。

面白くはなかったかもしれないけれど、これは自分のなかで綺麗な言葉だとは思います。

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