著作者_ooznu

8-2.生存の美学

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


イノベーションについて語る前にイノベーションの前提となる権力のネットワークについて書いてきました。つまるところ、権力の争いとは文脈をめぐるゲームです。いかに世界を意味づける文脈を自分の手元に引いておくかが権力闘争の認識論的なエッセンスです。

人間の暮らす場にはつねにすでに先在する権力のネットワークが張り巡らされています。場の文脈を抑えているのは古参者であって、だから、正統的周辺参加も新参者が古参者の文脈に馴染んでいく権力適合のプロセスでもあるわけです。

文脈を固定されてしまえばそこに多様性は失われていきます。共同体の一員として認められ迎えられれば他の構成員と同一の知覚や判断をすることを強いられます。「私」が「私」である唯一性は失われて入れ替え可能な誰でもあって誰でもない存在へと化していきます。


「私」が「ひと」となって匿名化していくプロセスが共同体への参加には不可欠です。しかし、それでは「私」の生存の唯一性の担保される余地がありません。生きづらさや息苦しさはここに生まれてきます。

だから、文脈の匿名な力に抗する術がサバイバルには必要不可欠であって、生き抜くための力はやはり身体に宿るのです。すなわち、それはスタイルの力です。

自分の唯一な身体に宿る唯一のスタイルを肯定すること、そこに現代をサバイブするための秘密があります。スタイルには誰にとっても同じ世界を「私」だけの世界へと意味づけなおす力があります。誰がやっても同じ仕事を「私」だけの意味ある仕事にすることも、誰がやっても同じ仕事のなかに「私」だけにしか見出せない意味を見いだすこともスタイルが教えてくれます。

そして、そのスタイルを発揮すればこそインプロのグッドネイチャーでありえるわけで、グッドネイチャーのなり方を身に着けていればどこでもスタイルの力を活かすことができるはずです。


スタイルとしてのグッドネイチャーを権力のネットワークのなかで生きる術へと読み替えていきます。そこにこそ晩年のミシェル・フーコーが残した「自己のテクノロジー」「生存の美学」「自己への配慮」といった言葉の現在性(アクチュアリティ)も宿るのではないでしょうか。


以下11400字です。


8-2. 生存の美学


8-2-1. 言葉と物

実践共同体へ参加の際に外部のスタイルは矯正される。共同体への参加はアイデンティティの変容さえ求められる大きなトランジションであり、過去の記憶もいちどは解きほぐされて新しいアイデンティティへと結びなおされていく。では、この過程で主体のスタイルは消失してしまうのかといえばそうではない。形を変えて生き延びるのだ。



物のネットワーク

仕事は物を操作して意味を充たす作業だ。料理を作って人に食べてもらうとき「美味しい」と言ってもらえればその意味を充たすことができる。料理を作ることは身体を通じた世界との関わりである。そこで生みだした物(料理)が他者の言葉によって意味づけられ評価されたということである。

 職場においても自身の仕事は様々なレベルで意味づけられ評価を下される。力を入れて完成させた企画書が即座に書き直しを命じられることもあれば、段取りを綿密に組んだはずが当日には誰も段取り通りに動いてくれなくてバタバタすることもあるし、正確を期すために繰り返し確認を取ることが事務的で冷たい対応と取られることもある。

 仕事をする身としてはたいへん残念なことに、行為に伴い生まれた物と行為を意味づける評価の言葉は無縁である。言葉のシステムと物のシステムはまったく別のシステムで言葉は自律したシステムとして物を意味づけていく。「場」において自分のした行為はなされた瞬間に物へと転じる。企画書も段取りも確認作業もすべて物となって評価の言葉へと譲渡されていく。そして、ひとたび言葉の流れに差しこまれたら物は二度と自分の手元には帰ってこない。


職場において生みだした物は滞りなく流通する必要がある。滞れば迷惑をかけられたと四方からクレームを受けることにもなる。あたかも「貨幣」がそうであるように仕事は滞ってはならない。貨幣の滞りは破産につながる危険な事態だ。実際、同額の賃金の支給を受けているのにその生産する物の評価が違えば「給料泥棒」と陰で囁かれたりもする。信用の破産である。

 カール・マルクスが喝破した通り貨幣とは交換可能性である。したがって、AとBが同じ仕事をしたのであれば同一の物として入れ換えることができなければならない。Aのした仕事がBのした仕事よりミスが目立つものであるとしたら仕事は滞ってしまう。

 Aの語る言葉の意味とBの語る言葉の意味が同一でなければコミュニケーションが成り立たないのと同じことで同じ仕事は同じ意味でなければならないのだ。要するに、人によって差異があってはならないわけで、このとき個々の差異性はノイズや染みにすぎない。そのような歪みは矯正されなければならないのである。


職場という実践共同体に参加するということは言葉と物を一致させる操作を学んでいくということに等しい。はじめはミスが多く先輩から修正されていた仕事も次第に先輩と交換可能な成果を出せるようになっていく。

 もっとも、何が評価されて何が評価されないかは共同体の文脈に依存するものだから、ある職場で大きく評価される行為が他の職場ではまったく評価されないということは実に頻繁に起こる。他の文脈に根ざしたスタイルはコミュニケーションの摩擦となる。だから、場の文脈に滑らかに沿うように特異なスタイルは除去されていく。結果、主体のアイデンティティは大きく変容せざるをえない。しかし、このプロセスを通じて彼は共同体の構成員として認められるようになる。

 実践共同体へ十全的な参加を果たす過程は、新参者が構成員として認められていく過程に一致する。共同体の外にいた時代のスタイルは矯正されて共同体の先輩たちと同一のスタイルで振る舞うようになる。ここで先輩たちと同じ仕事ができるということは先輩と交換可能な仕事ができるということにほかならない。交換可能であるということは周囲に未来を予期させることを可能にする。「彼に仕事を任せておいても大丈夫だ」と思ってもらえれば信頼を得ることができる。


新参者は場の正統なメンバーとして共同体の古参者と同じようにものを見て、同じように判断して、同じように振る舞うようになる。要するに「規格化=標準化」されたというわけだ。ブルデューの「ハビトゥス」とは、こうした規格化=標準化の結果として身体に蓄積される資本のことにほかならない。

 しかし、交換可能な仕事ができるということは、その人自体も交換可能な存在へと化すことを意味する。個人は集合的存在としてハイデガーの語る「ひと」へと変容していくことになる。「ひと」は匿名的な一群だ。共同体の「ひと」となることで安心と安全が保証される。しかし、同時に喪失したものもある。すなわち、入れ換えることのできない唯一無二の存在としての自己そのものだ。匿名で入れ換え可能な存在とは誰であってもかまわない存在でしかない。



仕事のスタイル

参加できることだけで強い喜びを得られる共同体や実践の中で自身の「わざ」を磨いていける環境であれば、十全的な参加を深めていくこと自体に重要な意味を見出すことができるだろう。しかし、すべての仕事がそのような共同体に根ざしているわけでもない。

 マニュアル化が完成された現場、自分がいてもいなくてもどちらでもよいような現場、していることの意味が自分から遠く離れてしまう現場、何をしているのか分からなくなる現場、そういった現場は、技術の進んだ現在には数多い。いてもいなくてもどちらでもよいと思える存在には生の実感を得ることは難しい。生の希薄さはモチベーションを食い潰していく。

 ハイデガーは「ひと」へと頽落した状態を現存在の「非本来的」な有り方と考えていた。「ひと」はかけがえのない自己を忘却した有り方であり、本来的に生きていないことに不安を感じながらも、それさえ忘れるために「おしゃべり」に興じて日々をやり過ごして生きている。ハイデガーによれば「ひと」としての「非本来的」な有り方から「本来的」な有り方へと変容できなければ、生の充溢を感じることはできない。

 とはいっても、ハイデガーは非本来的な有り方が悪いものであり、本来的な有り方が善い有り方であると安易に述べたりはしない。人間が社会的な存在である以上「ひと」を拒むことはできない。人間の本質は社会的関係の総体にあると指摘したのはカール・マルクスだったが、社会的関係の網目のなかの一点として、関係性の交差する一点として、人間は存在する。むしろ人間としての本質は「ひと」として有ることにある。


非本来的な有り方が逃れることのできない定めだとしたら、どのようにして人は本来的に生きることができるのか。それこそマインドフルネス瞑想やインプロを通じて、ぼくがずっと書いてきたテーマなのだ。その突破口をぼくは身体に求めてきた。かつて規格化=標準化を受け入れた際、手放さざるをえなかった身体的な歪み、そのスタイルを呼び起こすときなのだ。身体には奪われた意味に再度意味を与える力が潜んでいる。

 いまではプロ野球球団を保有するほどに有名になった企業、その企業の創業者の若いころの話として知られる逸話がある。彼が新卒で某銀行に入職した当時、彼に与えられた仕事はコピー取りだった。コピー取りは誰でもできる仕事だ。単調で意味のないように感じられる仕事である。でも、そのときに彼は「日本一のコピー取りになる」ことを決意したそうだ。ここでコピー取りという入れ換え可能な仕事に対して彼は自身で新たな意味づけをしたのである。

 たかがコピー取りとはいえそこから得ることのできる情報が多岐にわたることは想像に難くない。経営資料であれば現在の経営の状況が分かるし、履歴書であれば誰を採用しようとしているのかが分かる。コピーを依頼されるタイミングで上司の仕事の忙しさを察することができるし、コピーの向きや揃え方も工夫できるだろう。コピー機のボタンを押すだけだからコピーの出来自体は彼が取っても、他の誰が取っても同じである。しかし、それにどのような意味を見いだすかは彼自身の注意の向け方に委ねられている。そこに彼自身のユニークなスタイルが宿る。

 いまでは日本を代表する大企業を身ひとつで打ち立てた創業者だ。学生時代から高い能力をもって大きな野心を抱えた存在だったと思われる。スタイルもきわめて個性的だっただろう。それが新卒者として企業に入れば誰でもできるコピー取りをさせられる。これが企業のスタイルだったのだ。彼のスタイルは一度矯正されて企業の求めるスタイルとへと変容させられた。そのトランジションは苦しいものだったかもしれない。

 しかし、彼の身体に宿るスタイルは眠っていただけだった。コピー取りという仕事を与えられたとき彼独自の意味づけを与えるものとして新たに目覚めたのだ。「日本一のコピー取りになる」という意思は彼を内発的に動機づけ、その意志に導かれた工夫や努力、そこに起こる変化は彼に自己原因性の感覚を覚えさせたに違いない。


   ***


スタイルは人それぞれに独自のアフォーダンスを見いださせる身体の力であった。スタイルの力を信頼すればこそ、誰がやっても同じ仕事という「地」に自分だけにしか見ることのできない仕事の意味を「図」として読み取っていくこともできる。

 「ひと」には同じに「見えるもの」から自分にしか「見えないもの」としてアフォーダンスを見いだしていくことは、外的には差異のない対象に自分だけの内的な意味を読み込むことだ。それは、他者とは違った関係性を対象と取り結び、自分の世界へと取りこむことにほかならない。ここでマーヒーヤがフウィーヤへと転じるのだ。

 「ひと」には一様に「見えるもの」のなかに自分にしか「見えないもの」を見いだしていく能力は、つまるところ、いったい何が自分に取って「見たいもの」なのかという欲望にも深く関わる。自分の「見たいもの」に敏感であればあるほど現在の状況にそこに結びつくアフォーダンスを微細に見いだしていくことができる。

 だから、自分の欲望に自覚的で、それを深く反省することが大切なのだ。「ひと」の欲望に囚われているかぎり「ひと」と同じものしか見えてはこない。「ひと」と違う意味を見いだしていきたいのであれば非本来的な「ひと」とは違った本来的な自己の欲望に気づく必要がある。すなわち、自己の欲望と対話をすることである。


人間の身体には外部のものを内部に取り込んでいく能力がある。杖をつくようになった人ははじめは杖の操作に違和感を覚えて苦労することがあっても、次第に身体の一部分であるかのように杖を扱えるようになる。杖の先で触れたものがあたかも自分の手で触れたものであるかのように感じられるようにまでなる。

 入職した当時、自分に与えられたデスクや備品は空っぽでよそよそしく馴染みのないものに感じるだろう。しかし、年月をかけて使用しているうちに次第に自分の身体に馴染んで愛着あるものへと変わっていく。誰のものでもないものから「私」の痕跡のあるものへと物もまた変容する。ただのデスクが「私」のデスクへと転じるのだ。ウージェーヌ・ミンコフスキーに準えれば、それは「生きられる空間」と呼べるものである。同様に誰にとっても同じ仕事だった仕事が関わり次第で「私」の仕事へと転じていく。

 誰にとっても同じような空間、誰にとっても同じような仕事が、しかし、「私」と関係をもつことによって「私」だけのものとなっていく。その力が「私」の身体には潜んでいるのである。


人は気にしないけれどなぜか目についてしまう。そういった目のつけどころがそれぞれのスタイルの現れだ。同僚や顧客に笑顔で応対することを大切にする人もいるだろう。伝票の数字から現場の動きを想像する人もいるだろう。天気から今日の仕事の流れを予想する人もいるかもしれない。

 個人の身体に刻まれたスタイルは熟達の「わざ」を生みだす土壌となる。もちろん、すべての人が「わざ」を極めるほどのプロフェッショナルとなれるわけではないし、ビジネス的に付加価値の高い仕事に直結するかどうかを約束することはできない。けれど、その人にしか起こせない変化はどこかにかならず存在するはずだ。その変化を細かく見つけていければ、そして、それを楽しむことができれば世界に関われている感覚、自己原因性の感覚を見出すこともできるだろう。

 退屈だった日常の世界と新鮮なきらめきある再会が果たせるかもしれない。それこそマインドフルネス瞑想が教えてくれる日常の輝きであり、ポジティブ心理学やロゴセラピーの大切にする「幸福」ではなかったろうか。



身体の光学

身体のスタイルは、余所余所しかった外的な環境を親しみやすい親密な環境へと変えていく力をもっている。スタイルは誰のものでもない物を「私」だけの物へと変えていく。仕事は入れ替え可能でもスタイルは入れ替え不可能だ。誰がしても同じ仕事に「私」の身体が「私」だけの色をつけていくのである。

 直進する光がレンズを通るときに屈折をするように「私」に届いた物が「私」を経由するときにそこに秘かな屈折が生まれてくる。ときにノイズとしてミスや失敗の原因となり、ときに「私」が唯一の存在であることを教えてくれる。だから、ささやかでも世界に差異を生みだしている、その細かな変化に気づくことに価値がある。世界と関われている感覚、世界に変化を生みだしている感覚、「わたしはできる」の感覚は、内発的な動機づけを生みだす重要なきっかけになるからだ。


   ***


フランスの宗教史家ミシェル・ド・セルトーは新たな抵抗の形としての「日常的実践」について語っている。共同体の成員をフーコー的な規律=訓練へと向かわせる「一点透視法的」(パノプティック)な権力の「戦略」に対して、成員は日常的な実践の「戦術」において抵抗するというのだ。抵抗と言ってしまえば立ち向かって対抗する姿が思い浮かんでしまう。より正しくはすり抜けていく、身を躱していくと言った方がよいように思う。

 戦略は規格=標準化された普遍的なロジックの道具である。それに対して日常的な戦術は個別具体的な文脈で細かく使用される弱者のトリックだ。上から押しつけられた使い勝手の悪いマニュアルを密かに現場にあわせて改変して使ってしまう。戦略を巧みにかわす戦術の作法はそういうものである。

 ド・セルトーは、スペインに征服された南米のインディオが押しつけられたキリスト教の信仰を巧妙にすり抜けて自身の文化へと組みこんでいったことを指摘している。日本においては、公的に信仰を禁じられた隠れキリシタンが秘密裏に仏像にマリア像を仕込んで信仰を守った例がそれに近いだろうか。外的に押しつけられた現実に対して露骨な対立をするのではなくその環境を巧みに活用して自分たちのものにしてしまう。それが日常的実践のエッセンスである。

 やはり、文化的な活動にそれはよく見られる。ジャズは北米南部の黒人の生んだ音楽だ。当時黒人たちは差別され抑圧された暮らしを余儀なくされていた。貧しく教育を受ける機会も制限されていた。そのような状況で、白人たちが使い古した楽器や南軍の鼓笛隊から流れてきた楽器をかき集めて白人のする音楽の真似ごとを始めたのがきっかけで、ジャズは生まれた。正統な音楽の教育を受けたことなどない黒人が白人のしている音楽を見よう見まねで始めた遊びが、遂には押しも押されもせぬ音楽のジャンルとして今日の地位を確立したのである。白人たちの音楽という公的な文化を黒人たちは密かに奪い去り、いつの間にか自分たちのものにしてしまったわけだ。


ミシェル・ド・セルトー自身は言語に強い興味をもっていた。フランスはフランス国内でさえオック語、アレマン語、ブルトン語、バスク語をはじめとした多言語国家であって、統一的で公的なフランス語を話すフランス人ばかりではない。日本なら多様な方言が思い出されるけれども、フランスもまた多様な文脈でフランス語は使用されて各地で微妙な綾をつけられていく。

 国外にまで視野を広げれば地中海南岸のアルジェリア、西アフリカのマリ、東南アジアのカンボジア、カリブ海のハイチ、中東のレバノンといった地域でもフランス語は使われている。ここまで広くなれば「正しいフランス語」を話す人の方が少数であるかのように思われてくる。公的な唯一のフランス語は各地の文脈において多様で壊れたフランス語として利用される。これが戦略と戦術の関係に類比的だというわけだ。

 戦術はつねに「マイナー」、要するにミクロの文脈でなされるものである。チェコ生まれのユダヤ人でありながらドイツ語で小説を書いたフランツ・カフカの作品に対して「マイナー文学」という評価をしたのは、ドゥルーズ&ガタリだった。

 ドゥルーズ&ガタリは「マイナー文学」に三つの要素を認めている。第一にマイナー文学が多数者=強者の言語をつかって少数者=弱者が創造する文学であること、第二に不可避的に政治的な色彩をもつこと、第三に集団的な価値をもつことである。マイナー文学の書き手はメジャーな言葉を密かに組み替えつつ、それゆえに秘密裏に政治的な振る舞いをしながら新たな言葉を生みだしていく。そして、マイナーな言葉はそれを理解しあえる集団において流通してその結びつきを強めていくのである。


大袈裟に言わずとも、どの職場、どの組織、どのコミュニティにも「隠語」のひとつやふたつは存在するだろう。公的で体面を気にする言葉よりも休憩室や喫煙所でこっそりと共有される言葉の方が共同体の成員の連帯感を高める力をもつものだ。公的な世界は唯一であっても秘密の世界は多層でありえる。

 こそこそした秘密の言葉の共有が陰口を生んでときにイジメの温床になることが日本社会の特徴の一つであることは決して忘れないようにしつつ、自身のスタイルから生まれる戦術で自身の居る場に綾をつけ、周囲の人たちとの繋がりを深めていくことは世界のレイヤーを複数化していくことである。それが自身の身を守る生き残りの「わざ」となることは多くの「社会人」に理解してもらえるのではないだろうか。



8-2-2. 演劇的な身体

ここまでずっとインプロの話をしているのである。グッドネイチャーとは自身のスタイルを肯定していられる心身の状態のことにほかならない。グッドネイチャーなインプロバイザーは自己としてのスタイルを肯定できる。そして、自身のスタイルがいま世界に生みだしている変化の微細な力に気づくこともできる。

人間はすべて文脈のなかに生まれてくる。生まれること自体が共同体への参加なのだ。参加することになった場には、受け継がれてきた意味の歴史が蓄積されている。男であること、女であること、年齢、出自、容姿、微に入り細を穿つまで、意味によって人は絡めとられていくだろう。それから無縁であることはできない。嫌だと拒絶しても、場の存在が消えることもない。しかし、意味も不変ではない。共同体のメンバーたちの複雑な人間関係、その間の権力関係によってつねに更新されてもいくものでもある。



ずらしの演技

著作『ジェンダー・トラブル』などでフェミニズムに新たな地平を開いたジュディス・バトラーによれば、男女の性差は言語ゲームを行為遂行することで了承され、上書きされ、強調される。すなわち「男らしさ」や「女らしさ」は文脈を超越した普遍的なものではなく、それぞれの世界の地平に蓄積されてきた伝統として存在しているものにすぎない。しかし、それぞれの個人が「男らしい」や「女らしい」とみなされる振る舞いをすることで、その都度命を吹き込まれていく。何度でも蘇りその度に強化されていく。

 伝統に根拠はない。偶然そうなっただけである。だからこそ、かえって否定することが難かしい。実体としての男や女があるわけではないから、いくら否定したとしても残ってしまうものなのだ。それゆえに男による女の支配を打倒するという古くからのフェミニズムの身振りは失敗する定めにある。男と女の対立は根拠のない相対的な関係性にあるにすぎない以上、男を打倒すれば女もなくなってしまうのだ。だから、せいぜい女が男になる結果を生みだしたにすぎない。バトラーは先輩のフェミニストを厳しく批判する。

 伝統として自明化した「男らしさ」や「女らしさ」が厳然として存在する以上、否定することはできない。できることといえば、その網の目をかいくぐろうとするくらいで、伝統に定められた振る舞いをすこしずつずらしていくことのほかにはない。「女」が「女らしい」服装を着なければならないのなら、あえて「男らしい」服装をしてみる、あるいは一見「女らしい」と見える服装をしながらも近づいてみると「男らしい」アイテムが見え隠れするというように違和感を演出するのである。言語ゲームの規則をわざと外すこと、ここに権力の駆け引きがある。


バトラーの「わざ」はド・セルトーの「日常的実践」に非常に近い。ド・セルトーは「かつら」を意味した「ペルーク」という言葉を好んだ。「かつら」をかぶって変装するようにみんなが従わなければならないルールの下でその編目を密かにかいくぐる「わざ」を仕込むわけである。

 人が投げ込まれる状況には権力の編目が細かく張り巡らされている。だからこそ、ネットワークの内部に投げ込まれて生きる人間にとって、自分自身の力場を形成していくことが重要な価値をもつのだ。周囲から与えられる文脈の力を受けいれつつも、かいくぐり、自分自身の文脈へと秘かに編みかえていくこと、である。そのために状況のなかでつねに実践を続けていく身体的な「わざ」を磨いていくことは欠かせない。



自己のテクノロジー

「わざ」の概念を仕事をするためだけの技術から自己自身の生き方を形作っていくスタイルへと拡張していきたい。晩年のミシェル・フーコーは生き方を生みだしていく「わざ」を「自己のテクノロジー」と呼んだ。テクノロジー、すなわち「わざ」としての技術である。

 フーコーは「自己」の生命を一個の芸術とすることと語っている。権力の網目の内にあって身体に刻まれた経験を美的なハビトゥスへと変容させ、ひとつひとつの振る舞いに芸術としての意味を、すなわち周囲から見られ周囲に見せるものとしての美的な意味を身にまとわせることだ。その取り組みは「生存の美学」の呼び名で知られている。インプロの言葉を使えば、生存の美学とは「自己」をグッドネイチャーなものとして磨き上げることにほかならない。


晩年のジョン・デューイはミシェル・フーコーの晩年を先取りしていたように思われる。『経験としての芸術』はデューイ哲学を芸術の領域へと拡張した晩年の労作だ。しかし、一般的な美学や芸術論の書と違ってデューイは芸術を「物」とは考えない。芸術の本質を詩や絵画や彫刻のような形のある物に求めることはしないのである。したがって、美も形に宿るものではない。そうではなくて、芸術とはすべて人の経験なのだ。「美しい」と深く感じること、経験をすること、それが芸術なのであって作品としての物はそれを誘発する媒質にすぎない。

 デューイにとって、美的な体験とは経験の完成させる体験である。すなわち、人間は周囲環境と関係することによって経験を形作り、そこから習慣を生みだしていく。習慣は人間が環境から影響を受けることと人間が環境に対して影響を与えることとの相互作用で形成されていく。

 習慣は安定した関係性を維持するものだが、あるとき旧来の習慣では対処できない葛藤や混乱が起こることがある。この危機を乗り越えて新たな習慣を獲得するとき、人間は成長を遂げて過去の古い習慣と未来の新しい習慣を統合することができる。これが経験の完成の瞬間であり、デューイにとってこれこそ美的な経験にほかならない。だから、芸術の経験とは、人間を刺激して揺さぶっていままでの考え方や感じ方の習慣を解きほぐしてしまう、そして、新たな習慣へと更新してしまう、そういう経験なのだ。


ミシェル・フーコーの「生存の美学」も自己の周囲にある権力関係や言語ゲーム、それに担われる意味のネットワーク、そういった世間の習慣を自己の身体と結びつけて新たな別の習慣として結晶させることにある。それこそデューイ的な美的な経験にほかならず、そうすることで自己の存在を芸術作品とすることを目論むのだ。

 したがって、フーコーの「生存の美学」は生き方の実践として倫理的な色彩を帯びる。美と倫理を結びつけようとするのはカント以来の伝統であって、なにもフーコーに特別なことではない。実際、フーコーの「生存の美学」はマッキンタイアの「徳」の倫理と程近いところにある。

 マッキンタイアの徳の理論も、所属する共同体に伝えられてきた諸徳のなかから自身の理想とする徳を選び取ること、そうして引き受けた徳を自身のスタイルで磨き上げていくことにあった。マッキンタイアの表現を借りれば、徳の物語を自身の身体をもって演じることだ。徳の完成を主体の完成と一致させること、それもまた「自己のテクノロジー」にほかならない。


告白する主体は服従するための主体だった。けれど、自己のテクノロジーを操る主体は周囲の他者との相互関係の間に生まれるエージェントとしての主体である。このように、他者との関係性のなかで自己を作りあげていくプロセスを、フーコーは「自己への配慮」と呼んでいる。ここにはハイデガーの「ゾルゲ」の概念が谺している。だから、これは「ケア」の話なのだ。

 芸術作品が見る人に影響を与えるように芸術としての生き方、そのスタイルも周囲に影響を与えていく。デューイにとって芸術とは美的経験のことだったから、作品を作る人ばかりが芸術家なのではなく、美的な経験を深く味あわせてくれる生き方をする人もまた同様に芸術家であり、そして、他者の生き方に感銘を受けることのできる人も芸術家なのだ。

 だから、生存の美学とは互いに互いの生き方、そのスタイルに影響を受け影響を与え、触発しつつ触発され、そういったコミュニケーションを重ねていく生き方のことにほかならない。マッキンタイアが徳の物語を「申し開き=説明」の反復によって形成されていくと考える点ともそれは符合する。


   ***


自己の身体に分かちがたく結びついたスタイルは実践の共同体に参加することでときに異質なノイズとして除去や矯正の対象になる。入れ替え不能な唯一性は規格化=標準化を受け入れて入れ替え可能なものとされる。しかし、スタイルはそこで潰えてしまうものではない。規格化=標準化された環境のなかに自分だけの唯一性を生みだすものとして身体の奥底で密かに機会を窺っているのである。

 だから、自己のスタイルを振り返って存在を芸術へと変容させる「わざ」を磨くことは、入れ替え可能な希薄な存在を唯一の存在へと切り替えるスイッチとなる。カール・ヤスパースジャン・ボードリヤールの口ぶりを借りれば、入れ替え可能で透き通った世界にあえて汚れやシミをつけて「暗号」と化してしまうのだ。自分だけにしか読めない意味を世界に記していくのである。それは現在の社会に生きる知恵であり、力となるだろう。


とはいえ、労働の環境は厳しさを増している。「ブラック企業」という言葉も定着した。余裕もない現実も存在するだろう。しかし、フランクルは強制収容所の過酷な環境でも人は意味を見いだしてきたという事実を教えてくれる。

 もっとも、意味を見いだすこととその境遇を甘んじて受け入れることが等しいわけではない。周囲や世間が当然として受けいれている現実があったとしても、しかし、それの異常さに気づいてしまったならば、その感覚を隠したり、否定したりすることはないのだ。違うものは違うと感じればいいし、言ってもいい。覚えた違和感もまたスタイルからの呼びかけである。すなわち「あなた」の身体が伝えてくれる「あなた」自身の真実なのだ。

 周囲の現実が現に存在することは否定できないけれど、それを受け入れるか、拒むか、逃げるか、それは「あなた」の決断にゆだねられている。そして、もしその現実を変えたいと決意するのであれば、そのときこそ、その仕事は「あなた」の使命となるだろう。このとき、共同体によって否定されたスタイルの異質さこそ、その共同体に変容を生みだすための力になる。身体のスタイルが「あなた」にしかできないミッションを伝えているのである。


【了】

画像著作者:ooznu
画像は著作権フリーのものを使用しています

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