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言葉の花束ーアキの詩集No.5

1.「心の映し鏡」

自分の心の状態なんて
目には見えない

けれども
自分の表情や仕草
部屋などの環境で
何となく分かってしまうよね

私はいつも
にこやかに笑い
はきはきと話している

けれど
荷物はいつもいっぱいで
バッグがはち切れそう

それ
今の自分の頭と心の状態

いっぱい
色んなものを
心の中に詰め込みすぎて

心が今にも
パンクしそうだ

バッグの中をチェックすると
今は使わない
入れる必要がないものが
細々と入っている

心の中も
そうじゃないかな?

心の整理をするつもりで
手始めに
バッグの中を整理しようよ

そしてほら
自分の部屋を見て

物がごちゃごちゃ散らかっていて
お世辞にもきれいとは言えないでしょ?

私の心もそんな感じだと思うよ?

心の片付けをするつもりで
自分の部屋を片付けしようよ

自分の身の回りの状態って
心の映し鏡みたいなものだからね

それならば
身の回りをどうにかすれば
心も自然と変化するものじゃないかな?

なんて
私は思うんだ


2.「世間は人を守らない」

世間は
常識やルール
模範など
「普通」を提示して
人に強要する

普通という名の正義という枠に
人を当てはめ
そこから外れた人間を
守れない
というより守らない
むしろ攻撃だってする

世間は人を守らない
世間は普通を守るだけ

人を守り支えるのは
人しかいない

そう私は思うんだ


3.「グレーな心」

ヒトの本能と理性が拮抗するように
善と悪、喜と怒、哀と楽など
色んな相反する感情が存在し
混ざり合っている

その濃度は個人差があり
時と場によって
濃度は変化する

だから片方のみということはなく
ヒトは極めて「グレー」な心を持っている

表裏一体の心があるからこそ
どちらが一方の心に染まったとしても
良くも悪くも
もう一方の心に引き戻されたりする

絵の具のように混ざり合う感情
綱引きのように引っ張り合う感情

感情の作る色は
時に濁り
時に鮮やかで
だからこそ
その変化が魅力的だ


4.「青空という自由」

上を見上げれば
雲1つない
真っ青な空

それを
快晴というらしい

どこまでも続く
青い天井

濁りのない
澄み渡った青に

私の心が
吸い込まれていく

私の心は
どこまで行けるのだろう?

この青は
どこまで続くのだろう?

果てのない空
それは自由の象徴か?

澄み切った空の中
私の心が漂えば
心地良いのだろうか?

暖かなお日様を
より近く肌で感じて
幸せな気持ちになれるか?

それとも
地に足が付かない状態で
行き先も分からず

あっちへ行き
こっちに行って
かえって不安を感じるだろうか?

自由は安心か?
それとも不安か?

果てがない自由は
私ならば不安を感じるだろう

ある程度の縛りがなければ
どこまでも上空へと旅を続ける
風船と同じ

自分に与えられる居場所
役割や作業
そして人々

みんなが私を
空へと吸い込まれないよう
地上へと留めてくれている

空という自由は
希望に満ちあふれていそうで
ついつい気持ちが吸い込まれそうになる

だけれど私は
地上に留まりたい

私を必要としてくれる
人々がいるし
私にはやりたいことが
沢山あるから

澄み渡る青空は
眺めるだけでいい


5.「春嵐」

ごうごう
びゅうびゅう
吹き荒れる
風の音

家が
がたがた
音立てて

今にも
吹き飛んでしまいそう

あぁ
うるさい
落ち着かない

春の生暖かな風が
うなる音

静かに
優しく
吹いてくれれば

心地よく
穏やかに感じられるのに

どうして
そんなに
荒れているの?

春うららというけれど

そのうららかさとは
うって変わって
この有様

自然は時に優しく
恵みをもたらすけれど

時に厳しく
災害と呼ばれるほどの
猛威を振るう

恵みを受ければ
感謝をし

災いとなれば
備えて
被害を最小限にするしかない

自然に対し
立ち向かうと言うよりは
受け止めること

この吹き荒れる雨風は
何をもたらしているか?

脅威か?
恩恵か?

雨風の音に
心をかき乱されて
私は落ち着かない

嵐といえるほどに
強すぎる雨風は
私にはとうてい
受け止めきれない

辛いな

私も過去において
この荒々しい雨風のように
色々な出来事が押し寄せて

受け止めきれなくて
心が折れてしまった

災難だった

と言えば
そうかもしれない

だけれど
不思議だね

今の私という畑は
経験という実りが豊かなんだ

初めは受け止めきれなかった

けれども少しずつ
過去を受け止めて肥やしにして

一歩ずつ前に
進んでいったんだ

そうしたら
いつの間にか
自分という畑がこんなにも
素晴らしいほどに豊作になったんだ

災難と思って
受け止めていた事が

今では
それほど災いではなくなっていて
むしろ恵みと感じられるようになっている

春嵐

私の人生は
まさしくそんな感じだった


6.「友達ではない、それが家族」

友達みたいな親子関係が
世の中でもてはやされているけれど

家族って
何だろう?

近頃そんなことを
考えてしまう

家族も友達も
1つの集団であって

共に支え合い
助け合う関係だ

ということは
共通しているかもしれない

友達は
その定義だけで済むだろう

ただ
家族の場合は
その定義では不十分だ

そのポジティブな関係であればいいが
全ての家族がそうではない

助け合い
支え合うということもなく

お互い憎み合い
傷つけ合う関係や

何も害は与え合わなくても
お互い無関心で
何もしない関係

そういう関係で
繋がっているパターンもある

友達ならば
そういったネガティブな関係に
なりそうになってしまえば
関係を切れる

しかし
家族の関係は
なかなか切ることが出来ない

ネガティブな関係になったとき
自分はどう対処するか?

切ることの出来ない関係を
どう修復するか?

なぜ
修復しなければならないか?

それは
家族だからだ

切ることの出来ない関係で繋がれた
支え合うべき集団
存在だからだ

と、言いたいところだが
どこかで見切りを付けて
距離を置く必要も
あるかもしれない

家族と言っても
自分とは違う存在

繋がりはあっても
他人であるのだから

尽くしすぎには
注意した方が良い

いくら貢献しても
相手から何も返ってこない
思ったような反応がない

それを繰り返すと
こちらの心が疲れてしまう

家族だからこうすべき
という考えに縛られているならば

いっそ
その縄を断ち切って
距離を置いてリセットしてもいい

友達みたいに付き合えれば
楽なのか?

そうかもしれないが
友達みたいに
切手は繋いでを繰り返せる縁ではない

わきあいあいと
ただ仲良くしていればいいのか?

家族は仲が良いのが一番良いが
何の統率もルールもなく
みんなが好き勝手やっているのも
何かが違う

家族のあるべき姿なんて
分からないけれど

ただ言えるのは
切れない縁で繋がれている家族だからこそ
折り合いを大切にしなければならないし

お互いを大切にする方法を
模索していかなければならない

と、私は思うのだが
皆さんはどう思う?


7.「合唱」

大学の合唱部で歌った
思い出の歌を
自分のパートだけ
口ずさむ

記憶の紐をたぐり寄せ
ボロボロになった楽譜を見て
音調を間違えながらも
なんとか歌う

声を出してみれば
川のせせらぎのような
澄んだ声が響いてくる

どうやら
私の歌声は
今も健在のようだ

我ながら
自分の歌声に聞き惚れる

だけれど
一人歌う歌では
合唱にはならない

色んなパートがそろい
ハーモニーを奏でることで
なせる美しさがある

声と声
心と心が
調和することで
生まれる感動が
そこにあった

あの時歌った合唱曲を
一人で歌う

楽しいけれど
何となく寂しい

あの日あの時
仲間と声を響かせた
思い出の端々

歌いながら
つなぎ合わせ

「あの頃は良かった」
なんて
思いそうな自分をいさめる

あの時
歌い合った仲間達は
それぞれの道を進み
自分の人生を切り開いている

思い出に浸り
懐かしむのは良い

けれど
今と比較して
嘆くなんてみっともない

私は今
一人で歌っているけれど

人生という歌を
これから出会う人々と
共に歌うのよ?

それは一種の合唱曲で
自分のパートと
他の人が歌う別のパート
色んな音調がハーモニーを奏でるのよ?

それはとても
わくわくして
面白いことでしょ?

だから
今から期待に胸を膨らませて
待ちわびていなさいな!


8.最後に

今回は筆休めとしてポエムを載せました。

私、趣味で詩を書いていて

ポエム投稿サイトに投稿したりもしています。


2月~3月に書きとどめた詩を載せました。

「合唱」という詩は今日考えたものです。


誰かの心に私の詩が届き

何かしら感動をしていただけたのでしたら

嬉しいです。


お読み下さり

ありがとうございました。


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