太陽、冬を融かす日輪 北風、春をも凍らす清冽

 自分と正反対だと思う人を挙げなさい。そう言われたなら、私は真っ先に南原陽夏を思い浮かべるだろう。
名前にぴったりの明るさや愛嬌、私の持たないまぶしさのすべてを持つ女の子。誰にでも優しくて、活発で、スポーツ万能で、でも勉強は少しだけ苦手で、男勝りで、バッシュとみじかい髪がよく似合って、スカートは少しだけ折っていて、スカーフがいつも左側だけヨレていて、明るい赤毛で、ポテトチップスが好物で、ピーマンがいまだに食べられなくて、子ども舌で、笑うと両頬にえくぼができて、うっすらそばかすがあって、口内炎がよくできて、最近おでこにできたにきびを前髪で隠していて、日に透けるとかすかに緑っぽいお母さん譲りの綺麗な茶色い瞳で、三白眼、いや四白眼ぎみの目つきが初対面の人には怖がられるのを気にしていて、そして、そうして、私のことなんかちっとも気にしていない。気にしてくれない。私の大好きで大嫌いな女の子。
 それが、南原陽夏、はるかちゃんという女の子だ。

 私が初めてはるかちゃんと話したのは、中等部一年の五月十六日だった。初等部からその人気者ぶりを響かせ、鳴り物入りで中等部に入学してきたはるかちゃんは、噂に違わない人柄の良さで、さっそくみんなから慕われていた。四月早々に親衛隊じみたものまで作られていて、王子様のような扱いを受ける彼女をよそに、私はといえば、そんな彼女のすさまじいまでのスターぶりに畏敬の念を抱きながら、教室の隅っこで本を読んでいるだけだった。
 それなりに由緒ある家柄の下育った私という人間は、幼いころから社交会だのなんだのに引っ張り出されていた割にはどうも引っ込み思案で、人と関わることは苦手だ。なんというか、いわゆる箱入り娘で、世間知らずだったのだ。親だって過干渉で、習い事ばかりさせられて、外遊びなんてろくにしたことがない。とくに『友達』についてはとても口うるさかった。おしゃべりするのはみんなうちと親交のある、名のある家の子ばかりで、ドラマティックな友達はいなかった。はるかちゃんの事だって、私が彼女の名前を知るより前に、「南原という名字の子とは関わらないように」と釘を刺されていた。両親が彼女の父親について『成金』と罵るのを聞いたことがある。成金の何がいけないんだろうかと、幼心に思ったのが、もしかしたら、私にとって初めての親への反抗だったかもしれない。
 そういう日陰者の私がどうしてはるかちゃんのような人気者と関わるようになったのかといえば、席替えという学校特有のシステムの恩恵に他ならない。中等部に入学して初めての席替えで、私は彼女の隣を引き当てたのだ。はるかちゃんが私に向けて初めて発した言葉は「あ、ヨシキタさん? だっけ、これからよろしく!」という言葉で、私はその気さくな挨拶に、どもりがちに、あ、うん。とか、コチラコソヨロシクオネガイシマスだとか、そんなことしか返せなかった。いかにもな態度に自分で自分が恥ずかしくて、耳が熱くなったのを覚えている。だから、私達の仲はそれで終わるはずだった。ちょっと隣の席になっただけのクラスメイト。それだけの関係。それがどうしてはるかちゃん、柊子、なんて呼び合えるようになったのか、正直今でもよくわからない。彼女は優しい人だから、友達のいない私に話しかけてあげるよう先生から言われていたのかもしれないし、家柄だけは立派な私に対する興味本位からだったのかもしれない。だけど、彼女がそうしてみたら案外馬が合ったと感じてくれて、こうしてそれなりに仲良しになれたんじゃないかと、希望的観測を私はしてみるのである。


 
「柊子、とうこー、とーこー、おーい、吉北柊子ぉ!」
はるかちゃんのちょっとかすれた、女の子にしては低めの声が私を呼ぶ。真冬の教室、ストーブの前を占拠して部活中のはるかちゃんを待っているうち、どうやら眠ってしまっていたらしい。温まった足がジンジンとして、上半身は少し冷たい。なんだかうれしいような心地がして、ちょっと懐かしい夢を見ていた気がする。まだ眠くて重たい頭をあげたら、はるかちゃんのかわいい顔がすぐそこにあって、内心とてもびっくりした。まだ火照って赤らんでいる頬っぺたを見るに、部活が終わってからさほど時間は経っていないらしい。はるかちゃんの綺麗な赤茶の髪が汗でしんなりとおでこに張り付いていて、またちゃんと汗を拭かないで迎えに来たんだと思って、照れ隠し半分にお小言を言う。
「はるかちゃん、また汗ちゃんと拭かなかったでしょ。いっつも言ってるのにどうしてちゃんと拭かないの。私、はるかちゃんに風邪ひいてほしくないのに」
ごめんごめん。そう笑いながら向かいの椅子を引いて座るはるかちゃんはあきらかに全然反省していなくて、ちょっとむっとする。照れ隠し混じりではあるけど、風邪をひかないでほしいことは確かに本当なのに。心配されることを当然だと思っているのだ。彼女にはそういう愛されてそだった人らしい、くすぐったい甘えの癖がある。少しむかついて、とても愛らしい。はるかちゃんのそういうところが、好きだ。
「そうだ、柊子二年のセンタクなにとる? わたしどうせ全部苦手だし、柊子に合わせようかなって思ってるんだけど」
一緒に授業受けたいじゃん? へへ。そう言いながら歯並びのそろった白い歯をのぞかせて、いたずらっぽく笑う彼女は多分私に勉強を教えてもらおうとしている。運動神経抜群でバスケットボール部でもエースを張っている健康優良児のはるかちゃんは、しかし勉強には弱い。逆に私は、昔から体が弱くてスポーツはとことん苦手だけれど、勉強だけは得意だ。見え透いた魂胆に苦笑しつつ、選択科目の申請用プリントを彼女に渡す。やりぃ、なんて言いながらそそくさと自分の用紙に内容を写しはじめるはるかちゃんに、ちゃんとお父さんお母さんとも相談してね。なんて声をかける。聞いているのかいないのかわからない「あー」という返事が、どうにも愛おしい。
 あぁ、すきだなぁ。
ごめんなさい、はるかちゃん。あなたの事、私はあなたと違う温度で好きなんだ。うっすらそばかすの見えるつんと上向いたあなたのその鼻先も、緑色が透けて見えるオパールみたいなあなたのその瞳も、日光にあたって金色に光るあなたのやわらかい髪の毛も、こんな私を友達だって言ってくれるあなたを、ぜんぶぜんぶぜんぶ。太陽そのものみたいに輝いているあなたのことを、私はこんなにも暗くて冷たい気持ちで愛しているんだわ。

 私がこんな感情を抱いていることを自覚したのは、中等部三年の三月二十九日の事だった。その日はもう三月の終わりだというのに、冬に巻き戻ったみたいに寒くて、朝から雪が降っていた。学校もない雪の日に外に出るのは禁止されていたから、はるかちゃんに雪の写真をメールしてそれから、もう何もすることがなくなってしまった。だからずっと、バルコニーに積もっていくなごり雪をただ眺めているしかなかった。雪遊びなんて、したことあったっけ。そんな、とりとめのないことを考えていた。
 やわらかく、しろく積もった雪の高さが二センチを超えたあたりで、突然窓に何かがぶつかる音がした。三回音がして、それと同時に、ベッドに放り投げていたケータイがけたたましく音を立てた。着信音はとくべつに設定した英語のラヴ・ソングで、はるかちゃんからの電話だった。緩慢だった意識が一気に覚醒して、急いでケータイをとりに走る。ちょっと空気を飲み込んでから緑に光るボタンを、くっと押し込んだ。
「柊子、窓、開けて! まど!」
 まさか。そう思いながらバルコニーまで歩く。毛足の長いじゅうたんがスリッパに絡んで、足が取られそうになる。はやりそうになる心臓を抑えて、窓をがらりと開ける。その瞬間、ぶわっと広がった空気の冷たさが瞳に刺さって、涙がにじんだ。そんなはずはないと思ったのに、ちょっとぼやけた先には確かにはるかちゃんの赤茶の髪が揺れていて、チラチラ舞う雪の中でいやに際立っている。
「柊子―っ! 雪遊びしよう!」
手に握りしめたケータイと冷気を伝わるかすれた声が二重に聞こえて、改めてそこにはるかちゃんがいるんだとわかって、なぜかはわからないけど、泣きたくなった。世界には私とはるかちゃんのふたりしかいないような気がした。鼻を真っ赤にして、マフラーに顔をうずめた彼女は、間違いなくその瞬間だけは、私だけの王子様だった。白い雪に紛れて、私をここじゃないどこかへ連れて行ってくれるんだ、私を塔の外に連れ出してくれるんじゃないかって、そう思った。
 だから、急いでクローゼットからコートを取り出して、部屋着の上からそのまま羽織った。早くしないと悪い魔女お母さんが出てきて、王子様はるかちゃんを追い返してしまうから。自室を出て、廊下を抜けて、階段を下りて、玄関に向かう。スリッパを脱ぎ捨てて裸足のままスニーカーに足を突っ込んだ。いつもだったら絶対しないけど、でも、とにかく急いでいた。あぁ、私、はるかちゃんと生きたいんだな、はるかちゃんのこと、あいしてるんだな。ってそういう、自分の中で見ないふりをしていた大きすぎる感情が、ぜんぶわかってしまったのだ。だから、だからとにかく、とにかく、彼女に早く会って、抱き着いて、内緒話をしようと思った。かけおちしよう。って、言おうと思った。重たい金属製のドアをこじ開けて、雪をさくさく踏んでいく。すぐ門の先にはるかちゃんの顔が見えて、愛おしくなった。それで、口を開こうとしたら、
「柊子、なんでそんな薄着なの。風邪ひいちゃうから、着替えてきなよ」
なんてあなたがけろっと言うから、
「あぁ、うん。そうだね」
って、それしか言えなくなっちゃったんだわ。私。

私があなたを愛するのと、あなたが私を愛するのはイコールじゃないんだって、その時気付いたの。
ばかだなぁ、私。

太陽の北風神聖論

 自分と正反対だと思う人を挙げなさい。そう言われたなら、わたしはいちばん始めに吉北柊子を思い浮かべる。
 名前通りの冷酷さ、清廉さ、とげとげしさ。わたしが持てない高潔さのすべてを持っている人間。誰ともなれ合わなくて、おしとやかで、病弱で、成績優秀で、ローファーと姫カットが似合っていて、スカートはいつでも膝より長くて、襟の先までアイロンの行き届いたセーラー服を着て、艶やかな黒髪で、とらやの羊羹が好きで、体に悪いものなんて一つも食べたことがなくて、味音痴で、歯をむき出して笑う事なんて絶対になくて、血管が透けそうなほど真っ白い陶器みたいな肌で、にきびが一つできたぐらいで病院に行って、怖いぐらいに真っ黒でつるりとした瞳で、黒目がちな眼をふくんだ自分の容姿を美しくないと思っていて、でも本当は美人で、それに気づいていなくて、それで、そうやって、わたしのことなんて、自分を連れ出す舞台装置としか思っていない。しかも、そのことに気付いてすらいない。わたしの最低最悪の親友。
それが、吉北柊子、柊子という人間だ。


 
 わたしが柊子を始めて認識したのは、初等部で四年生の時だった。少し前までは、小学生でもう髪を巻いているような、ませた女の子たちだけの話題だった『コイバナ』が、男女問わない共通の特ダネになって、そんな話ばかりを耳にした時期があった。そのころ四年生の間では、やれ誰々くんがイケメンだの、〇〇さんはぶりっこだのという、精一杯背伸びした人物評が流行っていたのだ。その中で男女両方から「かわいい」と支持を得て、同時に男女両方から「いやな奴」「つめたい」という評価を受けていたのが柊子だった。四年の時、わたしは一組で柊子は五組だったから、あんまり関係はなかったけど。
それでも、初等部で一度だけ、柊子と話したことがある。それは、当時図書委員だった柊子に本の返却手続きをしてもらっただけで、たぶん「おねがいします」「はい」とかそれで終わりの、会話と言っていいかも微妙なものだった。だから次に会話した時、柊子はそれをもちろん覚えていなかったし、わたしも言い出すようなことはしなかった。じゃあなぜわたしがそのやり取りを鮮明に覚えているのかというと、それは、ただひたすらに、その時わたしが彼女の美しさへの『敗北感』を味わったからだった。
 それは、直截的な嫉妬や劣等感とは違って、柊子が自分の美しさに気付いていないこと、そのことへの敗北感だった。柊子は今でもそういうところがあるけれど、その頃の柊子は今よりもずっと無垢だった。人に気遣うということを知らなくて、取り繕うという事をせず、誰に対しても懐かない、野生のけものみたいな高潔さを持っていたのだ。それは柊子のようなうつくしいいきものだけに許される生き方だと思った。自分の美醜にこだわらないのは、その実うつくしいものにしか許されない。ほんとうにうつくしいものは、そういう無頓着さを持ったままでも信者があらわれるけど、醜いものがおのれの醜さに気付かずにいるのは罪だとされてしまうから。四年生のころの柊子は、女神様みたいなにんげんだったのだ。
 だから、中一の席替えで柊子と隣になったときはなんて運が悪いんだろうと思った。くじ引きの神様、あるいは席替えの神様がいるならば、呪ってやろうと思った。わたしが持っていない、持つことを許されないことごとくを彼女は持っていて、人生で初めて明確に敗北したと感じたのが彼女だったのだ。この人間には、一生、いや来世になったって勝てっこないのだと、思い知らされたのが柊子だったのだ。もはや初恋と言ったっていいかもしれないほどに。この数か月、わたしはずっと打ちのめされ続けるんだと思ったら、それだけで死にたくなった。
それなのに柊子は、わたしがかつて彼女に感じた高潔さをなくしてしまっていた。
わたしが初めて(わたしにとっては二度目だけれど)柊子に話しかけた時、彼女はなにかどもって、おねがいします、というような趣旨のことを喋っていた気がする。彼女のその姿に、わたしは愕然とした。昔、彼女はこうではなかった。それは噂から漏れ聞いたものばかりだけれど、吉北柊子という人物は誰に対しても「いや」で「つめたい」奴だったはずだ。少なくともこんな、わたしなんかにおどおどとする人ではなかった。

では何が彼女をこうさせたのか。

誰かが、彼女に彼女は醜い存在であると吹き込んだのが、原因のはずだ。

この喪失は、補填できるものではない。

ならばせめて、吉北柊子はうつくしいのだと、彼女のこころに教えてやらなければならない。

うつくしいものがまるで自分を醜いものだというようにふるまうのは、鼻持ちならないことだから。

 バスケ部の練習を終えて、柊子が待つ教室へと急ぐ。汗を多少残して彼女のところへ向かうのは、あなたはそうして人が急いで向かってまで機嫌を損ねたくない人間なのだと、彼女に教えるため。体育館から校舎へ向かう渡り廊下は隙間風がひどくて、乾いていく汗で体は冷えるけど、致し方ない。もう太陽がほとんど沈んでしまった夕方に、校舎に残っている生徒はすくない。うちの学校は山間に建てられているから、陽が沈むと周囲は本当に真っ暗になってしまう。だからこの寒い季節にわざわざ居残りするもの好きは、わたしと柊子くらいのものだ。静まり返った廊下を小走り気味で駆け抜けていく。一年生の教室は最上階に固められているから、階段を駆け上って柊子の待つ一年二組についたころには、息も絶え絶えだった。
 教室後方のストーブの真ん前。わたしを待っている間の柊子の定位置をのぞいたら、彼女はうつぶせになって眠っていた。規則的にもちあがる柊子の細い肩はいつ見たって完成されていて、文句なしにうつくしい。艶のある黒髪だって、わたしの褪せた赤茶髪とは違って完璧だ。どうしてこんなにもわかりやすいまでの美しさを、彼女は自分で分からないんだろうかと思うけど、でもそれを考えるのは、ぜんぜん、無駄なことだ。だってその理由を、わたしは知っているから。
 あぁ、腹立たしい。
 自らのうつくしさを顧みない柊子のことが。女神柊子を産み落としておきながら、そのうつくしさを微塵も理解していない彼女の両親が。彼女を美しくないと言うすべてが。ごめんね、柊子。あなたの事、わたしはあなたと同じ温度で嫌ってる。あなたのその、すうっと通った鼻の稜線も、黒壇の瞳も、ベルベットみたいな黒髪も、あなたが好いていない全部全部全部。北風のように冷たくて自由なあなたのことを、こんなに明るくてあつい気持ちで、憎んでいるから。

 わたしがこんな感情を抱くことになったのは、中等部三年の三月二十九日の事だった。その日はもう春も近いのに、冬がもう一度やって来たみたいに寒くて、朝から雪が降っていた。比較的寒い地域とはいえ、そんな時期に雪が降るのは珍しいことだったので、よく覚えている。高等部に上がるまでの短い春休みは、学校に行く必要もなければ宿題だってもう終わらせていたので、わたしは暇で仕方なかった。それで、何もせずにぼうっとしていたら、柊子から「ゆき、すごいぬ ばれこにんにも つもつてたよ」なんて誤字だらけのメールが、ブレブレの写真付きで送られてきていた。最近やっと親にケータイを買い与えてもらったらしい柊子は、事あるごとにメールを送ってくるけれど、その大半がひどい誤字まみれで、解読はむずかしい。ばれこにんって、一体何なんだ。そんな風なことを思いつつ返信の内容を考えていたら、あるアイデアが脳裏に浮かんだ。それは、今から柊子のうちへ遊びに行くという事だ。あれで結構夢見がちなところのある柊子は、わたしが何も言わずに彼女の元へ向かったりしたら、さぞ喜ぶだろう。
 そう思ったら、それが素晴らしい計画に思えてきたから、わたしは即座に実行に移すことにした。去年柊子にもらった、嫌味なくらい上等なセーターに着替える。ソファにかけっぱなしにしていたマフラーとダウンを羽織って、防水加工のスニーカーを履き込んだ。三十階から一階まで下りるエレベーターがひどく長い時間に感じられる。柊子の家とわたしの家は離れているから、電車に乗る。実のところ、わたしは柊子の家に上がったことがない。それは、柊子の両親が彼女とわたしが一緒に居ることを嫌がるからだ。家に行っても、いつも「柊子はいない」と断られるのだ。
だから、その日は柊子の部屋の窓に向かって雪玉を投げた。と、う、こって呼ぶつもりで三回。電話を掛けたら、ワンコールでつながる。窓を開けて。そう言っても柊子は無反応で、いぶかしんでいたらバルコニーから彼女が出てきた。しばらくこっちを凝視して、そのあとすぐに部屋に引っ込む。しばらくして、重そうな扉を開けて柊子は出てきた。その恰好が変に薄着だったから声を掛けたら、柊子は眼が覚めたみたいな顔をして、うんとだけ言って笑った。
 それに、無性に腹が立った。その顔を、わたしは見たことがあったから。
わたしに好きだって言ったあの子の顔。
わたしを嫌いだって言ったあいつの顔。
恋をしている、人の顔。
 ふざけないでほしいと思った。だって、柊子はわたしをその高慢さで竜巻みたいに負かしたくせに。一丁前に、人みたいな顔をした。誰も愛さない女神が、柊子だったはずなのに。あなたはわたしを、道具みたいにしてくれればよかったのに。あなたがわたしを、ほんとうには好きじゃないと知っていたから、みじめさを無視できたのに。

その顔は、女神あなたのしていい貌じゃないんだって、そう言えなかったことが、私の敗北の証左だった。

北風と太陽という童話があるけれど、そのおはなしが、小さなころ怖かった。
北風と太陽のどちらも、旅人をなぶって遊んでいるようにしか思えなかったからだ。太陽は暖かく、まるで侵食するように旅人の内側を垣間見ようとし、北風は抗いがたい冷風で強引にその内実を暴こうとする。結果は太陽のかちで、北風はそれに歯噛みするわけだけど、その教訓を母は次のように語った。
「北風は無理矢理に上着を脱がせようとしたから負けたでしょう。人にお願いをするときは、太陽のように優しく、急いだりしないでじっくりとやらなきゃダメなのよ」

わたしは漠然と、それは違うと思った。求めていることが同じなら、わたしは太陽のほうがおそろしいと思ったのだ。

私はそれならば、北風はひどいと思った。結果がいっしょならば、北風のやることはひどすぎると思ったのだ。

無害で優しいような顔をして、あたたかさを与えて、その実自分の欲しいことだけかすめ取っていく。そんな太陽が、おそろしかった。

無理矢理に奪ってそのまま吹いて行ってしまう。結果は同じなのに、余分に傷つける。そういう北風は最低だと思った。

だからわたしは、太陽みたいになるまいと思った。

だから私は、北風にはなりたくないと思った。

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