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人を好きになるとはどういうことなのか

本日の稽古が終わった。実は稽古中に台本の新しい部分がやってきた。あまりにも私にとってタイムリーな台本で、なんとしてでもこの台本を、お客様に届けたいと奮い立っている。

しかしその前に・・・演出家としてのちゃんとした文章を書かなくてはならないというプレッシャーなんか、遠くの方に放り投げて、個人的な感想をまずしたためる。少しネタバレなので、気になる方は観終わってから読んでほしい。

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さて、今回の話。老女が若い男性に恋をするのである。最近「人を好きになるとはどういうことなのか」とわからなくなっていた自分の胸にストレートに入り込む。子供を授かって、無条件に人を愛するということをニワトリの側から経験させてもらった私が、それを前提として新たに「他人とは何なのか」「自分とは何なのか」「他人を好きになるとは」「自分を好きになるとは」と惑っていたところにこの台本である。

しかも極め付けは、「女性的魅力がすっかりなくなった女性が、まだまだ血気盛んな若かりし男性に恋をする」ということ、そのことを「痛々しく感じる」というような自分の固定概念に気がついて胸が締め付けられるということなのである。

いやいや痛々しいでしょそれは、と感じる人もまた、自分を守っているということ。自分の心の狭さを自覚したくなくて攻撃に出ているという事実。だって世界の広さは心の広さと同じ。それは自分が規定するものだから。

さらにはその関係が、戯曲上ではお金によって担保される。相手が恋愛対象である無しに関わらず、人とはお金でしか繋がれない、と思っていた若い頃の自分を思い出して、これまた胸が締め付けられる(今その呪いから、ようやく解放されつつあるのだけれどもまだまだ口癖のように私の周りにその思念は漂っている)

台本がまるで、自分のためのようにやってくる。私はこのことをわかっていて山岡さんに台本を頼んだわけじゃない。そうじゃないのに、まるで今の私のために用意されたような台本が山岡さんからやってくると、本当に運命を感じてしまう。

台本についてキャストや演出助手の今井さん、衣装の清川さんと話す時間を過ごすうちに、どんどんと偶然や、それぞれのキャストの背景なども露わになったりし、本当に人は人の数だけ違うのであるということをはっきり認識する。人は他人はおろか自分の思いすら、自分の感覚すら、うまく言語化できないものなのだと思いながら、それでもなんとか言語化しようとする皆の姿を、美しいと思う。

どれだけ頑張って言語化し尽くそうとしてもどうしてもできないその部分を、舞台に上げたい。

この舞台は、人を好きになるとはどういうことなのか、悩んでいる人に見てほしいと強く思う。何をしていても、結局はそこに行き着くんじゃないかと思う。恋をしても、就職しても、結婚しても、子供をもうけても、老いても、そしてまた恋をしても。


演出助手の今井さんが稽古場を仮にバミるのを手伝う出演者の武田さんと山本さん


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