セザンヌ

4-4.インプロ的身体/M.Merleau-Ponty

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


インプロのコミュニケーションが語られた痕跡を語りなおすコミュニケーションであることをレヴィナスに迂回しながら書いてきました。だけど、インプロのコミュニケーションはそれだけでは汲み尽しえない豊かさをもっています。

レヴィナスの思考はあくまでも「私」と他者の一対一の関係を軸に組み上げられたものでした。けれども、インプロは複数のプレイヤーが複雑に絡みあっていく営みでもあります。

複数のインプロバイザーが協働してひとつのシーンを作っていくプロセスを現象学者モーリス・メルロ=ポンティの業績に従って書いていきたいと思います。

メルロ=ポンティはフッサール現象学の後継者として、ひとつの世界が人それぞれ似たように見えること、そして、人それぞれに多様に見える世界の有り方が関わりあってひとつの世界を作りだしていくことを自身のテーマにした人です。ひとりの人には「見えるもの」もあれば「見えないもの」もある。「見えるもの」と「見えないもの」が人によって違うから、そこに運動が始まる。そして、その運動の結果として世界が出来ていく。


人によって「見えるもの」と「見えないもの」の差異があるのは、人が身体に根づく存在だからです。人それぞれに固有の身体をそなえている。だから、人それぞれに知覚も行動も欲望も異なるのです。その差異は身体に深く根差した癖であって、それをメルロ=ポンティは「スタイル」と呼びます。

ぼくはメルロ=ポンティのスタイルこそ、キース・ジョンストンのグッドネイチャーを生みだすものと考えています。


以下18900字です。


4-4. インプロ的身体/M.Merleau-Ponty


4-4. インプロの力~メルロ=ポンティの身体

インプロのコミュニケーションが語られた痕跡を語りなおすコミュニケーションであることをレヴィナスに迂回しながら書いてきた。だが、インプロのコミュニケーションはそれだけでは汲み尽しえない豊かさをもっている。

 レヴィナスの思考はあくまでも「私」と他者の一対一の関係を軸に組み上げられている。けれども、インプロは複数のプレイヤーが複雑に絡みあっていく営みでもある。インプロのシーンでは同じオファーを受けるにしても皆それぞれに受け取り方がまるで異なるという経験も頻繁にすることになる。むしろ、それを面白く楽しんでしまうことがインプロの醍醐味のひとつでもある。この面白みを最大限に生かしたゲームに古典中の古典「サンキューゲーム」がある。

 サンキューゲームは、はじめにひとりのプレイヤーが何かポーズを取って静止し、次にもうひとりのプレイヤーがはじめのポーズに何か別の体の形で関わって、二人でひとつの形を完成させるというゲームである。こうして、ひとつの形が完成したらはじめにいたプレイヤーが「サンキュー」と言って抜けて、残された二人目のプレイヤーの形に三人目のプレイヤーが新たに関わってまた別の形を作るという動作を繰り返すゲームである。

 たとえば、両腕を体側で水平に広げた形で直立しているポーズに関わってみたい。いわゆる十字架の形である。だから、その前に跪いてみれば祈る人になるし、十字架にかけられた罪人の形で関わることもできる。あるいは背後から腰に手を回してみれば映画「タイタニック」の有名なシーンへと転じ、相手を木に見立てればその腕を枝にしてぶらさがることもできる。すこし変化球なところでは、その足元に寝転がって漢字の「土」をつくってみたり、野球の審判の「セーフ」のアクションとして見たりもできるだろう。人によって見え方もそこから生まれてくるアイディアも千差万別だ。


サンキューゲームひとつで どうしてここまで多様なアイディアが生まれるのかといえば、単純に人それぞれに見てきたものが違うからだ。「タイタニック」を見たことのない人にあのシーンを思い浮かべることはできないし、野球を知らなければ「セーフ」の意味も分からない。反対によく知っていればすぐに発想することができる。

 畢竟、これは記憶の差異である。レヴィナスのくだりでは他者は絶対に理解できない異質さとして書いてきたけれど、インプロの場面では、その異質さはそれぞれの経験してきた記憶の差異に根ざしているものとして考えられる。

 両腕を広げた姿を映画の名シーンとして見てしまうるという知覚、たしかにそれは意識の働きである。しかし、思わず名シーンに見えてしまうこと、不意に名シーンを思い浮かべてしまうことは意識の領野の前段階であって、無意識的で非意志的な出来事だ。

 アイディアの発想は意識の領域ではなく、むしろ無意識の領域、すなわち身体の領域から生じてくる。まず身体が反射的に作用してから、その動きにつられて意識がそちらを向くのであって逆ではない。要するに、意識を方向づけるのは無意識なのだ。なにより記憶の座は身体にある。記憶の差異が知覚の差異をもたらすのだ。



4-4-1. 身体のスタイル

身体を取り扱うということで、やっとモーリス・メルロ=ポンティに触れることができる。メルロ=ポンティはフランスの現象学者だ。現象学の始祖フッサールは1938年に没するのだが、そのとき膨大な手稿が残された。しかし、フッサールはユダヤ人だったので、ナチスが遺稿を没収してしまうことを危惧した人たちが遺稿を丸ごと移してしまうことを考えた。そうしてベルギーのルーヴァンに作られたのが文庫「フッサリアーナ」である。

 若きメルロ=ポンティはフッサリアーナを訪れて、フッサール晩年の思想に直に触れる機会を得た。当時のフランスでは現象学を実存主義に結びつけたジャン=ポール・サルトルの影響が絶大で現象学と言えばサルトルの哲学だった。それに公刊されていたフッサールの著作は『イデーン』第1巻などの中期の業績が主で、後期フッサールの業績には正当な評価が与えられてはいなかった。その流れに抗して、メルロ=ポンティは後期フッサールの後継者として自身の哲学を組み立てていく。後期フッサールが辿り着いたテーマ、とくに身体への問いをメルロ=ポンティは継承して独自に深化させていくことになる。

 メルロ=ポンティは世界とのインターフェイスとして身体を考えていく。ここにフッサールの身体の概念とハイデガーの世界の概念が再接合されることになる。フッサールとハイデガーに悲しくも分離してしまった現象学をメルロ=ポンティは再度統合したのでもある。


   ***


メルロ=ポンティは知覚の「地」「図」の差異について論じている。すなわち、ぼくと君が生きるこの世界は一つの世界だけれど、ぼくが見る世界と君が見る世界には差異がある。ぼくの世界と君の世界は別々の世界である。これが現象学の前提なのだが、この場合、ぼくと君で分けあう世界が「地」であり、ぼくと君が見る別々の世界が「図」に当たる。世界はぼくと君に共有されるひとつの生地だけど、ぼくと君とではその生地の断ち切り方が違うのだ。サンキューゲームにおいてみれば、はじめのひとりが作った体の形が「地」に当たり、それを見た人に思い浮かんだ景色が「図」に当たる。

 地と図の議論はドゥルーズの差異と反復の議論によく似ている。実際『差異と反復』においてドゥルーズも地と図について言及している。ドゥルーズにとっては、地は無限の差異に溢れた潜在性の場であって、そこからひとつの差異が現勢化して図になるのである。メルロ=ポンティに引きつけて理解してみれば、世界は一つだが、ぼくや君に知覚されるとき、世界は知覚の領域に反復して立ち現われ、その度ごとにそれぞれ別様な差異ある姿を与えていくということだろう。ここに生じた差異をイエス・アンドして最大限に活かしてしまうのがインプロという遊戯の本質だ。


メルロ=ポンティによれば、知覚に差異をもたらすものこそ身体に蓄積された記憶である。知覚はあくまで現在の知覚であるけれど、現在という中空に浮いて留まったままのものではない。たとえば、設備機械の誤作動で大きなビル災害が発生したというニュースを聞いたとき、消防隊員として働いていた人なら救助体制の取り方が気にかかるだろうし、証券会社で働いていた人なら関連企業の株価の上げ下げに関わるかが気になるだろう。

 このように現在の知覚には必ず過去の記憶が作用している。同じニュースの地に対して図を切り取る意識の働きはその人の経験してきた記憶に根ざしているのだ。何を見てもつい自身の経験に紐づけて、その枠組みから見てしまう。それは認知の癖であり、一言でいえば「習慣」である。


差異を抜き取ってしまうものとして「習慣」にドゥルーズは高い評価を与えてはいなかった。それに対してメルロ=ポンティは「習慣」に積極的な価値を認めていく。むしろ習慣こそが差異を生みだしていくものだと考えている。そして、この習慣がその人がその人であることの証となるものであるとも。

 筆跡鑑定という技術があるように人には書く字に癖がある。紙にペンで書いても、曇りガラスに指で書いても、筆と墨で書いても、どこかにその人らしい癖が見えてしまう。コントロールしようとしてもなかなか直せるものでもなく、無理して直したとしてもふと気を許せば元に戻ってしまう。それほどに体に染みついた癖である。その字を見れば誰が書いたか分かっててしまうほど、その人のその人らしさを証してしまうものだ。それとともに、その人が他の誰でもないその人であることを指し示す差異化の原理でもある。癖のように体に染みついて身体化した習慣をメルロ=ポンティは「スタイル」と呼んだ。

 同じ一つの文字でもぼくが書いた文字ときみの書いた文字に筆跡の癖の差異があることからも分かるように、ひとつの「地」から無数の「図」が生まれてくる運動にもスタイルは作用している。小説家や詩人は同じ日本語を使うにしてもそれぞれのスタイルに彩られた独特の言葉遣いをするものだし、あるいは東北生まれの人と関西生まれの人とでは標準語で話してもイントネーションやアクセントに違いを聞き取ることができる。

 このように一つの同じものから反復の度に差異が生まれてくる。ここで差異は同じ一つの基準から逸れていく偏差に等しい。だから、差異はまったくのゼロから生みだされるものではなく、既にあるものを組み替え、書き直し、綾をつけていくことで生成するのだ。要するに、スタイルは基準からずれていく偏差を反復するのである。



グッドスタイル

スタイルはその持ち主にとって本質的な要素である。芸術表現にもなればそれが顕著になる。フランシス・ベーコンのタッチやパウル・クレーの色彩は遠目から見てもそれとすぐ分かるし、同じ交響曲でも振る指揮者によってまるで違った曲に聞こえる。好きなシンガーの歌いまわしやギタリストの響かせるフレーズを聞きたくてライブ会場に足を運ぶ人もいるだろう。そのすべてがスタイルだ。

 表現者にとってはスタイルこそが他の何よりもその人の存在を雄弁に語るものとなる。むしろスタイルを見せることこそが表現であると言っても過言ではないほどだ。その人だけに許された唯一の様式、それがスタイルである。


興味深いことに、スタイルからはそのスタイルの持ち主がどのような過去を経てきたかも垣間見ることができる。小説であれ、ポップミュージックであれ、漫画であれ、その作者が過去にどんな作品が好きだったかを、その作風から推測することがぼくたちはできるし、ある作家の作品が好きだという友人に「だったら、この作家の作品も気に入ると思うよ」と薦めることも容易にできる。畢竟、スタイルはその人だけのものではない。その人が過去に関わってきた他者たちから受け継いだ遺産でもある。

 しかも、ただ遺産を受け継ぐだけがスタイルではない。受け継いだ遺産の模倣で終わるスタイルは存在しない。受け継いだものに差異を生みだして表現するものでもある。もちろん、その差異もゼロから生みだされるものではない。そこにも過去の記憶が作用している。「私」の過去に潜むAという記憶から得た遺産とBという記憶から得た遺産、Cという記憶から得た遺産、それぞれが関わりあって新しい「私」のスタイルとして生みだされてくる。

 「私」が過去に経験してきた無数の記憶たちが相互に関わって結びついくことで「私」唯一のスタイルが生まれてくる。「私」の身体という場において過去に刻まれてきた記憶が行き交い、出会い、結びついて別の形へと生まれ変わる。畢竟「私」は過去の記憶たちの交差点なのだ。


インプロはプレイヤー個々のスタイルをありありと見せてくれる。初めて見るプレイヤーのインプロであっても、ものの10分ほども見ていればそのプレイヤーの人となりが分かってしまうものだ。用意も準備もできないインプロだから、プレイヤーは無防備にも徒手空拳でシーンに臨むほかはない。だから、裸のままのスタイルがはじめから露見してしまうのだ。

 普段なら恥ずかしいと人に見せずにいる姿であってもインプロのシーンのなかでも有りのままに見えてしまう。でも、観客はその姿が見たいのだ。「そのリアクションは彼でないとできない」「彼女のアイディアはとてもほかの人には出てこない」と思えば、すぐにお気に入りのプレイヤーのファンになってしまう。インプロほど他者のスタイルを愛おしく見せてくれるものもない。

 スタイルはその人の生きてきた来し方に根付いている。深く人間の生に根ざしたものである。だから、スタイルの露見はその人自身の本質的な何かの現れにほかならない。プレイヤーの生のフウィーヤを見せるものがインプロならば、フウィーヤとはその人のスタイル以外のものではありえないだろう。


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インプロを演じている当の本人は実は自身のスタイルに無自覚なことが少なくない。なぜならば、大概の場合、日常的な意識は「Be original」に囚われた社会的自己の仮面をかぶっているからだ。自身の姿を反省して自分のあるべき姿と決めつけたとき、逆説的にスタイルは消え失せてしまう。

 だから、意識もせず、意図もせず、不意打ちのように刺激されたときにこそ、スタイルは独自の輝きを見せる。隠してきた本来的なスタイルに根ざす反応を思わずしてしまう。

 スタイルは人の本来的な姿を見せるものとして、確かにアイデンティティ的なものではある。しかし、自己認識の伴わないアイデンティティであって、それゆえにアイデンティティならざるアイデンティティとでも言うべきものである。

 ジョンストンが言うグッドネイチャーはメルロ=ポンティのスタイルに等しいとぼくは考えている。グッドネイチャーも「自分のグッドネイチャーはこれだ」と認識できるものではないし、見せようと思ってみせられるものでもない。ふと湧き出て漏れ出てしまうものである。その人らしさを見せてくれるものだけど、しかし、いつも同じ反応をする習慣とも違う。いつもの習慣を超えて未知の世界に放りこまれてもそこで輝きだすのがグッドネイチャーだ。


グッドネイチャーも習慣と同じように身体に宿る記憶に根ざしている。身体に蓄えられた記憶を消すことはできないし、未知の瞬間だからこそ身体に眠っていた記憶が活性化されて動きだすのである。その瞬間こそスタイルとしてのグッドネイチャーが出現するモーメントだ。

 思うに、優れた芸術家は無意識的に湧いてくるスタイルと意識的な創作行為の間で対話のできる人なのであろう。幾度も推敲を繰り返して長い時間をかけてひとつの作品を作る作家もいる。反対にキース・ジョンストンが脚本芝居の脚本を書く場合は、仕事の合間やカフェでの休憩時間といった細切れの隙間時間にササッと書いてしまうそうだ。ジョンストンにとっては部屋でカンヅメになって頭をうならせて作品を作るのと限られた時間で思いついたものをその場で書いていくのとクオリティに差がないらしい。むしろ考えずに書く方がよいものができるそうだ。それぞれにそれぞれのスタイルがあるのである。



4-4-2. 見えるものと見えないもの

メルロ=ポンティ由来の身体の現象学とインプロはとても相性が良い。インプロで見せるインプロバイザーの相互作用、それからインプロバイザーが協働してつくっていくシーン、場の力、それぞれを語るのにもメルロ=ポンティの著作はたくさんの示唆を与えてくれる。

 インプロのシーンはプレイヤーどうしの相互行為からできていく。しかし、人だけの行為として完結するものでもない。複数のプレイヤーが相互に関わりあうなかでプレイヤーたちがともに存在する時間と空間、すなわち「場」が生まれてくる。優れたインプロバイザーは、他者との関わりに長けた力を発揮するのはもちろんのこと、場に対しても鋭敏な感覚をもっている。

 インプロは無から始まる。シーンの進展とともに無は有へと次第に転じて世界が生まれてくる。そして、シーンが終わるころには、眩いばかりに多様な世界が浮かび上がっている。ときに平凡な日常のリビングであり、ときに江戸時代の長屋の風景であり、ときに殺人事件の現場であり、ときに宇宙ステーションであるような、様々な世界がそこに有る。これらの世界はすべてプレイヤーの相互行為から生まれてきたものである。しかし、もはや世界それ自体が命を宿しているかのように独自の存在感をもちはじめる。


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スケッチは無のステージにプレイヤーがひとりひとつずつ場の特性を書き込んでいく技法である。スケッチを重ねていけば無だったステージにどんな世界も生ぜしめることができる。「山」で始まるスケッチの場合、

A「ここに山があります」

B「山は森で覆われています」

C「緑深い森です」

D「一本だけ枯れ木があります」

A「枯れ木にはリスがいます」

B「人の歩いた跡が細くつづいています」

C「霧がかってすこし湿った感じがします」

D「耳を澄ますと動物の声が聞こえてきます」

スケッチの始めにあったものはただの「山」だ。どこにでもあってどこにもない唯の「山」である。その「山」にひとつずつ言葉を加えていくだけで「いまここ」に存在しない唯一無二の「山」へと変化していった。はじめマーヒーヤ的な「山」だったものがフウィーヤとしての「山」へと転じていったのである。

 「山」という言葉から受けとるインスピレーションはプレイヤーそれぞれによって大きく異なる。熱帯ジャングルの山を想像するかもしれないし、極北の氷の山かもしれない。人の暮らす山もあれば、宇宙ロケットの打ち上げ基地がある山かもしれない。

 見える世界はそれぞれにバラバラでもインプロのシーンを作るために必要なことはイエス・アンド唯ひとつだ。緑深い山というスケッチがあればその隣に吹雪荒れる雪山をオファーすることは難しい。

 さらにフォーカスの意識も重要だ。一本だけの枯れ木というスケッチはとてもミステリアスな雰囲気を醸しだしている。だから、リスがいることをそこに重ねてスケッチしてみた。すると、このリスがこれから始まる物語に深く関わる存在になりそうな気配がしてくる。たったひとつだけのスケッチであっても、この世界のいったいどこに注目して関わればいいのかがぐッと彫りこまれていくものだ。


メルロ=ポンティは「見る」とは対象の内側から見ることであり「触れる」とは対象の内側から触れることであると語る。すなわち「山」を「山」という言葉としてだけ受け取ってその外面を遠くから眺めるのではなく、その「山」の世界の内へと入りこみ、巻き込まれていくことが見ることであり触れることにほかならない。

 インプロのオファーはそこから生まれてくるものである必要がある。オファーとは「私」にはそのように見える、聞こえる、感じられるという出来事をそのまま伝えることなのだ。そこには「私」にはそう見えるけれど他の誰かにはそうは見えないということが暗黙の前提として存在している。


はじめ無味空白な言葉でしかなかった「山」がイエス・アンドを通じて唯一無二の姿として開かれていくプロセスがスケッチでは見て取れる。このように協働してインプロバイザーはひとつの世界を生みだしていく。

 しかし、ひとつの世界を分かちあっているとはいえ同じ世界を見ているわけではない。それぞれのプレイヤーはそれぞれのスタイルで世界を見ている。だから「自分にはこう見えている」と伝えることが重要なのだ。「私にはこう見える」と対象を見なすオファーを「エンダウメント」と言う。

 つまるところ、スケッチはエンダウメントを繰り返していく技法である。エンダウメントが反復することで、場に存在するものが彫り込まれていく。そうして場は唯一無二の姿として存在の明るみへと開かれていくのである。エンダウメントは「寄付・寄贈」の意味通り存在への「贈り物」(ギフト)なのだ。


エンダウメントの対象は場所や物だけとは限らない。人に対しても効果を発揮する。「いつもご機嫌ですね」と共演者に声をかければそのような人として相手をエンダウメントしたことになる。したがって、エンダウメントされたプレイヤーは「ご機嫌な人」というアイディアをイエス・アンドして自身の演じるキャラクターを色づけていく。

 「ご機嫌な人」というシンプルなオファーでもエンダウメントした相手の役が「医師」「母」「老人」では宿る意味もまるで異なる。相手からもらったエンダウメントは演じる役をユニークな役に転じるための大きなチャンスとして使うことができるのだ。

 インプロは演劇、紛うことなき身体的表現である。だから、エンダウメントは非言語的な仕方ですることも可能だ。医師を演じているプレイヤーに対して、看護師役のプレイヤーがニコニコと話しかければ親しみやすい医師として、おずおずとしり込みながら話しかければ怖い医師として、エンダウメントしたことになる。

 優れたインプロバイザーは相手が自分をどのように見ているかを瞬時かつ敏感に察知できる。そして、相手のオファーに適切なイエス・アンドを返すこともできる。つまるところ、相手のエンダウメントをイエス・アンドするということは、瞬時に相手との関係性を構築するということに等しいのである。


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晩年のメルロ=ポンティは「見えるもの」と「見えないもの」の関係を思索の中心に据えるようになる。「見えるもの」には必ず「見えないもの」が結びついていて、その相克が人間と世界の本質的な関係であるという思考だ。

 自転車に乗って街を走っているとき視界は次々と変化していく。さっき目に入っていた看板は瞬く間に背後に流れていき、角を曲がれば角の陰で見えなかったものが視界に入ってくる。いま視界に「見えるもの」は自分が動くことで「見えないもの」になっていく。そして「見えないもの」が「見えるもの」になっていく。

 前方から風が吹いてくれば頭に感じる風のそよぎが感じられるものになり、上り坂をあがろうと足に力を入れれば力の感覚が感じられるものになる。そのときにはもはや風のそよぎは忘れられて感じられないものになっているかもしれない。そして、前方から自動車が迫ってくる。このとき車の存在は見えるもので、右に曲がるか左に曲がるか分からない運転手の心は見えないものである。


「見えるもの」と「見えないもの」の関係は人間存在の有限性に根ざしている。世界のただなかに巻き込まれた人間には世界のすべてを見ることはできない。どこかに見えないものを抱えこんでしまう宿命を背負っている。しかし、それは悲しいことではない。というのも、人間が知覚的な刺激を意味のある情報をして受け取るには「見えないもの」としての差異が必要だからだ。

 部屋の温度が1度あがればその上がった差分を感じ取って意味として理解する。変化がないところに意味は生じえない。見えたままのものや見え切ってしまったものには差異は生まれえず、したがって意味もありえない。それは死物に等しいのである。「見えないもの」があるからこそ「見えるもの」がすべてではないという了解があり、「見えないもの」の生じさせる差異と変化を意味として受け取ることができる。メルロ=ポンティによれば、つまるところ、意味とは見えないものにほかならない。

 他者の言うことが「私」にとって意味に満ちているように思えるのは、他者の抱えるさまざまな「空所」(見えないもの)が決して「私」の空所と一致することがないからだ。メルロ=ポンティはそう述べている。空所の位置が人によって違うから「私」と他者が一致して静止してしまうことはなく、ズレや不一致が生まれてしまうからつねに運動をして、その度に差異=意味が生まれてくる。畢竟「見えるもの」と「見えないもの」は対話と相互行為の原理である。



ひとつの身体

エンダウメントの贈り物は、場への贈り物であるとともに、他のプレイヤーへの贈り物でもある。けれど、一風変わった贈り物でもある。通常の贈り物ならば贈る側が贈りたいものを決めて贈るものだ。贈られた側は受け取るだけである。

 だが、スケッチという贈り物は贈られた側には何が贈られてきたのかいまいちわからない奇妙な贈り物である。「緑深い森です」は確かに緑深い森を意味してはいる。しかし、どのように緑深いのかまでは分からない。エンダウメントをしたプレイヤーには確かに見えていた世界があったのだろうけれど、贈られた側には言葉しか残されていないのだ。誰かが見ていた記憶の痕跡があるだけである。

 結局のところ、その「緑深さ」が贈った側の見たものと贈られた側の見ようとするものの間に埋めることのできない差異を生んでしまう。それゆえに贈られた側は受け取った贈り物の空所に自分で意味を充たさなければならなくなる。すなわち、自分に見えたままにイエス・アンドしてそれが何かを決める必要がでてくる。決められた意味が新たなスケッチとして贈ってきた相手に贈りかえされる。だけど、そのときには初めの贈り物とはまったく別の贈り物として帰っていくことになる。


インプロバイザーの相互行為は「見えるもの」と「見えないもの」の往還である。言葉を換えれば、言葉と経験の往還である。インプロバイザーも人なので「ここに山があるのだな」「元気そうな人を演じているな」など、他者のオファーをまず言語的な意味で理解する。

 言語的な意味とは普遍的に共有できる意味論的な意味である。誰にとっても「山」は「山」であり、「元気」は「元気」である。でも、その「山」や「元気」の受け取り方や関わり方は人によってバラバラだ。受け取る人の経験の違いによって標準的な意味からのズレ、偏差が生じてくる。それから経験した差異をオファーとして再度相手に伝えかえす。そのとき使う言葉は再び普遍的な言語である。ここでも、どのように言葉にするかに個人のスタイルが関わるから、伝え方も千差万別である。さらに、伝えた言葉を相手がどのように受け取るかは未知の領域だ。オファーのやりとりには必ず差異が生まれるのである。

 エンダウメントに限らずインプロのオファーはすべて不思議な贈与だ。不思議な贈与の不思議な力は一つの世界がプレイヤーそれぞれに別様に見えることに宿る。そして、この差異が世界を唯一無二へと変えていく。

 普遍的な言葉と個別的な経験の間をスタイルによる偏差をつけながら往復すること、つまるところ、これがインプロバイザーのイエス・アンドである。経験はオファーとなってインプロの場に刻みこまれていく。ひとつひとつの経験が場の記憶として蓄積されていき、場を豊かにしていく。空白だった場に大道具のある芝居にも劣らぬほどのリアリティある世界が立ち上がっているとしたら、それこそがプレイヤーがその世界の内側で確かに生きていた証左なのだ。


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人々が世界を一つの世界として見ることを可能にしている「地平」、フッサール以来の現象学の伝統では、それを「間主観性」と呼ぶ。ひとつの世界と多様な視点が矛盾することなく両立できるのは、この間主観性が個々の視点を支える土台を構成しているからにほかならない。インプロのシーンにはプレイヤーそれぞれに異なる姿で見えるのに、すべてのプレイヤーに影響を与える一つの世界、一つの場が存在している。観客はプレイヤーの演技とともに、この場自体の動きも見ているわけである。

 メルロ=ポンティにしてみれば間主観性と言葉は等価だ。「山」という言葉は誰にとっても「山」を意味するように、言葉があるから人と人は共通の意味を理解することができる。だから、言葉は一般的で抽象的なものであり、それゆえに匿名のものである。しかし、スケッチの場面でも見たように「山」という言葉が引きだすイメージは人によってまったく異なる。世界が見る人の目によって無限の差異をもって見られるように一つの言葉が引き出すイメージは多様で豊かだ。

 言葉は人の記憶と密接に結びつく。自由、平和、寛容さなど言葉が抽象的であればあるほど、その言葉が引きだしてくるイメージは多種多様なものとなる。自由という言葉から連想するイメージは人によって、ひとり暮らしかもしれないし、子ども時代かもしれないし、独身自体かもしれない。このとき言葉は匿名性を脱ぎ捨ててごく個人的な意味を宿している。だから、どれほど普遍的な意味を有する言葉であっても個別具体的な文脈を離れて作用することはできない。

 もっとも抽象的な道具である言葉でさえも個々の話者の記憶によって染められ、歪められ、乱されてしまう。畢竟、純粋な意味などありえない。記憶によって差異を生みだす力をスタイルと呼んできたけれど、スタイルの根ざす場はまさしく身体にある。だから、身体は言葉の普遍性や抽象性を侵食して個別的で普遍的なものへと化してしまうのである。言語の意味論的な意味を歪める身体は語用論的な文脈にほかならない。


新進二元論はデカルト以来のテーマであるが、そもそも人間の精神と身体は分けてしまえるものではない。赤という色を見たととき、それをどのような色として感じるかといえば「赤」「紅」「朱色」「臙脂」「深紅」「スカーレット」「カーマイン」「ワインレッド」と多様な名前があって、この名前という言葉の力と無縁に知覚することはできない。身体的な知覚は精神的な言葉の概念なしに知覚することは不可能だ。

 だから、言葉を担う言語によって感覚もまた相違することも道理である。日本語を話す人が見る色と英語を話す人が見る色では色が違う。言葉にはその言葉を使う人たちの歴史や文化が色濃く息づいているわけだ。

 同様に感情であっても言葉や国が違えばまるで違った感情の表現をする様子をテレビの映像などから見たことがあるはずだ。人の死に臨んで泣く分化もあれば笑う文化もあるように、感情という身体に生々しく根差した事象であっても言葉と文化の差異に影響されずにはいられない。

 間主観性は単純に視覚だけ、あるいは言語だけに限られたものではない。人の生々しい身体や人の息づく歴史や文化も含めた総体である。それゆえにメルロ=ポンティは間主観性を「間身体性」と呼び変える。だから、間身体性としての間主観性は固定した不変の地平ではありえない。地平は個々の人間の知覚や認識を拘束しはするが、しかし、言葉が無数の文脈で意味を転じるように、世界が無数の視点で多様な姿で見られるように、身体で世界の像は屈折する。人間の身体には地平に変化を起こす力が潜んでいる。


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身体は世界に多様な偏差=差異を与える。無意識的な身体の領域に保存された記憶は抽象的な言葉にも個別的で具体的なイメージを絡めさせていく。すなわち、一般的で匿名な言葉に対しても偏差をつけて特殊で個人的な命を宿すこともできるのだ。身体という制限は世界のすべてを「見えるもの」とすることを妨げる。しかし、同時に「見えないもの」を無数に秘めた多様な世界を生みだしていく。

 メルロ=ポンティはハイデガー由来の「ひと」という概念にも別の側面から光を当てていく。ハイデガーにおいて「ひと」は現存在の非本来的な有り方としてさほど肯定的な意味を与えられてはいなかった。それに対して、メルロ=ポンティは「私」と他者がそれぞれ別の存在であっても、互いに自身の経験を伝えあうことができるのも共に「ひと」として存在しているからだと考える。匿名性として共有された「ひと」であるからこそ人間は自身の感覚を他者と共有することができるのである。人間の知覚を可能にする共有の前提としてメルロ=ポンティは「ひと」に積極的な価値を与えた。


メルロ=ポンティはレヴィナスとは違った側面で他者との関係を描写している。自他の絶対的な断絶を解くレヴィナスに対して、自他の差異を相互影響のスイッチと見るメルロ=ポンティである。そこからメルロ=ポンティは「私」と他者は同じ「ひとつの身体」であると定式化する。すなわち「ひと」はひとつの大きな身体である。

 「ひとつの身体」とは間身体性を一歩推し進めた言葉である。間身体性は地平として世界に等しい。ただし、ここで世界と身体が重なることで、世界にも身体と同様にスタイルとしての文脈があることが示される。同じ日本語でも地域ごとに方言があるように業界や職種などの違いで使われる言葉も変わるように、ぼくたちの身体がそれぞれの記憶をもつのと同じで、それぞれの地平もスタイルを保有している。ひとつの大きな身体として地平もまたスタイルに限定されるのだ。そして、地平のスタイルを生みだすものはその地平に根づく伝統であり歴史にほかならない。

 地平に根づく伝統や歴史はその領域に継承される知恵や価値観の母体でもある。地平は汲み尽くすことのできないほど多くの知恵を暗黙裡に住まわせていて、地平の上に立つ人は地平の遺産をわが身に引き継ぎながら、暗黙に秘せられた知恵を自身の仕方で明るみへともたらしているわけだ。

 日本人であり、昭和55年に生まれ、埼玉県旧大宮市で育ちという様々な地平にぼくは立っている。脚本がないインプロの世界には何を準備することも用意することもできず、もちこめるのはこの身体ひとつだけである。だからこそ、これら地平からこの身体に借り受けたものしかぼくに活用できるものはない。畢竟、インプロバイザーとしてぼくはぼくと共に時間や場所を生きてきた他の多くの人たちの記憶を背負ってインプロを演じるのである。

 そして、ぼくと共演する他のプレイヤーもまたそれぞれに地平の記憶を身体に背負ってシーンへと関わってくる。ぼくの記憶と彼らの記憶が共にするインプロの場で関わりあい、絡みあい、化学変化を起こしていく。そうして、「いまここ」に生まれたシーンの場が新たなひとつの身体として顕わにされていくのである。


「Be original」がインプロバイザーの罠である理由も、要はこの人間の身体性にある。人はひとり宙に浮いていることはできない。どこか地の上に立たなければならない。その地には共に生きる無数の人や物が既に存在している。それらの残した地の記憶の上に人は立つのである。

 記憶は痕跡だ。自分の外にある他の誰かや何かが残していった痕跡である。すなわち、他者から与えられた贈与である。この贈与が「私」の素(もと)となり「私」を形づくる。だから、完全に独立して自身の内からのみ出てきた「original」などどこにもない。すべては人から借り受けたものの反復なのだ。誰かの記憶の反復としてのみ「私」はありえる。

 だから、アイディアは凡庸でも構わないとジョンストンは考える。どうせアイディアにオリジナリティは宿らない。どこかの誰かからの借り物でしかないのだ。そうではなくて凡庸なアイディアでもそれを身に引き受けたときに生まれる差異がその人をオリジナルにするのである。

 インプロは演劇だからプレイヤーは「医師」「教師」「料理人」など様々な役を演じることになる。「医師」「教師」「料理人」といった役は演ずべき仮面である。しかし、その仮面は無色透明なものではなく既に色がついている。日本で演じられる役であれば日本語や日本の文化に根づいてきた「医師」のイメージや「教師」のイメージがあって、プレイヤーは過去に先行するイメージに導かれて演じることになる。

 そのうえでプレイヤー個人の記憶がスタイルとして意味を重ね塗りする。役の仮面を身に着けたとき、その人自身の身体に根づいた記憶がスタイルとしてさらにその仮面にユニークな色を与えていく。こうして演じられる仮面が生じる差異は演じる人によって、演じる場によってすべて異なるものへと変わる。ジョンストンが肯定する個性とは、グッドネイチャーとはそういうものだ。


   ***


ジル・ドゥルーズは「裸の反復」「着衣の反復」を分けている。西洋の哲学的伝統において真理とは長らく裸であることと考えられてきた。すべての着衣を剥がされて、それ自身でむき出しになっている姿こそ真理であると。いかなる文脈、いかなる世界においても永遠に不変であるものが真理であると。しかし、裸の真理は差異を生むことができないとして、ドゥルーズはこれを退ける。

 着衣の反復とは、要するに、反復ごとに着るものや仮面が異なる反復である。反復の瞬間、何か纏ったものとして差異は生まれてくる。何を身に着けるかは、そのときその場にあったものに委ねられる。だから、偶然そこにあったものに影響されて、その姿は変化してしまうのだ。だから、着衣の反復だけが差異を生む反復だとドゥルーズは語るのである。

 ぼくの身体、ぼくの潜在性、そして、ぼくの「理念」は無限の差異を潜ませている。現れとしてのぼくは瞬間ごとに周囲の環境と結びついて多様に現勢化しくけれど、ぼくはぼくである。なぜなら、どのぼくであってもぼくの経験してきた記憶に紐づいたぼくだからだ。


ドゥルーズもまたメルロ=ポンティと近い視点から「ひと」を評価している。ドゥルーズによれば「ひと」は潜在する力そのものだ。「ひと」の内には差異化=微分化された力がひしめきあっている。潜在的な差異のうちひとつの差異が選ばれて現勢化することで「私」として生成し、別なる差異が他の誰かとして生成する。この潜在性の場には記憶の差異がひしめいている。

 インプロを演じるプレイヤーと共演する他者はひとつの身体として、ひとつの場を作りあげていく。そして、インプロの場に巻き込まれているのはプレイヤーだけではない。観客もまたいつの間にか巻き込まれている。インプロのオファーはインプロバイザーの記憶を刺激すると同時に観客の記憶もまた呼び覚ましていく。

 「医師」が登場するシーンの場合、プレイヤーは当然、観客もまたどのような「医師」が登場するのかと記憶を揺り動かされる。意識的に記憶を思い起こそうとしなくてもよい。シーンを見ていれば無意識的に動かされているはずだ。

 「医師」の登場を期待する観客の脳裏には「ブラックジャック」が浮かんでいるかもしれない。あるいは「ブラックジャックによろしく」かもしれないし「ドクターコトー診療所」かもしれない。そう思い出されるからこそ現実のものとなったシーンに「思った通りだった!」「ああ、そっちの方向でいくのか!」と思いを馳せることもできる。このとき観客はもはや見るだけの存在ではない。観客もまたインプロのひとつの身体と化しているのである。インプロの劇場に生成する一体感の根源はここにある。



4-4-3. 肉の現象学

インプロは間主観性=間身体性の生成の仕方を非常に分かりやすく見せてくれる。プレイヤーのオファーからインプロの間主観性=間身体性は生まれてくる。エンダウメントは世界を与える行為だ。「私」に見える世界として「私」の痕跡を場に残すことであり、シーンという地に図を描くことでもある。

 インプロバイザーはオファーを通じてシーンの「地」に世界の「図」を描く。「私」だけに見える世界を空無の世界に切り出してみせる。だから、オファーという行為は世界を「私」のものにしようとすることに等しい。動物がマーキングをして自身の領土=テリトリーを主張するように自分の痕跡=マークを刻むことは場=地に「私」の領土=図を作ることにほかならない。

 痕跡の贈与は私有化の第一歩ではある。しかし、あくまでもインプロだ。贈与した瞬間すでに痕跡は我が手を離れていく。レヴィナスが徴しの贈与として語ったように、贈与された痕跡は他の誰かへの贈与となって今度はその誰かの領土へと組みこまれていく。「私」の作った境界=図は解かれ、そして、別の境界=図の地として場に沈み込んでいく。結局、世界は誰のものでもあり誰のものでもない。贈与で生まれるインプロの世界が誰かひとりのプレイヤーのものになることはありえない。


「領土化」「脱領土化」そして「再領土化」の反復運動はジル・ドゥルーズの好んだモチーフだった。後に彼がフェリックス・ガタリとコンビを組んだ際には戦略的に全面へと押し出していくキーワードにもなる。つまるところ、潜在性の場を地として、そこに現れる図の相互関係や絡み合いを地政学的に表現しているわけだ。インプロの場に生まれてくる世界は領土化と脱領土化の誰のものにもならない運動を繰り返すことで、あたかもそれ独自の生命を宿すようにして立ち現れてくる。

 世界は誰に領有されることもない。けれど、その生成に関わったインプロバイザーはいかなる意味であっても場の当事者だ。世界がもはや自分のものではなくとも自身の知覚と行動を拘束してしまう。「緑深い山」をスケッチした世界であれば空気が澄んで心地よい感覚がしてくる。気分は安らかになり、梢の枝ずれや小鳥のさえずりさえ聞こえてくるだろう。「冬の雪山」をスケッチした場ではそこに入るだけで身が凍えてくる。深く積もった雪に足を取られて息遣いも荒くなる。

 熟達したインプロバイザーはエンダウメントされた世界を、言葉で作られた設定としてではなく、体に感じられる環境として現実化することができる。インプロのシーンにオファー以上の「リアル」なものはなく、オファーを否定することは、この世界を無くしてしまうことにほかならない。だから「緑深い山」のシーンにいきなり吹雪を巻き起こすことは難しい。場に宿った命そのものをキャンセルしてしまうことになるだろう。


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インプロの場は間主観性=間身体性さえ超えて物さえも巻き込んだものとして立ち現れてくる。人と人との相互作用だけでなく人と物の相互作用をも含めた世界の成り立ちを見せてくれる。つまるところ、ぼくたちの生きている世界は言葉だけでできているのでもなければ、物だけでできているのでもない。世界は言葉と物が絡みあい交差した編み物として有る。それはひとつの生地である。ぼくたちとこの世界を織り出すための生地である。

 インプロバイザーは自在に物を生みだすことができる。「きれいな山が見えるね」と言えば眼前に雄大なる山がそびえ、「誕生部のプレゼントに花束を買ってきたんだ」と言えば手のなかにバラの花束が浮かんでくる。しかし、ひとたび物に存在を与えてしまえば次は物の存在に人が縛られるようになる。スケッチで見たように物は次第に人のコントロールを離れ、独自の動きをして、終いには人が物に振り回される。それがインプロだ。

 メルロ=ポンティは人が物を所有するのではなく物が人を所有するのだと語っているけどインプロの場は「物それ自体」だ。晩年のメルロ=ポンティは人と物とが織りなす世界を「肉」という言葉で形象化した。すなわち「私」と世界は同じひとつの「肉」でできている、と。ぼくたちの身体と世界が同じ「肉」でできている。言葉だけ聞けば抽象的かつ宗教的で、俄かには受け取りにくいものだろう。だが、インプロをしていれば感覚的に理解できる言葉でもある。

 イエス・アンドで生成するインプロのシーンは、たとえ偶然に委ねられた即興だとしても、素晴らしいストーリーや素晴らしいモーメント、奇跡としか言えない場面がかなりの高確率で生まれてくる。でも、そのときシーンを作っていた主体が誰かと言えば、プレイヤーの誰かの力ではありえない。シーンは決して誰かのものになることがないし、誰かの意志はどこかで必ず逸れてしまうものではある。だとしたら、すべてのプレイヤーを包みこんだ場こそ主体としか考えられない。

 ぼくのインプロの師ナオミさんが「よいインプロのシーンは、誰かが引っぱるのではなくて、ゴールにみんなで導かれていく感じがする」と言ってくれたのを思い出す。インプロバイザーは場の肉に巻き込まれた存在として肉の運動に導かれていくのである。


メルロ=ポンティによれば肉はひとつの塊として有るのではない。つねにふたつの葉層へと分裂し裂開している。分裂による裂け目があるから、その裂け目を閉じあわせようとして動く。しかし、一致はせずに再度裂開して分かれていく。だから、肉の運動は絶え間なく終わりなく永遠に反復するものである。

 二つの葉層への裂開とは、第一に「見えるもの」と「見えないもの」への分裂である。「見えるもの」はかならず「見えないもの」を伴い「見えないもの」を見ようとして人は「見えるもの」に関わろうとする。ぼくがいまどっしりと根を張った一本の大木を見ているとき大木の枝葉は向こう側の景色をぼくに「見えないもの」にしている。しかし、場所を歩いて移動しさえすれば、ぼくは向こう側を「見えるもの」にすることができる。枝葉を切り落としても見えるようになる。いずれにしても、身体を通じて物に働きかけて物との関係を変えることで「見えるもの」と「見えないもの」の関係を改めることができる。しかし、枝葉はふたたび伸びて景色を隠すようになる。物は決して人の思い通りにはならず「見えるもの」を再び「見えないもの」とする。

 あるいは「見るもの」と「見られるもの」への分裂もまた肉の裂開だ。ぼくの前に立つ人はぼくにその身体を見せている。ぼくは彼を見ているけれど同時にぼくの身体もまた彼に見られている。そして、ぼくは彼にどう見られているだろうかと思案する。そういうとき、ぼくは見られているぼくを見ているのであり、見ているぼくは見られているぼくなのだ。

 見ることと見られることが分離しつつも反転し一致しようとしても統合はされないのは、そこに「見えないもの」があるからだ。ぼくは彼の心を見ることができない。彼の心は「見えないもの」だ。彼は「見えるもの」であり「見えないもの」であって、しかし、その身体に手で触ることはできる。彼の体に触ることは彼の心にも影響を及ぼすはずだ。ぼくは彼と握手をする。ぼくの右手は彼の右手に触る。ぼくは彼の心にも触れようとする。しかし、次の瞬間ぼくの右手は彼の右手によって触られてもいることに気づく。ぼくの心が彼によって触られている感じがして心は急に騒めいてくる。

 メルロ=ポンティが肉という言葉で伝えたかったのは裂開した二つのものが互いに関わりあい、近づき、離れていく運動の神秘だったのだろう。「見えるもの」は「見えないもの」であり、「触るもの」は「触られるもの」であり、そして「見るもの」が「触られるもの」であり、「触るもの」が「見えないもの」であるような互いに入れ替わり、可逆的で、しかし、一致はせず、つねに不一致と差異を生み、絡みあい、巻き込み、変化して、永遠に止まることのない作用と反作用を続けていく。世界と身体、身体と身体の織りなす運動の根源的なイメージだ。メルロ=ポンティはそこに身体と世界に通底して流れていく生命の力の肯定を賭けたかったのだと思う。


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メルロ=ポンティは肉の裂開によって生じる可逆的な運動を「キアスム」(交差=配列)と呼んでいる。「L」と「R」が瞬間ごとに反転して、贈ったはずのオファーが即座に贈り返されてくる、そのようなインプロの場ではキアスムの運動を身体的に生々しく感じることができるだろう。

 「見るもの」と「見られるもの」が等価であるキアスムの場において見る観客と見られるプレイヤーの間にも差異はない。プレイヤーは観客に見られつつも観客の見たいシーンを意識して観客の目を見たりもする。観客自身もまたプレイヤーがステージの上で贈るオファーが共演者だけに向けられたものであるだけではなく自身にも向けられたものであることを感じ取る。

 プレイヤーも観客もひとつの身体であり、ひとつの肉である。分離した二つの葉層を差異を残しつつも結びつけるのもキアスムの運動だ。肉は裂開と分離によって差異を生じるのだが、そこには必ずキアスムが生じて、再接合も可能になる。メルロ=ポンティにとってキアスムは関係性の原理である。キアスムがあるから分裂は分裂のままでなく、相互作用を生む条件となるのだ。


【了】

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