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8-6.Democratic Innovation

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


「ヴィジョン」「デザイン」「リーダーシップ」の交差配列(キアスム)を辿ることで、スタート地点に着いた人たちが語りあうことで生まれるナラティブがイノベーションを駆動することを書いてきました。

長かったこのテキストの旅もここで本編は最後です。最後にヴィジョンの生みだすナラティブの交差に「民主主義=デモクラシー」の可能性を託して書いていきたいと思います。とはいえ、ミクロのイノベーションを語ってきたわけですから、ここでいきなり天下国家の洗い直しを語るわけではありません。

デモクラシーは政治制度だけに限りません。人と人が共にする場には必ず権力のゲームがあるように、人と人が関わりあうところにはデモクラシーはつねに生まれます。むしろ既存の権力のゲームを揺さぶり問い直すダイアローグこそここでデモクラシーとして語りたいことです。


現代的なデモクラシーの運動としてユーリア・エンゲストロームの「野火的活動」を、デモクラシーを学習理論として考えるためにジョン・デューイの「学習=コミュニケーション」の理論をそれぞれ取り上げた後で政治哲学者ハンナ・アーレントへと筆を伸ばしていきます。

とはいえ、このテキストのラストを飾るわけです。いかに「デモクラシー」といっても、人の語ったことを語りなおす言葉の反復にほかならないわけで、まさしくオファーの反復、インプロの行為に等しい。その視点で最後はまとめたいと思います。


以下10600字です。


8-6. Democratic Innovation


8-6-1. 野火的なデモクラシー

「暮らしの保健室」は秋山正子ひとりの夢として始まった。しかし、いつの間に無数のフォロワーを生みだして日本全国へと広まっている。ユーリア・エンゲストロームは社会的活動が拡散して次々と結びつきを生みだしていく様子を燎原を渡り瞬く間に広がっていく野火の動きに見立てて「野火的活動」(wildfire activity)と名づけた。マギーズ東京のクラウドファンディングはまさに野火的な活動であった。野火的活動はソーシャルメディアの普及によって、リンクやシェアで次々と情報が拡散していく現代的な状況に似つかわしい言葉であろう。

 ここでぼくのメンターである東京大学医学部の孫大輔総合診療科医の「みんくるカフェ」の活動についてコメントしておきたい。孫さんは総合診療科医である。心臓、肝臓、腎臓といった臓器のスペシャリストではなく、患者の体や暮らしを全体で見る医師だ。だから、患者との対話を重視する。でも、病院の診察室で白衣を着た医師に対して患者はなかなか心を開いて本音を話したりはしないものである。そこで、白衣を脱いだ医師や看護師など医療従事者と患者や一般の市民がフラットな関係で対話をできるカフェトーク型のワークショップをカフェやレストランで始めた。それが「みんくるカフェ」である。

 医療者と市民との対話の場「みんくるカフェ」は2010年が第1回である。医療者のするダイアローグイベントとしての先駆けであり、フォロワーも数多い。「みんくるファシリテーター養成講座」もあって、講座を受講した人は「暖簾分け」の形で自分の暮らす地域で「みんくるカフェ」を名乗ってイベントを開くことができる。いまでは日本各地で「みんくるカフェ」は開かれている。ぼくは第2回の養成講座受講生で地元で2回みんくるカフェを開催している。


エンゲストロームは従来のネットワークという言葉にあった固定的な性質を批判している。ネットワークは既に存在している人と人、部署と部署、組織と組織の関係性の編目であって既存の構造として繋がりを固定するものでしかない。だから、この編目が形成している全体や境界線が揺らぐような事態が起こったときには、葛藤をもたらして限界に直面するものである。

 「みんくるカフェ」のネットワークはエンゲストロームが批判するような固定的なネットワークではない。孫さんが権限を振るってコントロールできるものではない。孫さんの与り知らないところで受講生は思い思いにイベントを開催して新たなつながりを作り、独自の関係性を生みだしていく。まさに野火的な活動である。それはもはやネットワーキングではない。エンゲストローム自身の言葉を借りれば「ノットワーキング」(knot working)だ。

 ノットワーキングとは「結び目」(knot)を作ることである。結び目はいつでも結ばれうるし、いつでも解けうる。だから、特定の個人が中心に居つづけることもない。結び目を作りつづけていく活動がその場その場にエージェンシーを生みだしていくのである。社会的活動の遊動的性質を強調したエンゲストロームにはドゥルーズ&ガタリのリゾームのイメージの反照がある。野火的活動の相互触発を繰り返す運動を来るべき未来のダイアローグ的民主主義の理想の姿として描くことはできないか、考えていきたい。



8-6-2. 学びのデモクラシー

民主主義(デモクラシー)がテーマであってもジョン・デューイを外すことはできない。なぜならば、デューイは学習のプロセスを民主主義のプロセスと同一と考えていたからだ。デューイによればすべての学習は社会的なプロセスである。

 子どもにとっては生まれ落ちた状況、新参者にとっては踏み入れた実践共同体、ハイデガー的に言えば投げこまれた世界、それぞれの場=共同体に個人が適合していく過程が、デューイに従えば、学習者の側からすれば学習であり、環境の側からすれば教育である。したがって、教育の内実は共同体によって必然的に差異がある。

 共同体にはそれぞれに振る舞い方や考え方の型、要するに共同体がそなえる習慣があるからだ。新たに共同体に参加してきた個人は共同体に先在する習慣を自身の習慣へと変えていかなければならない。正統的周辺参加の理論をデューイは先取りしていたわけだけれど、学習とはそれぞれの実践の共同体がもっている習慣に馴染んでいくプロセスにほかならない。

 こうして、習慣は個人の成長の素地になる。しかし、決まりきった行動様式と化した習慣は悪習にも転じうる。人間の行動をすべて型に嵌めてしまい、奴隷のようにしてしまうことさえある。デューイはすべての成長を止めるもの、変化を抑えつけるもの、可能性を奪うものを拒んだ。人間は可塑的な力をもっている。新しく適切な行動のスタイル、望ましい行動のスタイルを自身の力で作りだしていくことができるのである。人間のつくる共同体や社会であっても個人が自ら変容しようとする力を否定してはならない。


デューイは変わることを肯定する。変化は彼にとって否定することのできない価値であり、最大限の賛辞をもって歓迎されるべきものである。もちろん、共同体にとっても価値あることで必要なことである。なぜなら、古くからの習慣では対応できない出来事や困難はいつ何時でも起こるからだ。

 共同体に生成した変化は、危機や破局として目を背けるべきものではなく、むしろ新たな成長や新たな習慣を得るためのチャンスとして利用していくべきなのだ。デューイによれば民主的な社会の起点はここに存在する。



仮説による民主社会

デューイにとって学習とコミュニケーションはそもそも等価である。学習とは環境との相互作用で生まれるものだけど、この相互作用自体が異質な他者とのコミュニケーションにほかならない。ぼくが不慣れなノミをつかって木材を削ろうとするとき、はじめは節にあたったりして思い通りにはいかない。でも、続けていけば節があっても少しずつ削れるようになっていく。このときぼくはノミの使い方に熟達し、木の扱いを学習しているのだけど、同時に木とコミュニケーションをしているのでもある。

 思い通りにならない木という他者に面して徐々に関係性を作っていく、それがコミュニケーションとしての学習であって、相手が人間であっても同じである。このコミュニケーションに基づくべきものとして民主主義はある。


社会が学習をしなければならない瞬間はそれまでの習慣が通用しない危機の瞬間である。表面化した「問題」が社会の地平をグラグラと揺さぶってくる。だからこそ、ここで問題それ自体との丁寧なコミュニケーションが必要になる。このコミュニケーションはただの会話ではありえないので、ボーム的に「ダイアローグ」と呼ぶのが適当だろう。

 危機の局面では問題そのものと真摯にダイアローグをする必要がある。それは同質な社会のいままでの習慣がもはや通用しないことを認め、異質な誰かの知恵に学ぶことを認めることにほかならない。ここで生じるコミュニケーションこそデューイにとって「思考」の本質である。

 ドゥルーズが「不法侵入」と喩えたように他者との不随意な関係のなかでしか思考は生まれてこない。思考とは不確かな状況、未完成な状況、中途半端で宙ぶらりんの状況にじっと留まることなのだ。カオスのような状況でなんとか解決の新しい習慣を生みだそうとするのである。それをデューイは「探究」(inquiry)と呼んだ。探究は行きつ戻りつの試行錯誤である。最終回答をいきなり見いだすことは不可能だ。仮説を立ててみてそれで通用するか検証してみる地道な作業である。

 仮説を立てること自体がいままでなかったことを生みだそうとする創造的な行為に等しい。そして、その検証は多数の視点から確かめてみるコミュニケーションの行為にほかならない。創造とコミュニケーションの間を振幅する探求を経ないかぎり、新しい習慣の獲得としての学習と成長はありえない。これがデューイ的なイノベーションのエッセンスである。


デューイにとって望ましい社会とは内部的にも対外的にも個人がそれぞれ経験したことを自由に伝達できる社会であり、自由な相互作用によって社会の仕組みを柔軟に変えていける社会である。そこに民主的な社会の理想を置いた。

 したがって、コミュニケーションに基づいた社会において有為な能力とは、他者と関わり相互作用をするプロセスに参加する能力とみなされる。他者に自身の経験を伝達するためには、まずは自分の経験を他者にも理解できる形にして伝えることができなければならない。考えは形になってはじめて他者に伝わるものになり、そこにコミュニケーションが生まれるのである。それはデザインの原理にほかならない。

 デューイは子どもたちに均質で画一的な教育を一方的に施すのではなく、多様さと共存できるような環境を提供することが重要だと論じていた。他者との対話に耳を傾け、他者の価値ある経験に学ぶことのできる力を育てることこそ、教育の最大の目的である。だから、多様な人種、多様な信仰、多様な習慣をもった子どもたちを集めてごちゃ混ぜで学ばせることが理想的な学習環境のデザインだとも考えていた。自身の考えを形にして伝え、他者の考えを読み解いて学ぶことができる、いままでこのテキストで使ってきた言葉を使えば、それは自身のスタイルをもつことであり、自身の「わざ」をもつことに等しい。


   ***


社会の困難や問題を前にして「こうであったらいい」という未来を見せることがヴィジョンであり、ヴィジョンを示すことがリーダーの役割であることに間違いはない。しかし、リーダーのみせるヴィジョンだけが最終回答ではない。ヴィジョンはそこから民主的な対話が始まる起点となるべきものである。

 デューイの目からすればヴィジョンは「仮説」である必要がある。プラグマティズムの伝統からすれば、伝統的な論理推論の方法「演繹」(deduction)「帰納」(induction)に続く、第三の方法が「仮説形成」(abduction)だ。ヴィジョンはこの「仮説」(アブダクション)でなければならない。アブダクションであればこそ、それをテーマに人が集って、それぞれの経験を語り、確かめあい、検証して、より望ましい習慣を生みだそうとする「探究」がそこに生じる。


デューイの後継者を自認するリチャード・ローティ『アメリカ 未完のプロジェクト』において民主主義において重要なのは「知識」ではなく「希望」であると語っている。知識は決まりきった最終回答であってそれに当てはめるだけの死んだ枠組みでしかない。知識はあくまでも現段階での正しさであって現時点でいくら正しさをアピールしても、だからといって人の心を動かすわけではない。正しいか正しくないかがまだ分からないからこそ、確かめてみようとして人びとが動機づけられることもある。

 ヴィジョンは未来を導こうとする希望の力だ。だから、他者をエンパワーメントするものでもなければならない。他者を従わせるものではなく他者に親しまれ、他者を元気づけるものでなければならない。

 希望を宿すヴィジョンを語るリーダーにはカリスマが宿る。反対に関わろうとする人びとの意欲がカリスマを与えるのかもしれない。卵かニワトリかの話だが、いずれにしても、リーダーがカリスマのある導師的存在であればあるほどヴィジョンは野火的に拡大していくものだ。ひとりのリーダーが発信したヴィジョンは多数の受信者に届き、共有されたヴィジョンへと転じていく。ぼくはそれをマギーズセンター東京のプロジェクトで見たと思っている。



8-6-3. 許しと約束のデモクラシー

ヴィジョンは未来をつくるために、より望ましい社会を導くために必要不可欠なものである。しかし、同時に危うさもある。ヴィジョンの暗い陰についても触れておかねばならないだろう。そのためにハンナ・アーレントの分析に迂回したい。

 アーレントはドイツに生まれたユダヤ人である。第二次世界大戦前、ハイデガーに師事した才媛でドイツ哲学の精髄を自家薬籠中の物とした知性の持ち主だった。しかし、ナチス・ドイツの台頭によってアメリカへと追われる。戦後はアメリカの地でナチスのユダヤ人迫害の事実と向きあいつづけることになる。

 アーレントの立場からすればヒトラーはドイツ国民にヴィジョンを見せたのだ。ドイツとドイツ国民は未来こうあるべきだというヴィジョンである。しかし、ヒトラーの見せたヴィジョンはゴールを設定するヴィジョンだった。ドイツ国民の進むべき唯一のゴールはここだと、それが運命だと見せるものだった。ヒトラーの身体に体現された運命に多くのドイツ国民は命のすべてを捧げてしまったのだった。

 ナチス・ドイツの国家ヴィジョンの前ではそれ以外のゴールや多様な意味は許されなかった。意味は唯一に収斂するように人の心を縛り上げていった。そして、ドイツ国民に非ざる者の未来を根こそぎ奪ったのだった。アーレントはそれを厳しく批判しつづけた。その苦闘は『全体主義の起源』や『人間の条件』などの著作へと結実して政治哲学に不朽の功績として残っている。


『人間の条件』においてアーレントは人間の社会的な行動を三種に分類している。「労働」「仕事」「活動」である。「活動」は人間の生きる社会の仕組みをデザインすることであり、「仕事」は活動に即して有形無形の人工物をつくることであり、「労働」は出来上がった仕事の仕組みのなかで生きることである。交通の利便性を考えて道路や橋の設計を考えることが「活動」であり、次に実際に道路を作り橋を架ける工事が「仕事」であり、最後に道路や橋を使って交通することが「労働」であるとイメージできるだろう。

 人が生まれ落ちたときには社会の仕組みは既にできあがっている。だから、ほとんどの人がそれを自明のものと思いこんでその仕組みに従って生きている。要するに、労働しているのであり、そうして仕組みは再生産されていくわけである。

 しかし、この仕組みも最初は誰かが仕事として作ったものでしかない。人が作ったものなのだから不都合があれば、変えることもできるはずだ。その仕組みに苦しむ人がいるとしたら問いなおしてみればよい。それが活動である。畢竟、労働は一次変化であり、二次変化が活動である。アーレントによれば活動こそ人間の主たる行為であるべきで、そして、活動とは何を措いても言論の活動でなければならない。


活動が言論であるべきなのは書かれた文字の機能にある。書かれた文字は場所と時間を超えていく。文字を読む人のそれぞれの文脈で読まれ、それぞれ別様の意味を生成することになる。言論は他者と意味を交わす営みであって同じ文字を読みながらもそれぞれ別様に生まれてきた意味の差異を比べ、確かめあい、学びあう営みでもある。アーレントは書かれた文字のもつ力に意味をひとつに閉ざさず、そこにつねに揺らぎと生成を生みだす可能性を賭けたのだった。

 ヒトラーとナチスは支配的なヴィジョンによって意味をひとつに閉ざそうとした。ヴィジョンのもつ身体性は人間の身体に宿る欲望を強く刺激する。そうして無意識的な欲望を拘束してしまえば意識の志向性を唯一の方向へと固定してしまうことも可能になる。ミルトン・エリクソンが患者の志向性の固着を催眠によって解きほぐしたことを、反対方向でしたわけだ。

 要するに、意味の多様な差異性を生みだすことのできる言葉の力を奪いさえすれば、人は容易に操作できてしまうのである。ひとつの権威、ひとりの導師、ひとりのリーダーに自身の意味をすべて委ねてしまっては危うい。



象徴界・想像界・現実界

デザインとヴィジョンには細かな差異がある。デザインは意味の形を作ることであり、ヴィジョンはデザインの意味に対して人間が主観的な感情や欲望を乗せることで生まれてくる。だから、ヴィジョンはもろ刃の剣である。

 ゴールを定めるものとしてのヴィジョンは意味を制限してしまう可能性がある。支配と抑圧の道具とも化してしまう。スタートとしてのヴィジョンには人間の非言語的・身体的なエネルギーを触発して活動を生みだしていく力がある。ただし、どこに辿りつくかはわからないリスクもある。このようにヴィジョンには危険もある。けれど、ヴィジョンがなければデザインは実現しない。

 ジャック・ラカンは人間にとっての世界の有り方を「象徴界」「想像界」「現実界」の三つに分類している。「象徴界」とは言葉あるいは言葉の意味作用の領域であり、「現実界」は偶然のままに転変する物そのもの領域であり、「想像界」は象徴界と現実界を繋ぐ幻想の領域のことである。


いまぼくの目の前に偶々ひとりの「女性」が居合わせたとき「この人は天使だ」とぼくは思うことができる。しかし「天使」という言葉はただの言葉だ。辞書を引けば「天界にあり、神の使者として人間に神意を伝えたり、人間を守護したりすると信じられるもの」転じて「心の清らかな、やさしい人」とあるくらいである。「天使」という普遍的な言葉と偶然目の前に居合わせた「女性」に関係はまったくない。それでもぼくは結びつけてしまう。言葉としての象徴界と偶然存在する物としての現実界に接点も関係もないけれど、その無縁なものを繋いでしまうのが想像界の想像力である。すなわち幻想の力である。

 「天使」の意味を担うものは人によって相違する。ある人にとっては窮地を救ってくれた恩人、ある人にとっては我が子のように。それぞれの偶有的な文脈によって変化する。そこに何かしらの欲望が惹起されるのなら感情を生むことにもなろう。このようにして人間の認識や感情は、言葉としての象徴界、偶然としての現実界、両者をつなぐものとしての想像界の三者の絡みあいによって構成されている。


欲望は象徴界・想像界・現実界の交点に生まれてくる。スロベニアのラカニアンであるスラヴォイ・ジジェクはマルボロやコカ・コーラのCMを例に説明している。マルボロはただのタバコであり、コカ・コーラはただの飲料であり、要するにただの物だ。

 マルボロの広告写真には日焼けしたカウボーイや広大な草原があってそこにマルボロの箱が存在する。逞しく勇敢な男、果てしない地平線のフロンティア、それはアメリカ的な価値観の象徴である。この写真のデザインを通じてアメリカ的な価値観がタバコの箱というひとつの物に集約している。このときマルボロはただの物を超えてアメリカ的価値観の象徴へと変容する。

 あるいは、ピリッとした冷たい味わい、ハリウッド映画のスター、マンハッタンの高層ビル、明るい日差しとビーチ、メジャーリーグの歓声、そのようなイメージの集合をコカ・コーラの瓶が担うこともある。

 このようにしてマルボロやコカ・コーラはただのタバコや飲料であることをやめ、アメリカ的ライフスタイルの象徴として憧れを誘う対象へと転じる。したがって、マルボロやコカ・コーラは複数の意味を固定するものとして、ここでクッションの綴目の役割を果たしているのである。


   ***


デザインは意味の枠組みとして象徴界に属する。しかし、言葉だけのデザイン、ロジックだけのデザインでは具体的な文脈、すなわち物の領域に根づくことはできない。だから、想像界に属するものとしてヴィジョンが媒介として必要となる。

 クリッペンドルフが人間中心的なデザインをナラティブとして語ることができたのも、物語がクッションの綴目として多様な存在をひとつにまとめることができるからだ。しかし、物の世界の偶然性を忘れてしまい、いまある世界が必然的で絶対のものだと思いこむとそこにヒトラー的な暴力さえも生まれてくる。恋愛の悲劇が「この人が私にとって絶対の人なのだ」と思えば思うほど悲惨になっていくように。

 文脈が違えば言葉の意味は変わる。いまの意味は偶々いまの文脈に着地したからであって、他でもそうとは限らない。自身の偶然性を忘れないこと、言葉は語りなおされるものであることを忘れてはならない。象徴界・想像界・現実界が適切な関係を保っていることは人間の実存にとっても、社会の在り方にとっても重要なことなのだ。


インプロを通じてぼくは象徴界・想像界・現実界のバランスをとることを学んできたのだと思っている。プレイヤーのオファーはただの言葉である。でも、他のプレイヤーはそこに無数の幻想を見てしまう。そして「絶対それだ」と思いこむ。だから、関わりたくなる。でも、いざ関わってみると思ってもみなかった方向へと逸れていく。偶然の現実に翻弄されるのもインプロだ。でも、もう一度イエス・アンドするのである。

 言葉を無くすことができないかぎり、そこに他者と偶然が入りこむ余地が必然的にやってくる。思い浮かべた幻想をオファーという言葉で伝えなければならないのは、ジレンマであり、スリリングであって、インプロのエッセンスはそこにある。畢竟、インプロのシーンにおいて象徴界・想像界・現実界が絶妙な相互作用を見せている。だからこそ、人と人のコミュニケーション、大きく言えば民主主義、その前提としてインプロ的な価値観をぼくは大事にしたいのだ。



散種する言葉

アーレントはアメリカの地で出会った民主主義の理念に賭けていた。アーレントによれば活動とは「誰」(who)の物語を語るものである。言葉はそれ自体では、誰のものでもあり誰のものでもない「何」(what)を語るだけの抽象的で一般的な概念である。畢竟「ホワット」がマーヒーヤ的な言葉で「フー」がフウィーヤ的な本質である。だから、活動とは人が自身の経験を語ることで「フー」を顕わにすることから始まるのだ。

 「フー」を語る言葉は「ホワット」の言葉である。そうでなければ人に伝えることは不可能だ。しかし、「フー」の言葉は「ホワット」の言葉だけで汲み尽すことはできない。「ホワット」から漏れ落ちる「フー」が世界に露になるとき、世界にはいままでの「ホワット」では語ることのできなかった新たなものが生まれ出たことになる。そのとき世界は新たに動きはじめる。

 活動するとは始めることにほかならない。ひとつの始まりに刺激されて他の人々も語りはじめる。そのような語りあいのなかで活動は広がっていき無数の差異を生んでいくのである。まさにデューイ的なコミュニケーション的民主主義である。アーレントの政治哲学はデューイの哲学の正統な後継者だ。

 アーレントは活動に二つの性質を認めている。ひとつは「不可逆性」であり、もうひとつは「不可予言性」だ。「不可逆性」とはいちど始めてしまった人には始めたことを否定したり、無かったことにしたりはできないということである。「不可予言性」とはいままで無かった新しいことを始めることが活動なのだからどこに行くのかは誰にも分からないということである。


活動に臨んでは過去にあった尺度に依存することはできない。だから、始めたはいいものの、やってみたら実は失敗だった、実は人を傷つけてしまった、実は罪だったということもありえる。しかし、活動を始めたとき、活動をしているとき、そのときにはまだ分からないこともたくさんある。不可逆的な活動にはそういう傷を負うリスクが否定できない。

 だから、アーレントは「許し」が必要だと言う。活動してしまったことで生まれた失敗や傷も後世の人が許すことができる。そうして苦境から救済することもできるのだ。許しが可能になるのも、もちろん活動が不可予言的なものだからである。

 しかし、活動があくまでも不可予言的なものに終わるとしたら、それはそれで不確かなカオスに投げこまれているだけで人間的な活動とは程遠いものとなってしまう。そこで不可予言性の苦境に対しては「約束」が救いになるとアーレントは考える。未来を約束することで活動においても人間は他者と持続的な関係を結ぶことができる。

 アーレントにとって活動こそ民主主義の祖型となるべきものである。デューイの考える民主主義と同様に活動は多様性を是として、終えることではなく始めることに価値をおく。不可逆性と不可予言性の要素をもつ活動には不安定さが否めないけれど、不可逆性には許しが、不可予言性に約束がそれぞれ対応して、両者の相互作用によって持続的で安定したものとなる。


アーレントは言葉の「散種」の力に民主主義の可能性をかけていた。ひとつの言葉が多様な文脈で様々に読まれることで意味がひとつに閉ざされることを食い止める。それがナチス的な暴力に抗う力を与えてくれる。

 意味を固定しようとする文脈の権力を言葉の差異を生みだす力がすり抜けていく。これが活動の運動である。リゾーム的であり、エンゲストロームの野火的活動にも通じるものである。だからこそ、イノベーションの発火点になることができるのである。

 しかし、ただ勝手に動き回るだけの活動ではない。そこにはひとつの関係性、ひとつの調和がオートポイエティックに立ち上がってくる。多様性を肯定して行き先を定めずに始められたダイアローグが次第にひとつのことを共有していくように。

 「みんくるカフェ」の活動が、そうだった。「みんくるカフェ」はひとつのモデルにすぎない。ひとつのモデルが多様に受容されて受容されたそれぞれの文脈で無数の意味を生成させている。しかし、まったくバラバラの無軌道な運動として生成しているかといえばそうではない。はじめに孫さんの抱いたヴィジョンをみな共有すればこそ、そこにはひとつの関係性として「星座」が浮かび上がってくるのである。

 活動は異質な多様さや不測の出来事を前提にしている。けれど、異質さを相互に認め合うことが無限の逸脱や暴走への歯止めとしても機能することを教えてくれる。無際限な混乱を呼び起こしてしまいそうな「不可逆性」や「不可予言性」が「許し」や「約束」をブレーキとすることで調和のとれたカオスへと転じていく様子は、それこそイエス・アンドとしてぼくがインプロの場でずっと見てきたものだ。デューイからアーレントにつながる民主主義の哲学がここに連なるものであるのなら、インプロの精神もまた民主主義を支えるものとして価値を示せるはずだ。


【了】

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