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2-3.インプロの気づき(2)

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


ひきつづきインプロとマインドフルネス瞑想の共通点を書いていきます。

マインドフルネス瞑想を東洋思想と現象学の両面から語りました。インプロとマインドフルネス瞑想に共通するものがあるのなら、インプロもまた東洋思想と現象学の両面から語ることができるはずです。

東洋思想と現象学の言葉を使ってインプロを語ってみることにします。思いのほかきれいに語ることができます。


東洋思想について言えば、東洋思想の前提とする「無」が脚本の無いインプロの「無」に通じます。そして、普遍的なマーヒーヤではなく一時的なフウィーヤに価値を置く東洋思想の視線とその瞬間きりのグッドネイチャーを慈しむインプロの視線にも共通点があります。

インプロの場は複数のインプロバイザーが相互に関わる間主観性の場です。しかも、互いに身体をもちいて関わりあう力動的な場です。現象学とインプロはきわめて親和性の高いものです。そこから空無の場に無限の存在を開かせていくインプロバイザーの行為をハイデガーの存在の開けとしても語ろうとも思います。


以下13430字です


2-3. インプロの気づき(2)


2-3-2. インプロと東洋の知

インプロとマインドフルネス瞑想に共通点があるように、インプロと東洋思想にも共通点がある。実際、キース・ジョンストンは、東洋思想や東洋の武道についても熱心に学んでいる。彼にとって、東洋の叡智がインプロの霊感源であったことは確かなことである。

 インプロは、インプロバイザーそれぞれの個人がそなえた本来的な「よさ」、他に換えることのできないその人自身の唯一性、すなわちグッドネイチャーを発露するためにある。グッドネイチャーは、そのプレイヤーにしか見せることのできないユニークな世界、他にひとつとして同じもののない光景を、ぼくたちに見せてくれる。

 ジョンストンは、グッドネイチャーの発露こそが、創造性、いわゆるクリエイティビティにつながると考えている。彼自身の言葉を使えば、グッドネイチャーの現れは「イマジネーション」(想像/想像性)の発露である。

 インプロはプレイヤーのイマジネーションを豊かにする。だが、ジョンストンは「想像的になるためには想像しようとしてはならない」と逆説的な物言いをする。言葉を換えれば「自分自身になるためには自分自身になろうとしてはいけない」のである。

 ジョンストンによれば、人はそれぞれに生まれながらまったく違った存在なのだから、なにも「なろう」と努力しなくても、そのまま有るだけで、もはやすでにユニークな存在なのだ。「なろう」とした瞬間「いまここにいる自分」ではなく「どこかにいる誰か」になろうとしているわけだ。結局、他者の評価を気にした「Be original」の呪縛に囚われていることにほかならない。


ジョンストンは指導の場でプレイヤーに「Be average」(普通にやって)と声をかけている。特別なことをしようとしないで、普通にやりなさいと言う。さらには「Not trying」(がんばらないで)「Be boring」(退屈にやって)とさえ求める。「やろう」と努力することがかえってその人をその人自身から遠ざけてしまう。ジョンストンにはそういう信念がある。

 人はみな生きて有るだけでユニークな素晴らしさをもっているのだから、何をしようとしなくても、普通にするだけで素晴らしい。「あなた」に見える世界は「あなた」にしか見えない世界なのだから、その見えるままにしてくれていれば、それだけでとても面白い世界が生まれてくるのだ。

 だから、想像とは何かをしようとする意志的で能動的な行為のことではありえない。何をしようとしなくてもふっと湧き上がってきてしまう非意志的で受動的な出来事こそ、創造力、すなわちグッドネイチャーが顕わになる出来事なのだ。要するに、グッドネイチャーはスポンタネイティなのだ。


努力しようとする人には「がんばらないで」と声をかけ、面白くやろうとする人には「退屈にやって」と指導する。結果、その方が、ユニークな姿や輝かしい姿を見ることができる。ジョンストンの方法論は普通の道とは反対の道を示す「逆の考え方」に貫かれている。

 それはどこか禅の公案を思わせる趣がある。あるいは「老子」の「無為自然」の考え方に慣れた方はニヤリとするかもしれない。「老子」はジョンストンの愛読書の一冊だった。

 「老子」には「企者不立 跨者不行」の一節がある。背伸びをしてつま先立ちをしようとすればしっかり立つこともできず、大股で歩こうとすれば疲れてしまって歩きつづけることはできない。有るがままの自分でないものとして努力をしても、結局は無駄になってしまうのだ。

 「老子」の無為自然とは、為そうとすること無く、自ずから然るべきままにすることを意味する。作為的に行為することを止めて自然に起きていることに即して生きることだ。フォーカスを自分の内面にあてて「善い/悪い」「あるべき/あるべきではない」という評価に囚われるのではなく、いま自分の外面に起きていることにフォーカスをあてて、それをそのまま受け容れて生きることが、インプロを通じた、無為自然な生き方ではないだろうか。



フウィーヤとグッドネイチャー

無為自然に生きることが「私」のグッドネイチャーを導くとするならばグッドネイチャーも永遠不変のものではありえない。外的な環境が変化すればそれとともに「私」の有り方も変わるはずだからだ。「私」のグッドネイチャーとは、一回限りのものであり、「いまここ」の状況のなかでしか生まれてこないものである。その意味でグッドネイチャーとは井筒俊彦のフウィーヤにほかならない。

 フウィーヤとしてのグッドネイチャーを変わることのない生得的な性格として考えるのはインプロ的ではない。フウィーヤが瞬間に生じる関係性に宿るものであったのと同様に、インプロもまた出来事=ハプニングという偶有性の唯一性を絶対的に肯定する。

 だから、ぼくがある瞬間ある共演者たちとつくるシーンで見せた姿と別の瞬間別の共演者たちと作るシーンで見せた姿がまったく別の姿だったとしても、一方が本来的な姿で他方が非本来的な姿だということはありえない。グッドネイチャーでいられたならどちらも本来の姿なのだ。

 ある瞬間ある人たちとの関係性で引きだされたぼくのグッドネイチャーが、他の瞬間他の人たちとの関係性で変化するのは不可避なのだ。もしいつも変わらない姿でいるとしたら、むしろ「Be original」でいようと力を入れている証拠である。外部からの関わりの差異に応答せずに同じで有りつづけようとしていることにほかならない。畢竟、他者に「ノー」を言っているのだ。

 たとえ、別々の姿を見せたとしても、ぼくはぼくであって、ぼくとしてのフウィーヤが損なわれたわけではない。だから、グッドネイチャーは、同じであるけど異なる、異なることで同じである、そういう存在の有り方を意味する。


   ***


同じでいようとする人は「然り」(Yes)ではなく「否」(No)と言う人だ。「イエス」と言う人は変化を手に入れて「ノー」と言う人は安全を手に入れる。ジョンストンの法則もあるように「ノー」と言う人は自分の計算できる世界、過去に見知った世界、自分に見える範囲に世界を留めておこうとする人である。

 ジョンストンもスポーリンも共通して、インプロバイザーが即興を怖れると、とたんに口だけのセリフが増えて、体の動きが少なくなると言う。マーヒーヤとしての言葉は、過去にそうあって未来もそうあるはずの普遍かつ不変の本質を担うものだから、言葉の力に頼る人は不確定な混乱のカオスを確定した意味のコスモスへと秩序づけようとしているのだ。言葉はコントロールの道具である。言葉に依存しているかぎり、安全で見慣れた「同」の世界にいつづけられる。

 言葉は意味を同じに保持する。言葉は変化を否定する。意識は「何かについての意識」として対象を意味づけるものだから、意識は言葉と無縁ではいられない。畢竟、放っておけば、意識は言葉に拘束されて、同じであろうとしつづけてしまう。

 しかし、身体は微細な変化を感じ取っている。視覚だけでなく聴覚、味覚、触覚、嗅覚、五感のすべて、そして、感情や無意識もすべてを動かして、外界の変化に触発され、連動して変化する。身体は力動の場である。

 こうして「同一」であろうとする意識に対して、身体は「差異」を生む舞台となる。インプロが言葉よりも体の動きを重視するのには理由がある。


   ***


スポーリンのメソッドに「ノーモーション」というエクササイズがある。歯を磨く、水を飲む、ドアを開ける、普段何気なくしてしまっている動作を、その途中でビデオでいう一時停止の状態で止め、コマ送りのように動かして、また止め、それを繰り返すというもので「いまここ」の瞬間に身体的に居つづけるためのエクササイズである。

 ぼくは直接ノーモーションをしたことがない。けれど、師からはシーンの途中で「体を止めて」「共演者は10秒間見つめあって」というサイドコーチを頂くことが間々あった。これはスポーリンのノーモーションと同じ意図があるものと理解している。

 野球のシーンで、ひとりがピッチャー、ひとりがバッターの役を演じるとしたら、ピッチャーは投げる役で、バッターは打つ役である。そう決まったものとして演じてしまうと、ピッチャーが投げればバッターが打つか、あるいは、空振りをするものとして、そのゴールがごく当たり前のものとなってしまう。すると、とたんにシーンから生気が抜けていく。先の決まったものをなぞるだけでこの瞬間に生きていないからだ。

 そこで、ピッチャーが投げる、その瞬間に、動きを止めたり、ノーモーションをいれたりするのである。「投げるぞー 打つぞー」という弛緩した関係ではなく、ピッチャー役の肘が5センチ動くことでバッター役の心臓が高鳴ったり、バッター役が腕を5センチ引くことでピッチャー役の表情に緊張が浮き上がったり、瞬間ごとに生まれる変化や、両者の間に生じる相互作用をプレイヤーに感じ取らせるのだ。それが「いまここ」の場に存在することの意味である。


ノーモーションの瞬間はエネルギーがどこにもいかずその場に留まりつづける瞬間だ。だからノーモーションが解かれた瞬間、エネルギーはどこに流れていくか誰にも分らない。ピッチャーは溢れてくる感情で投げられず泣きだすかもしれないし、バッターはバットを放り投げているかもしれない。身体が隠しもったエネルギーを爆発させることこそ、インプロには大切なことなのだ。

 改めて「なぜ即興なのか」を問い直せば、それが言葉の優位を砕く形式だからである。脚本のある芝居は言葉優位の形式だ。この瞬間、何を話すべきか、何を行動すべきかは、脚本によって前もって決められている。役者の振る舞いは脚本のゴールから計算されて唯一の仕方に定められてしまう。

 でも、インプロには筋書きがない。言葉は無力にされ、身体のエネルギーや生きている命の力だけがものを言う。人間の身体は、言葉を踏み越え、意味を打ち破り、未知の領域へと抜け出していく。この瞬間の命を強く輝かせながら。


   ***


東洋思想は無の思想である。インプロは無のステージだ。マーヒーヤではなくフウィーヤの輝くステージだ。脚本を放棄することでインプロは無の世界を生みだした。無の世界はただの空虚ではなく、つねに新しい変化や新しい出来事が生まれる有の力動の世界である。無に生まれる変化や出来事は、ノーモーションの瞬間が見せてくれたように、何かと何かの相互作用や複数の存在の関係性のなかで生起する。

 ワンワードはとてもインプロ的なゲームである。未来をコントロールする言葉の力を使いながらも、あえてその力をくじくようにデザインされている。「桃太郎 その後」の話を語ってもらうことにしよう。

A「犬は」(桃太郎と)

B「キジと」(話しあって)

C「キビ団子を」(食べていて)

D「売り出そうと」(準備していました)

A「夢見ていました」(サルは)

B「桃太郎が」(そこに)

C「話を」(ききつけて)

D「したいと」(……)

「」の中が実際のフレーズで、()の中がその人が次に来るだろう、そして、次に来させたいと思っていた言葉である。ストーリーが進む中で、個々の期待は見事に裏切られていく。

 インプロは意図してオファーをすることも大切なので、次の展開を求めるオファーとして言葉を選ぶことも大事だけど、大体の場合は思うようにはいかない。自分の考えた未来にまったく辿り着かないので、逆算思考の人やゴール思考の人には、このゲームがたいへん苦痛に感じられるそうだ。先が見えていないと不安な人にも苦痛である。

 そういう人たちにワンワードをさせると「犬は桃太郎と」や「キビ団子を家々に配ろうとして」など、ひとりで二文節も三文節も話そうとしてしまう。これは本当によく目にするけれど、それだけコントロールしたいわけだ。


ワンワードの素晴らしさは、ひとり一文節というルールのもと、前に話された言葉のフォーカスだけに集中して、その瞬間思いついた言葉をただ口にしていれば、自動的にスポンテニアスになれるというところにある。ゲームが生みだす流れに乗っていれば、ストーリーはひとりでに組み上がっていく。その流れに逆らったり、自分の色をつけたりしようとするから、そこにブロッキングや停滞が生まれてしまうのだ。

 優れたインプロバイザーは無理をしない。ワンワードの生みだす流れのままに流されて、気づいたら、スポンタニティへと導かれている、そういう感覚である。

 ワンワードは前の人の言った文節に次の文節をつないでいくだけのゲームだけど、その一言はただその瞬間だけに生まれて消えていくだけのものでもない。ワンワードの一言には、それが生まれるまでに生まれてきたすべての言葉が宿っている。

 先ほどの「桃太郎 その後」のストーリーでBの発した「桃太郎が」のワードは、それ以前の「犬」「キジ」「キビ団子」といった言葉との関係性の内で生まれきたものだ。そして、すぐさま次の「話を」の文節を呼び起こす原因として機能している。そこで「話を」ではない可能性ももちろんありえる。「怒って」かもしれないし「サルを」かもしれない。

 ワードが発せられた直後はノーモーションの瞬間だ。そこに無数の選択肢が浮かび、そのなかの一つの言葉へと凝結していく。しかし、ひとたびひとつの言葉に凝結した可能性は、次の瞬間ふたたび解かされて、また無数の選択肢へと広がっていく。


ワンワードは複数のインプロバイザーがそれぞれ語っていくゲームである。それぞれが発した言葉が次の一言によって集約され、さらに次の一言が発せられる直前にまたバラバラにされ、再度言葉が発せられるとともに関係性の網目を再び取り結ぶ。

 ここで発せられたひとつひとつのワードを「星」に喩えるなら、それはひとつの「星座」である。過去は定まった過去ではなく、未来は決まった未来ではなく、現在の瞬間ごとに、星座は構成され、解かれ、また構成される、その反復として、インプロの時間は流れていく。

 インプロの時間はつねに現在である。過去を受けいれつつも過去にしばられず、未来を受けいれつつも未来を定めない「いまここ」の現在に有りつづける。「前後裁断」の時間である。そうして浮かびあがってくるプレイヤーの相互関係としてのシーンは、だから「縁起」のシーンなのだ。

 自発性(スポンタニティ)を縁起性と言い直すこともできる。グッドネイチャーは他者との縁起として生まれてくる。グッドネイチャーが一回限りなのは、他者との関係性がつねに変化をするからだ。インプロが、このように東洋思想の真髄を垣間見せてくれるのも、脚本をもたないという形式の力が東洋思想的な無に相通ずるからである。



2-3-3. インプロと現象学

最後にインプロと現象学の関係に触れておきたい。フッサールは意識と身体の接点について論じ、ハイデガーは存在と時間の結びつきについて語っているので、そもそも、インプロと現象学はきわめて親和性が高い。だから、インプロのシーンで展開される出来事のひとつひとつを現象学の言葉で語りなおすことはスムーズに進むだろうと思われる。

 インプロのシーンはインプロバイザーが相互にイエス・アンドを反復するプロセスでできていく。そうして、無の空間にひとつの世界を浮かびあがらせていく。

A「ねえ、パパ! 見て! カニがいるよ!」

B「アキラ。すごいじゃないか、またカニを見つけたのか」

A「あ、あっちにも!」

B「まだいるのか?」

A「うん、あっちの方からやってきてる」

B「おい、走ったら危ないよ、岩でごつごつしているんだから」

A「大丈夫だよ。ねえ、ここに大きな大きな岩があるね」

B「そうだなあ、お父さんの背より大きいよ」

A「カニはこの岩の向こうから来ているみたいだよ」

B「向こう側にはいけないよ」

A「登ってみる!」

AとBは相互に言葉を交わすことで、すこしずつ世界を彫りこんでいく。彫りこまれるたび世界はリアリティを増していく。実際のシーンで世界を創るのは言葉だけではない。動いたり、走ったり、手を広げてみたり、岩に触ってみたりして、プレイヤーは身体的な行為で世界を切り開いていく。こうしてAとBは世界を、現象学の言葉でいう「間主観性」を生みだしたのである。

 間主観性としてのインプロのシーンは共演するインプロバイザーすべてに共有されるひとつの世界である。この世界を共有するからこそ、プレイヤー全員が同じ世界を見ることができる。

 しかし、誰にとっても同じに見えているわけでもない。AとBの見えていた世界にはすこしずつズレがあったはずだ。Aにとっては走りやすい砂浜だったかもしれないけれど、Bには岩の目立つ海辺に見えたのだろう。でも、そのアイディアをイエスすることでAは「大きな岩」というアイディアを見いだした。それぞれの視線の差異を「ズレ」で片づけるのではなくて、シーンをユニークなものにする必要不可欠なチャンスとしてとらえる。それがインプロのイエス・アンドである。


インプロのシーンにおいて、世界はプレイヤーそれぞれに差異のある見え方をする主観的な世界として始まる。しかし、その差異がオファーとなったときに客観的なリアリティとして世界に掘りこまれる。オファーにならないプレイヤーの行為はありえないから、振る舞いも、沈黙も、すべてがオファーとなる。そして、シーンのなかで発せられたオファーはすべてシーンに起きたこととしてシーンに蓄積していく。

 シーンを支えるシーンの「地平」には、シーンが始まってから起きたすべてのことが痕跡として記憶されている。だから、AとBの生みだすシーンがいつか「カニ」を忘れてしまっても「カニ」が存在した痕跡は消えない。そして、いつでも「カニ」の記憶を呼び起こすことはできるのだ。

 インプロのプロセスにおいて「記憶」の果たす役割は絶大である。記憶なしにインプロのシーンが動くことはありえない。AとBは「海」という共通の理解でシーンを始めた。その「海」はAとBに共通の意味としてマーヒーヤである。誰にとっても同一の意味である。でも「海」は次第に様相を変えていく。カニが現れ、岩が現れ、唯一の色彩を見せていく。

 誰にとっても同一のマーヒーヤとしての「海」がAとBによって唯一なフウィーヤとしての「海」へと転じていく。それを可能にしたのも「カニ」や「岩」といったオファーだ。プレイヤーがかつてそこに存在したことの証、その痕跡としての記憶なのだ。

 インプロバイザーはシーンに存在した痕跡を残し、その記憶によって自らの立つ地平を確かなものにしていく。ひとたび記憶を残せば、その記憶は無視できないものとなり、インプロバイザーの行動を制約する。それは、ハイデガーが世界内存在の被投性として指摘した現存在の有り方そのものだ。



存在のスケッチ

インプロほどハイデガーの語る意味での「存在」を明らかにしてくれる表現もない。インプロには「スケッチ」という技法があるけれど、文字通りシーンの背景をスケッチしていく技法で、シーンの土台をつくっていく方法である。複数のインプロバイザーが何もないステージに進みでてスケッチを始めるのだ。

A「ここに、家があります」

B「ここに、木があります」

C「遠くに山が見えます」

D「家は、レンガでできています」

A「レンガは赤レンガです」

B「家には煙突があります」

C「樹齢100年はあろうかという大きな木です」

D「木の下には、椅子があります」

A「その椅子は、前後にゆらゆらと揺らすことのできるものです」

こうして互いにイエス・アンドをしつつゆっくりと世界を立ち上がらせていく。それぞれのプレイヤーがしていることはシーンにひとつずつ痕跡を残していくことだけである。それなのに、いつの間にか、とても生き生きとした世界が、しかも、「いまここ」だけにしか存在しえない世界が立ち上がっていくのである。

 スケッチは、実にインプロをしている感覚になるアクティビティだ。芝居らしい芝居は何もないのに、たしかに、インプロのエッセンスを見せてくれるモーメントである。ぼくはとても好きな時間である。そして、実にハイデガー的な時間だとも思う。


『存在と時間』のハイデガーはあくまでも現存在の存在に焦点を当てていた。けれど、後年のハイデガーは「有る」ことを、現存在さえも超越したものとして考えていていたように思える。

 第二次世界大戦を境にして後半生のハイデガーは有ることを「Es gibt」として定式化するようになる。「何かがある」ことを表現する構文が、英語では「there is/are」、フランス語では「il y a」、ドイツ語では「Es gibt」なのだが、ハイデガーはこれをあえて文字通りに読んで「それ(Es)が与える(gibt)」と読む。そして「有る=存在」とは、この「それ」(Es)であって、それゆえに「存在とは与えることである」という命題を導くのである。

 実際、インプロバイザーはスケッチを通して、何もなかった空間に家と木の有るひとつの世界の存在を与えていた。観客は無から世界が立ち上がる様を目にしたはずだ。後期のハイデガーは「有ること」を「開かれ」「明るみ」という言葉で語るようになるけれど、インプロは世界の有り様をシーンの明るみへと開いていく行為ではないだろうか。


ハイデガーはドイツ人である。ドイツの風土と言えばゲルマン民族を生みだした暗い森の世界だ。鬱蒼と生い茂る黒い森、そのなかに、ふと木々が開けて太陽の光が差しこんでくる空き地、それが明るみとしての開けだとハイデガーは語る。ハイデガーは開かれることや明るむことと存在の開けを重ねている。

 森の暗がりに隠されていたものが、開かれて明るみに出されていく、それが存在の「真理=隠れなさ」(アレーテイア)なのだ。こうして『存在と時間』において重要な意味を担っていた「本来性/非本来性」という言葉は、次第に「隠蔽性/非隠蔽性」(開かれ/閉ざされ)の対へとシフトしていくことになる。

 「家があります」「木があります」と言って、インプロバイザーは無のステージの暗がりに有の明るみを少しずつ開いていく。無に有が立ち上がっていくのだけど、プレイヤーの姿は、ハイデガーが語るところの「存在へと身を開き-そこへ出で立つ者」として存在に関わる現存在の有り方そのものだ。

 こうしてインプロバイザーはシーン=世界の存在に関わっていく。インプロバイザーはシーンに世界を与える者でありつつも、同時にその与え方を通して自らの存在も与えられていく者でもある。プレイヤーさえもがシーンの世界に包みこまれ、そこで発生する出来事と化していくのだ。

 プレイヤーも世界も一切に包みこんで、存在を与え、出来事を生成させていく力の運動が「そこ」にはある。存在を与える者としての「場」の力とも言えるものが「そこ」に。場それ自体が存在それ自体であるような場、場の運動として存在の開かれがあるような場、それがインプロの場である。


   ***


インプロバイザーは、ひとたびシーンの場に被投されたら、もうシーンから離れることはできない。できることといえば、オファーをひとつずつ投企することだけである。だから、ハイデガー風に言えば、オファーとは存在への問いかけなのだ。投企されたオファーは痕跡としてシーンに記憶されていく。痕跡の上に立つインプロバイザーは未来を呼びこむために、再びオファーを問いかける。

 インプロバイザーが問いかける問いにおいて、その応答を予め知る者は誰もない。返ってきた応答が望むものであろうと、望まないものであろうと、シーンにおいて、すべて受け容れるほかはない。受容することで隠されていた存在の真理が明るみへともたらされ、問いの応答が顕わになる。インプロバイザーにとって、インプロの真理とは、逃れられないものであり、受け容れるものでもあり、つねに運命的なものである。

 真理とは、隠されていたものが顕わにされることである。インプロのシーンは何も無い場から始まる。でも、インプロの無の場にはあらゆるものが隠されている。プレイヤーがそこに関わることで瞬く間に世界は立ち上がってくる。

 閉ざされ隠蔽された無の内から開かれていく有は、しかし、その瞬間かぎりの有でもあって、明るみは永続的に開かれているものでもない。開かれた瞬間、閉ざされてしまうものでもある。


「家があります」という言葉で与えられた「家」の存在は、はじめただの「家」でしかない。しかし、ものの数分後には、プレイヤーたちの手によって、どこにもない、ここにしかない「家」としての存在を露わにするだろう。マーヒーヤとしての「家」が、フウィーヤとしての「家」の姿として明るみへともたらされたのだ。「家」の隠されていた本質が開かれた瞬間である。

 しかし、このフウィーヤはこの場かぎりでもある。「いまここ」のプレイヤーとの関係、場との関係で、儚く開いた姿である。インプロのシーンは再現不能であって明るみが永続することはありえない。

 インプロバイザーにはマーヒーヤをフウィーヤへと転じる力が潜んでいる。そして、その力は言葉を通じて現れてくる。「言葉は存在の家である」と語ったのはハイデガーだったけれど、インプロもまた存在を与えるものとして言葉を使用する。

 ジョンストンもスポーリンも言葉の使用にはとても慎重だった。東洋思想の伝統が虚妄を生みだすものとして言葉を退けたように、ジョンストンもスポーリンも、身体を抑圧するものとしての言葉の力を警戒していた。それでも、マーヒーヤとしての言葉がなければ、スケッチをしてシーンを掘りこんでいくことはできないし、オファーをやり取りすることにも不自由してしまう。

 だから、インプロでは、繊細な注意のもと言葉を扱う。不変のものとしてではなく一回限りのものとして言葉を扱う。インプロの言葉はあらゆる文脈から離れた純粋なマーヒーヤではない。「いまここ」のシーンというきわめて具体的で個別的な文脈に根ざしたフウィーヤとしての言葉である。普遍的なマーヒーヤをこの文脈でしか通用しないフウィーヤへと転じること、それがインプロの言葉の本質だ。

 インプロのシーンは一回限りである。フウィーヤ渦巻く偶然性の世界である。一回限りで二度と同じ場面は訪れない。運命的な世界だ。だから、つねにプレイヤーは運命の当事者であり、観客は運命の目撃者である。ハイデガーに準えれば「有り方の運命」と言えるけれど、いまこの限りにしか出会えず「イエス」と言うか「ノー」と言うか、その二者択一を迫るインプロのシーンは、まさに有り方の運命が問われる場なのだ。



開かれ

ハイデガーによれば、真理は明るみに立ち現れてくる。真理とは隠されていないことであり、秘匿されたものの開示である。ジョンストンは「Be obvious」とインプロバイザーに要求する。熟達したインプロバイザーならば自身の姿を惜しみもなく明らかにしてみせる。そこで「ノー」と言ってしまうインプロバイザーは、要するに自分を隠している。自己の真理を閉ざしているのである。

 インプロバイザーが「イエス」と言えないのは、ジョンストンによれば「評価を怖れている」からだ。不安なプレイヤーは他者からの評価と承認を得るために「正しい」振る舞いをしようとする。そうして「こんなことを言ったらおかしいと思われる」や「こんな行動は恥ずかしくてできない」などと無意識的に判断して、これを「検閲」してしまう。結局、瞬間的に浮かんだスポンテニアスなアイディアを否定してしまうのだ。


「検閲」という精神分析的な言葉からジョンストンのフロイト好きが見て取れる。だから、ジョンストンによれば、スポンテニアスなアイディアは「卑猥で」「狂気じみて」「没個性的な」ものであることが多い。表に出すことや明らかにすることに躊躇ってしまうものである。

ジョンストンは「退屈にやって」「がんばらないで」と声をかけながら、プレイヤーがスポンテニアスになれるように、フォローをしてくれる。ジョンストンが評価をすることはない。そうだとしても、スポンテニアスな姿を隠そうとしてしまうプレイヤーはいる。「卑猥で」「狂気じみて」「没個性的」と評価されるリスクのある姿を見せることを拒むのだ。しかし、ジョンストンが評価をしない以上、ここで「卑猥」「狂気じみた」「没個性的」と評価を下すのはいったい誰なのだろか。

 畢竟、プレイヤーが気にしている評価の眼差しの主は、その人自身でも、ジョンストンでもない。どこかの誰か、誰とも言えない誰かの価値観である。ハイデガーの用語をつかえば「ひと」としての価値の枠組みだ。誰でもあるけど誰でもない「ひと」、マーヒーヤとしての「ひと」である。

 プレイヤーは「ひと」に没入することで本来的な自己自身を隠蔽してしまう。要するに、内面化した「ひと」のあるべき姿から離れられないのだ。「ひと」への気遣いがグッドネイチャーに至る道を阻むのである。カバットジンのストレスクリニックを訪れた人が自分の体を他者と比べて恨みを募らせていたのと同じように。

 ハイデガーによれば存在の真理とは「ア・レーテイア」だ。「忘却」(レーテイア)では「無いこと」(ア)である。忘れていたこと、隠してきたことを、ふたたび、そうではない状態、明るい場へともたらすことだ。「ひと」として忘却してきた自己自身、秘匿してきた自己自身を開示すること、それこそが本来の自己自身へと至る道である。「ひと」に向けられていた気遣いを自己自身に向けるとき、フウィーヤとしての姿、すなわちグッドネイチャーな姿がスポンテニアスに立ち上がる。


   ***


ハイデガーの存在論とインプロには共通点がある。それでも差異があるとすれば、やはり他者の有無についてだ。ハイデガーの存在論、とくに『存在と時間』の存在論は、孤独な哲学である。本来的な自己へと有り方を転じていく姿は、ひとりきりで自分の運命に立ち向かう孤独な戦士の姿である。

 ハイデガーにとって、存在の変容をもたらすものは到来する未来としての他者であった。どこの誰という姿形をともなうことはない。未来や運命といった抽象的な言葉こそ相応しい畏怖を覚える偉大な他者である。それに対して、インプロの他者は共演者や観客だ。ともに「ここ」(現)という場を共有する仲間である。そういう未来はミクロでとても小さい。でも、この小さな未来を受容することもまた運命だ。運命の場に自身の身を開いて立つことでインプロバイザーはグッドネイチャーな姿を顕わにできる。

 ハイデガーの存在論とインプロはとても近しい。けれど『存在と時間』にはあった、ギリギリの局面で究極的な選択を迫る切迫感はインプロとは無縁である。インプロはもっとのびやかで笑いに満ちている。インプロをしている最中、生と死に向きあうことがあるとは限らない。けれど、「いまここ」に生きて有ることを肯定し、本来的な有り方を感じられる経験であることは確かである。

インプロを結び目にしてマインドフルネス瞑想と東洋思想と現象学の接点を考えてきた。インプロそれ自体はとても簡単なものである。ぼくの開くワークショップにはインプロの「イ」の字も知らない人が参加してくれるけれど、そういう人にも、ものの数時間でインプロの楽しさに気づいてもらうことができる。インプロはとてもシンプルで気楽なものだ。でも、哲学的な眼差しで見てみれば、とても興味深い事象も潜んでいる。

 インプロに出会って、何が新鮮で、何がうれしかったかといえば、その親しみやすさだった。ぼくはそれまで哲学を学んでいた。哲学のことを人に話そうとしても、まず伝わらない。「難解だ」とか「面白くない」とか言われてしまう。ぼくにとって大事だと思えば思うほどジレンマは根深くなる一方だった。

 それに対して、インプロは誰でもおなかを抱えてゲラゲラ笑えるエンターテインメントである。でも、伝えられることは、哲学と同じくらい奥深い。同じことを伝えるのなら、無理して哲学の言葉を使うよりは、インプロの言葉を使う方がずっとラクにできる。それがほんとうに救いだった。世界が遠く広く開けていく感じがした。

 インプロは生きていくうえでとても大きな力を与えてくれると信じている。それが真実なら、哲学も同様に力をくれるはずなのだ。ぼくはインプロと同様に哲学も愛している。だから哲学が無益な机上の空論ではないことも知ってもらいたいと思ってきた。

 インプロのワークショップを開いている人は、ぼくのほかに無数存在しているし、そのすべての人がぼくのように哲学的な視点でインプロをこねくり回しているわけではないけれど、哲学とはいわずとも理論的なリフレクションをしてもらいたいと思っている。反対に哲学などの理論に重心を措いている方には、その実践としてインプロを楽しんでもらいたいと願ってやまない。


【了】

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