「なりたい自分」と「ありのままの自分」

 はあちゅうさんの『自分の強みをつくる “なりたい自分”を“自分”にしちゃえ。』という本を読んだ。自分にも「なりたい自分」というものがあって、それを生きようと必死な時があった。正直、それをアルターエゴと呼ぶことは可能である。そのアルターエゴとしての自分というものが、この文章を書いているアイデンティティとしての自己である。アルターエゴとして、この文章を書いているということは本来の自分ではないということになる。
 作られたキャラである。作られたキャラとして話している。実はそこに自分の実存的な問題があったのではないか。
 キャラとして話したい、書きたい、「ありのままの自分」から外れて文章を書きたい。「異なる出発点」に立って文章を書き始めたいということではなかっただろうか。
 土井隆義さんの『キャラ化する/される子どもたち――排除型社会における新たな人間像』のなかで、このキャラの問題について取り上げられているところがあった。
 キャラとは複雑性を縮減し、自分と同質的な相手とつながるため、相手と同質的なキャラを演じるということである。
 しかし、アイデンティティとはそうした同質的な相手とのやり取りのために変形されるものではなく、異質な相手と付き合うために必要な、多面性を含んだものでなくてはならないということである。
 昔、私は2ちゃんねるでなりきりをしていた。そこで、ゲームのFF12のキャラクターを演じていた。ラーサーという名前だった。
 自分は自分では上手くコミュニケーションが取れないけど、そのラーサーというキャラを演じている状態であれば、上手くネットでコミュニケーションが取れた。
 また、ネットでチャットする時も「なりきり」をしている感覚があった。自分自身、「なりきり」をして文章を書いているところがあった。
 そして今はその「なりきり」に近いアイデンティティと同じ仕方で文章を書いている。
 「なりきり」のアイデンティティ、アルターエゴのアイデンティティで文章を書いている。
 実は、文章を書く時に自分のアイデンティティを変更して書いているところがあった。それはネットでのコミュニケーションでできた人格であると思われる。それは、自分のリアルな人格とは異なる。
 「なりたい自分」に近いかもしれないが、確かにリアルでありのままの自分とは異なる。そこに自分の問題点があったのだろう。
 「なりたい自分」を演じていくことが本当に良いのだろうか。
 「ありのままの自分」を大切にしてもおかしくないのではないか。
 私たちは人間として、自分の内面を常に持って、そして人と関わっていくべきではないだろうか。

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