8-1.イノベーションの敵
ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。
このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。
マインドフルネス瞑想に始まった肯定する力への問いはインプロを経てここまでやってきました。マインドフルネス瞑想やインプロはまず個人的な実践として変容を受容する身体の修養へと向かいました。次いで個人が関係を結ぶ他者、その他者と形成する場、共同体に対しても変容を引き起こす力があることも指摘してきました。
インプロの熟達を参照しながら熟達というプロセスが人間個人の内面だけに留まるものではなく、周囲環境にも影響を与えるものであることも見ました。人は状況に投げ込まれたものとして与えられた環境に拘束されます。はじめは環境に求められる道具としての役割を果たしていかざるをえませんが、熟達とともに自分だけの唯一性を発揮するようになっていきます。そのときには反対に環境へと影響を与え、環境自体を変容させる関わりも可能になっているかもしれません。
いまから「イノベーション」について考えていきますが、つまるところ、イノベーションとは変容のことです。
現在、成人教育や人材育成の文脈で「イノベーション」の言葉を見ないことはありません。「イノベーション人材育成プロジェクト」などと銘打って産学連携事業のテーマにされることもしばしばで、どれほど重要なテーマなのかは、容易に理解できます。最後に「イノベーション」についてインプロを交えながら書くことで長かった旅も終えていきたいと思います。
インプロを企業や組織の研修などに活用するなかでときに「クリエイティビティ」を高める、あるいは「イノベーション」を刺激するなどという触れ込みがされることがあります。それも嘘ではないと思いますが、きわめて曖昧模糊としたものにも感じます。
このセクションではイノベーションをめぐる権力関係について語るところから始めます。世にイノベーションが必要だと主張されるのも、なかなかイノベーションが起きない、起こせない現状があるからでしょう。そこにはイノベーションに敵対し抵抗する権力の関係が存在しているのです。そこでインプロがイノベーションに効果を発揮する部分と空回りしてしまう限界の部分、双方が見えてくるはずです。
与えられた権力関係のなかで自分の唯一の存在を肯定することがイノベーションの第一歩であると考えています。端的に言えば、与えられた世界の内でグッドネイチャーとなることです。それは自分の身体に宿るスタイルを肯定することであり、そこから生まれる「わざ」を駆使することにも繋がります。
権力関係は人にあるべき姿を求めるものです。しかし、その関係を踏まえたうえで独自の存在であることを選び取ることができたならば、その変容は周囲の環境にも影響を与えずにはいないでしょう。まずは自分が変容することこそ環境に変容を起こす戸羽口になるものです。自己を気遣う「わざ」がイノベーションを起こすのです。
畢竟、イノベーションとは既存の権力関係を組み変えていくことです。固定された権力関係に揺さぶりを入れ、解きほぐし、新たな関係へと変容させていくこと、それは対話であり、ダイアローグであり、それゆえに民主主義のプロセスにも通ずるものです。
したがって、ここではイノベーションをビジネスの領域を超えたものとして、あるべき世界を導くものとしてソーシャルデザインの文脈において書いていこうと考えています。この過程でパウロ・フレイレの仕事にも言及します。
あるべき世界の姿は人それぞれに多様なものです。なぜなら、その世界を見せるのは、その人の身体がそなえる「わざ」だからです。自身唯一の「わざ」に熟達することで見たい未来は明瞭に見えきます。それが見たい未来の実現のために状況に変容を生みだしていくイノベーションに繋がるのではないでしょうか。あるべき未来を形作っていくプロセスを「デザイン思考」の考えを借りながら書いていきます。
イノベーションは新たな未来を見せるヴィジョンとも密接な関係があります。ヴィジョンを考察していくのにデザインの理論的背景は大きな力になるはずです。民主主義にも通じるものとしてヴィジョンとリーダーシップの関係についても語っていくでしょう。
話題は多岐にわたるとはいえ、いままでの文脈から逸脱する理由はありません。ヴィジョンを見せ、リーダーシップを発揮し、イノベーションを起こしていく、その基点となる力を宿すものも身体のほかにはありません。ひとりの個人が与えられた状況のなかで望ましい未来の姿や見たい未来のヴィジョンを見いだして、それを周囲の人に投げかけ、新たに関係を作っていくことで現在の状況に変容を生みだしていく。それがイノベーションのプロセスだとしたら、まさしくインプロのプロセスと一致するはずです。
以下、場に根づく権力のゲームについて追っていきます。職場の日常から筆を起こして、ピエール・ブルデューやミシェル・フーコーの権力理論を参照するでしょう。そこにインプロのイエス・アンドが見せる限界も浮かんでくるはずです。
以下7900字です。
8-1. イノベーションの敵
8-1-1. 文脈をめぐる争い
人間の知覚が個人単体で完結することはない。現象学やアフォーダンスの理論が教えてくれるように、人間の知覚は周囲に存在する他者、その他者たちとともに構成する環境、その総体としての場との関わりのなかで生まれてくる。そして、人間の身体に記憶が蓄積されていくのと同様に場にも歴史が蓄積されていく。
過去にあった出来事の記憶は認識主体=エージェントの認知に無意識的な綾や偏りをつけていく。それが身体の場合は「スタイル」となり、場の場合は「伝統」と呼ばれるものとなる。
熟達者の「わざ」は洗練されたスタイルだ。他方、場の伝統は「校風」「社風」あるいは「国民性」や「県民性」などと呼ばれたりする。いずれにしても、スタイルも伝統も特殊な偏りにほかならない。ときに普遍性から逸脱し、ときに普遍性に染みをつける。だからこそ、その人あるいはその場の唯一性を証する。
場に蓄積された記憶、その歴史は共同体の構成員の地平を形成する。そうして構成員の知覚を支持するとともに制限する。共通の文脈を共有する共同体の構成員には近似した考え方、感じ方、価値観をもたせるようになる。正統的周辺参加とは実践共同体に参加した新参者が徐々に十全的な構成員へと推移していくプロセスのことだけれど、それは新参者が共同体の構成員と同様の知覚のスタイルを身に着けていくプロセスにほかならない。
医学部を卒業して医師資格を取得したばかりの研修医は、はじめは自信なさそうで看護師や他の医療職職員に遠慮しがちでビクビクしているものだ。経験を重ねていけば熟練の看護師にも堂々とした姿勢で指示を出すようになっていく。医師は医療現場の責任者として重い判断を重ねなければならない立場にあるから周囲の信頼を得るためには堂々とした存在であることもまた求められる姿勢である。医師は堂々とした存在でなければならないとは医師に特有な美的で倫理的な価値観だ。それが医師としての「ハビトゥス」を形成していくのである。
フランスの哲学者であり社会学者のピエール・ブルデューは、モースのハビトゥス概念を継承して拡張した。ブルデューによればハビトゥスは資本のように身体へと蓄積されていく。おどおどとして猫背だった研修医がやがて背筋を伸ばし肩で風を切る医師へと変容していくように、特定の共同体に備わった価値の枠組みはそのメンバーの身体と心を拘束して整形していく。純粋な「わざ」の模倣を超えて美的判断や倫理的判断を拘束するビリーフを植えつけるのである。そうして先輩から後輩へと価値のフレームは再生産されていく。ブルデューによって「ハビトゥス」は「わざ」の継承だけに留まらず、人間の生存の様式まで包含する概念とされたのだった。
外部から来た新参者が内部にいる古参者と認識のスタイルを同調させていくプロセスが正統的周辺参加であるならば、参加の初期においては、まだ外部の視点を色濃く残している新参者の認識のスタイルと内部の文脈に深く根差している古参者の認識のスタイルとのバッティングが起こることがある。
たとえば、一方で新しいことにはチャレンジすることが大事で失敗しても次への学びに変えればいいという信念をもった新参者が、他方でミスや失敗のないようにして仕事は滞りなく進めなければならないものだという信念を共有する共同体に参加したならば、そのバッティングはおそらく厳しいものになるだろう。ここで新参者のチャレンジ精神は古参者にとってはリスクでしかないからだ。とくに日本の組織の場合はハイコンテクストで文脈への依存性の高い組織が伝統的だから、新参者の参加受け入れに際してスタイルの相違が最大のリスク要因になるのも故ないことではない。
権力のゲーム
「言わなくても分かるだろう」と思っていたことが周囲には共有されずに後になって「どうして言っておかないのか」とクレームを受けるというのは職場でよくあるケースだが、こういったコミュニケーションの齟齬もスタイルの相違から生じるものである。そして、たかがスタイルとあなどることもできない。内部の凝集性の高い実践共同体の場合、スタイルの差異がコミュニケーションを不可能にさせてしまうほどの感情のもつれを生じさせてしまうことさえある。深刻な場合はいじめやハラスメントの原因にもなる。
「いくら学校で勉強ができても、仕事ができるわけじゃない」というような言葉をどこかで聞いたことがある人も多いだろう。学生が就職をして社会人となるトランジションで高学歴とみなされる人たちに浴びせられる先輩からの言葉として典型的なものだ。要するに、学校で評価される文脈とこの職場で評価される文脈は違うということを言いたいのだ。
「高学歴」はブランドである。「東大卒」はその象徴だ。しかし、それだけで評価される意味論的な価値などは存在しないことを確認しておきたい。価値を定めるのはあくまでも語用論的な文脈なのだ。
畢竟、肩書の価値は文脈を抑えることのできる実践共同体の先輩や古参者がその価値の決定権を握っている。だから、一見輝かしいものと思われる「東大卒」の肩書でも文脈如何ではまったく違った価値づけにされてしまう。
仕事の進め方の改善を口にすれば「東大卒はさすが頭がいいですね」と皮肉られ、経験不足からでも軽率なミスをすれば「東大卒なのにそんなこともできないのか」と指摘され、そして、冒頭の言葉に至る。要するに「そのスタイルが気に喰わない」というのである。
事の本質は「高学歴」という脱文脈的に価値のある肩書をもった存在から、文脈のぬかるみにおいて、その価値を剥奪しようとする権力のゲームにある。別段「高学歴」だけに関わる話ではない。地方に出向した本社社員でも、海外出張から帰国した幹部候補生でも、MBAを取得して採用された新社員でも、どの場面でも起こりうることだ。どの職場にも文脈は存在していて文脈は価値と権力を生みだすのである。
スタイルはアフォーダンスを見いだす能力の偏差である。実践共同体に参加する新参者のスタイルと、共同体に共有される伝統のスタイルに差異があれば、そこには権力のゲームが生まれてくる。古参者にとって、新参者のもちこんだスタイルの差異は、評価されるべき個性とはならない。むしろ、逸脱そのものであり、即座に矯正されなければならないものと化す。
日本の共同体で強く要求される「空気を読む」や「協調する」といった「美徳」は、言われずして周囲と同じアフォーダンスを感知することにほかならない。アフォーダンスは未来を予期させ行動を促すものだから、スタイルが違えば、別々の未来を見て別々の行動を取ることになる。結果、スタイルの違う相手からしてみたら、次の行動が予期できないわけだ。内部の古参者にとって次に何をするのかがわからない新参者は不快な存在であり、さらには恐怖さえ引き起こす存在とみなされる要因となる。
熟達者の充たされざる意味が新参者のモチベーションを高めるという話には触れたけれど、ハイコンテクストな共同体においては、反対に新参者の充たされざる意味が熟達者にとって苛立たしいものとなりえるのだ。新参者の充たされざる意味を支えている文脈を古参者が奪い取ろうとする権力のゲームは、ここから生じてくる。
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東京大学情報学環の中原准教授のブログに「つめミーティング」なるものが語られていてとても興味深く読ませていただいた。「つめミーティング」を中原准教授は「激上司から部下に対してなされるネガティブな詰問」と定義している。
「つめミーティング」で上司が用いる常套語のひとつは「なぜ、できなかったの?」だ。しかし、これはできなかった理由を求めているものではない。ここで求められている言葉は「自分の行動が悪かったのでダメでした」という言葉だけである。「できなかったことがすべて自分にあったことを無条件に認めること」以外のものではありえない。「自分が原因の根源であること」を直接部下の口から「言わせること」だけが目的だ。
次にこの上司が口にする言葉は「で、どうすんの?」であって、それに対しても「正しい」答えはすでに決まっている。「絶対に、今度はやります。やらせてください!」の一言だけである。このミーティングの要点はふたつだけだと中原准教授は指摘している。部下による「だめだったのは、自分のせいだ」という自己への原因帰属と「絶対に今度はやってみせます」という宣誓である。
結局、この「ミーティング」なるもので上司が何をしたかったのかといえば、部下に対して自分が絶対的な優位にいるという文脈を張ることだけなのだ。部下が何を口にしようとその文脈の意味は認めない。自身のいる文脈だけでのみ意味づけを許すのである。どちらにしても、部下は上司の文脈を受け容れざるをえない。しかも、自分のいた文脈が誤りであることを認めたうえで、だ。相手に対して自分が下であることを認めさせるためだけの「マウンティング」の儀式なのだ。
「高学歴」を引きずり下ろす文脈の権力ゲームと構造は同じである。相手の文脈を認めず自分の文脈でしか意味づけをしない。それをしている限り文脈の支配者は決して負けることがない。振る舞いの評価、その意味づけは徹底的に遡行できるから後出しジャンケンでかならず勝てる。
高学歴の新卒職員が気に喰わなければ、そして、彼を自分の下に引きずり下ろしたいのならば、方法は簡単なのだ。新卒の部下が仕事について尋ねてきたら「頭いいんだから、それくらい自分で考えろ」と突き放し、彼が自分で工夫して仕事をしたら「どうして、自分勝手に仕事をするんだ」と非難すればよいのである。どちらに転んでも彼の行為を否定することができる。意味づける文脈は決して彼に与えられることはない。いつまでも我が手中に保持していられるのである。
残念なことに権力のゲームは無自覚的に行われることが大概だ。自分たちの文脈にそぐわない相手を「だらしがない」「やるきがない」「協調性がない」という眼差しで見てしまえば相手のそういった要素ばかりを見てしまう。見たいものを見ようとして見たいものしか見ないのが人間の無意識的な欲望ならば評価したくない相手には評価できないものしか見ないのは必定である。
人間は完全ではないからどこかにかならず綻びがある。探してしまいさえすればいつでも綻びを責めることは可能だ。結論がすでに決められている文脈のなかでは、どんな工夫をしたとしても、どんな努力をしたとしても、決して認めてもらえず評価も得られない。何をしても裏目に出るという悪循環へと落ち込んでしまう。相手を肯定した上で意味づけるイエス・アンドではなく相手を否定してさらに意味を奪い取るノー・バットなのだ。
文脈を奪われれば人は何をしたらよいかわからなくなる。何をしても思うようにはならず、まるで反対の結果しか起こさないとすれば、行動することそれさえもできなくなる。これはある種の「ガスライティング効果」であって、このような状況に落ち込むと人間は急速に「学習性無気力」へと転落していく。上司や周囲の否定的な言葉をすべて受け容れざるをえなくなり、自身の価値観をすべて失っていくのである。
厳しい労働環境に心を病んで仕舞った人の精神状態とカルト集団にマインドコントロールをされた人の精神状態が似通ってくるのは(パートナーのDVの為すがままの人もそうかもしれない)一切の文脈を奪われて丸裸にされてしまった人の酷薄さの現れだ。
8-1-2. 主体の罠
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは西洋世界において「告白」という制度が巧妙に権力を構成していたことを指摘している。告白とは所謂「懺悔」のことだ。中世カトリックの教会には告解室が備えられていた。告解室では人々が胸に秘めた明かせぬ罪を告白する。罪の告白を聞いているのは神を除けば神父ただひとりだ。
他者に向けて自分の罪を告白するという行為は「語る主体」と「語られる主体」とを一致させる効果がある。こうして告白者は「罪を犯した」ということを自ら認め「罪びとである」という文脈を我と我が身に引き受ける。このとき「罪」は彼の揺らぐことのない真理と化す。
同時に秘められた真理を知る唯一の存在である神父は彼に対して強力な権力を有するようにもなる。「罪」を知っている存在がこの世にあるかぎり、彼が「罪」を犯したという文脈が忘れ去られることはない。
フーコーの論じる権力は罪を罰するものとは限らない。むしろ、罪は許されたときにこそ権力を強化することにもなる。権力が外側から罪をとがめるようなことをすれば反発を受けることもある。しかし、罪を犯したと内心から告白したことを許してやれば罪は永続的に残存する。
さらに告白する「主体」(sujet)は自分の弱さを認めてしまうことにもなる。「私は罪を犯した」と神に向けて宣言することは、「強い存在に守られなければ道を誤ってしまう存在」「保護が必要な存在」という文脈に自分自身で自らを置くことにほかならない。ここで神の代理たる神父は「か弱き羊」たちを正しい道へと導いてやる役割=権力をも手にする。こうして教えを求める弱い存在は教えを与える強い存在へと主体的に服従していくことになる。強弱と主従の関係を定める文脈は固定化されていく。
フランス語の「sujet」、英語の「subject」は「主体」という意味と「服従」という意味をともにそなえる両義的な言葉である。告白のプロセスは主体が自ら主体的に服従していく様子をよく見せてくれる。そこからフーコーは「主体とは服従することである」という有名な命題を導いたのだった。
上司が部下に対してする叱責も神父の教えと同様の機能を果たしている。ときにハラスメントすれすれの叱責を「部下のためを思って」「部下を育てるため」と正当化する上司がいるのも新参者の認識のスタイルを形成することが育成であると信じているからだ。そして、部下は自らの非を認めることで自身の身体的なスタイルを「改良」することになる。スタイルの強制は身体の「規律=訓練」(ディシプリン)であり、上司の支配する文脈に適応するために必須の「通過儀礼」(トランジション)なのだ。
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フーコーは権力の行使を一方向的な作用とは考えていなかった。すなわち、権力者が従属者を抑圧するだけのものではない。告白者が自ら主体的に教会に従属していったように、むしろ権力はそれが望まれるとき強力に機能するものなのだ。
新参者(部下)と古参者(上司)の関係は一度成立すれば変わることはないけれど、新参者もいずれ古参者となって新たな新参者を迎える立場になる。そうすれば今度は自分が権力を行使できる立場に転じる。将来その立場に立ちたければいまは服従しておくのが合理的な態度であって、さらにいえば権力を行使できる古参者の姿は輝かしい威光を放つ存在として立ち現れてもくる。だからこそ、新参者はその姿を欲望してなおのこと彼に従おうとするだろう。
権力は魅力あるものを呈示することで作用する。フーコーが権力とは抑圧するものではなく形を作るものであると繰り返し語っているのも、未定型な新参者に古参者が形を与えてやるというプロセスを指してのことだ。フーコー的な権力のゲームは実践共同体の維持のためには必要不可欠なのだ。
大きな物語が信じられていた時代は将来のためにいまを耐えるロジックが無理なく成立しえた時代である。上司の理不尽とも感じられる要求さえも将来のためのステップとして意味づけることもできただろう。だから、我慢もできた。
しかし、大きな物語の消失が共有された現在、将来のために耐えられる「いま」があるかは不透明だ。共同体の存続が信じられればこそ成り立っていた権力も未来の存続が危ぶまれるとしたら、新参者はなんのためにいまを耐えるかわからなってしまうだろう。共同体は意味の文脈を固定するものだから、意味が同一で安定したものであるためには共同体自体が未来にわたって存続すると信頼されていなければならない。共同体の支えに綻びが見えるようなことになれば意味も急速に失われていくのは当然の帰結なのだ。
古参者は古参者で、未来への展望を失えば現在の立場を維持することだけが目的となってしまう。そうなると、未来のためにスタイルを矯正するという場の安定機能も有効に動かなくなる。新参者のスタイルは場のスタイルとバッティングを続け、古参者はそれが許せずにさらに責めたてることを繰り返して、結果、ハラスメントと精神失調が連鎖することにもなりかねない。
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仕事や職業への適性という言葉が云々されることがある。それこそ血液型診断のような性格診断からエドガー・シャインの「キャリアアンカー」といった概念まで玉石混交無数の言葉に溢れている。ともすれば、適性とは一生変わらない性格のようなものにも思えてしまうものであるが本質的には認知の偏り、すなわちスタイルに起因する。周囲の環境にどのようなアフォーダンスを見いだすのか、その傾向の差異にほかならない。個人的な偏りが場の偏りに一致する場合は適性があると認められ、ケンカをしてしまう場合は適性がないとされるだけである。
スタイルと割り切ってしまえば社会の見え方も変わるかもしれない。身体が備えた認知の偏りと場の求める認知の偏りが一致しないから充たされない思いを感じるにすぎないのである。適性やら性格やら変わらぬ本質であるかのように思い悩むことはない。
スタイルには無意識的な欲望や身体化された信念が現れでてくる。欲望や信念に変容があれば当然スタイルにも変化が起こる。はじめは将来のためを思えば好きでいられた下積みの仕事ももっとレベルアップをしたいと思うようになれば疎ましくもなるだろう。スタイルは可変的で可塑的なものである。スタイルに意識を向けることは自分のいまの状態と対話することと等しくこの自己モニタリングが重要なのだ。
インプロの限界
権力のゲームは裏側からインプロの限界を教えてくれるものでもある。イエス・アンドは「イエス」で相手の文脈を受けて「アンド」で自分の文脈を再設定する行為である。だから、インプロのコミュニケーションは意味の文脈が固定されている場合、有効に作用しないのだ。
古参者に文脈の意味を抑えられている状況では、古参者が許す形でなければ「アンド」は「アンド」として認められない。「アンド」が抑圧されてしまうのだ。だから、硬直した職場ではかえって「イエス・アンド」的なコミュニケーションスタイルは疎まれる。「言われたことを言われたように」やればよいのにそうしないからだ。
だから、気をつけなければイエス・アンドは支配と抑圧の道具となる可能性もある。文脈を決める権力を保持する側が文脈に接木される側に対してイエス・アンドを求めることは「言われたことはつべこべ言わずにやりなさい」と受容を強要することに等しい。意味の文脈を一方的にあてがうことにほかならない。
大切なことだがイエス・アンドは本質的に相互的な行為である。自分が「イエス」をされる代わりに、自分が「アンド」されることも認めなければならない。「アンド」の権利を相手から奪うことはイエス・アンドを換骨奪胎する行為にほかならない。イエス・アンドは文脈が強固に固定された場では有効に機能せず、反対に場が揺らいでいる状況でこそ真価を発揮するのである。
【了】
画像著作者:edar
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